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一杯目 パパラチアサファイア・モカ
自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。──「コーヒー哲学序説」寺山寅彦。
私は、今日も変わらず終電少し前にタイムカードを切った。パソコンの見過ぎで目がちかちかするし、時々編集ソフトの読み込みマークの幻覚が目の前をかすめる。癖でぎゅっと眉を寄せた顔は、他人が見たらさぞ怖がる顔をしていそうだ。
「石蕗さん、今日もお疲れ様です」
「辻村君もお疲れさま。そっちのコピーの方向性はまとまった?」
辻村君は、いつも同じくらいの時間に帰る残業仲間だった。
ほかの会社はどうか知らないが、この会社はなかなかに残業が多い。福利厚生はあるが、仕事量が多くどうにも残らないと片付かない仕事が山積みなのだ。今日も新しい化粧品のパンフレットデザインがなかなか決まらず、カラーサークルを無駄にいじっていたらこんな時間になってしまった。
石蕗さん、石蕗さんとなにかと話しかけてくるこの後輩を、私はなんだかんだかわいがっている。しかしいつも眉間にしわを寄せた顔で応答してしまうから、怖がられているかもしれない。内心で。
社内では勤務年数がそこそこ長く、専門学校を出て資格も持っているため頼りにされていると自負してはいるが。社内の若い子たちのキラキラとした、くたびれた自分には無い華やかなオーラが、羨ましかったりする。
ズルズルとたまたま印象が良くて面接も通ったこの会社に勤めて、もう今年で十年が経とうとしていた。三十路に入って一年。業界での信用は得ているが、未だそこに春は来ないでいる。
寿退社していく同僚だった人たち。育休をとる先輩。結婚願望を語る年下の事務員の人。
その人たちの笑顔や言葉が、頭にしつこく張り付いて離れないでいた。まだ、出会いもなにも無い自分が、急かされているような気がする。別に直接言われたわけでもないのに、被害妄想が映像になって思考を締め付ける。
「詩乃ちゃんは結婚しないの? 恋人は?」
マイノリティが私を責めてくる。架空の誰かが、言葉の裏に潜んでいる気がしてしまう。
時刻は遅い。だからこんなことを考えてしまうんだ。疲れてるんだ。今日は金曜日。明日明後日は昼まで寝ていよう。
オフィスを出た空は、夏の終わりの夕日を強く光らせて、もう聞こえなくなった蝉の声がかすれて鼓膜を揺らした気がした。
可惜(あたら)夜(よ)町は建物の高さは無いが活気のある住みやすい町だ。病院も学校も商店街も近いし、治安も程よく良い。電車も都心まで数駅程度。観光客はほとんどいないが、地元の人が親切に、だけどさっぱりした距離感で接してくれる。そんな街だ。
居心地はいいと思う。就職と同時に実家を出て、こうして一人暮らしをしていて不便に思ったことは一度も無かった。ただ商店街は規模が大きくて、よく行く通り以外は未だに何があるのかよくわからない。
その日の私は、なんとなくいつもの通りから外れてみた。今思うと危ないけど、疲れて何か楽しい刺激を求めていたんだと思う。
街路樹で影になった通りの本当に隅っこに、その店はあった。
鉱石喫茶ちろり。
鉱石? とか、ちろりなんてかわいい名前だな、とか思って。なんとなく、そう、なんとなく店のドアを開けた。明かりがついていたから、営業時間を確認せずに入ってしまった。
「いらっしゃいませ」
どうやらちゃんと営業時間内だったみたいで、黒髪の店員さんが迎えてくれる。私以外のお客さんは、美人な短髪の女性だけらしかった。
広くなく、カウンター席しかなかったので、私は入り口に一番近い端の席にいそいそと腰かけた。真横にはきれいな水晶みたいな石と苔が入れられた瓶が飾ってある。なるほど、だから鉱石喫茶なのか。店内を軽く見回すと、そこかしこに同じような瓶がある。テラリウム、っていうんだっけ。ライトで照らされているものもあって幻想的だ。
カウンターを挟んで、店員さんが背にしている壁には一面の棚。ずらりと並べられたコーヒー豆が入れられた保存瓶たち。そしてその横には必ず鉱物標本が添えられていた。
きれいな光景に見とれていたら、店員さんがお水を出してくれる。そうだ、ここ、喫茶店なんだった。思わず博物館や美術館にいる気分になってしまった。
慌ててメニューを探すけど、どこにも見つからない。さっき見回した時よりさらにキョロキョロと文字を探すけども、あるのはテラリウムと照明ばかりだった。
「お嬢ちゃん、この店は初めて?」
いつの間にか、同じ客のお姉さんがグラス片手に隣の席まで寄ってきていた。
グラスと吐息からかすかにアルコールの香りがする。
うわ、絡まれた。と思いつつ顔には出さないように返事をする。
「は、はい。通りがかりに鉱石喫茶っていうのが気になって」
「センスいいね。じゃあお姉さんがこのお店の使い方を教えてあげよう」
「矢津波さん……お客さんに絡むんじゃありませんよ」
店員さんが苦笑いでなだめてくれる。暇なのか、カウンターに手をついて話を聞いていたようだ。女の人の声が大きいのもあるだろうが。
「一見さんにやさしくないこのお店の流儀を、親切に説明してあげようと思っただけじゃない」
「それはワタクシの仕事です」
「ゆるゆる店主め」
そこまで言って満足したのか、女性……矢津波さんは元の席に戻っていく。
悪態をつかれた店主さんは咳払いをして、調子を直して私に向き合った。
「ようこそ。『喫茶ちろり』へ。ここは珈琲を楽しむ喫茶店であり、鉱石を眺める標本箱でもあります。ご注文の際は棚の標本からお選びください」
「標本から選ぶ……?」
確かに標本はコーヒー豆の容器の数だけある。しかし名前もわからないし、そもそも珈琲以外のメニューは無いのだろうか。
おろおろする私に、店主さんは笑う。こういう反応に慣れているんだろうか。
「迷ったなら、鉱石に任せてみてはどうでしょう」
「鉱石に、任せる……?」
もう一度棚を見やる。なん十種類の標本たち。夜だからか、照明に照らされたガラスが輝き、濃い影を落としている。艶のある木製の棚は石たちの透き通った光明を受け色づいている。コーヒー豆は逆にそのダークブラウンを濃くしている。貼られたラベルにはなにも書かれていなかった。
上から下へ、左から右へ。視線をフラフラさせていると、ふとキラキラと、ひときわ輝く標本、いや鉱石があった。
朱色混じりのピンク色。ちかちかと点滅する様は今の穏やかなライトではありえないはずなのに。そして、なぜかその光に安心感を覚えてしまった。その奥にある豆は、じっとこちらを見ているようだった。品定めされている。そう感じる。石や豆にこんな感覚を感じるなんて、自分は本格的に疲れているようだ。
癖でまた眉を寄せた。目は悪くないけれど、その石の光は明滅を繰り返している。自分をアピールしているように。
「ゆだねてみてはいかがです?」
黒髪をサラリと揺らし、カフェの制服の胸元、タイピンをいじりながら店主さんはピンクに光る標本を手に取った。
「ワタクシとしては、これが本日のあなたのオススメになるのですが」
おいしさは保証しますよ。と端正な顔立ちの目を細める。その虹彩も、きらりと強く反射が見える。顔立ちや色素が、海外の血が混ざっていそうだ。職場の若い子たちなら黄色い声を上げるかもしれない。そんな感情を持てるほど現実に夢を見れなくなった自分をふいに直視する。感性や、生活習慣が合ってたりしないともうときめきは感じない。美人を鑑賞しても虚しくなるだけだ。そういえば、この店主さんは性別が読めない。この時代、軽い気持ちでそういうのを訪ねるのも失礼になることもある。声色や顔つきからも中性的で、どこかミステリアスな店主さんは標本を手元でもてあそんでいる。断りにくい雰囲気だ。
「じゃあ、それでお願いします」
「はい、承りました」
光は、嬉しそうに強く光ると、点滅を止めた。
「こちらの豆はモカですね。エチオピア産の新鮮なミディアムローストです」
「はぁ……」
と言われてもよくわからないわけだが、適当に相槌を打っておく。珈琲はインスタントを飲むくらいで、こんな本格的な……用語はわからないので説明できないが、機械や専用の道具を使ったコーヒーは数年ぶりだ。おそらくここは個人経営だろうが、チェーンじゃない喫茶店に入ったのもひどく久しぶりな気がする。今更だけど、緊張してきた。常連にしかわからないような暗黙のルールとかあったりしないだろうか。
店主さんは豆を計ると、それを機械に入れた。駆動音が静かな店内に響く。おそらく豆を砕いているんだろう。そのあと、粉になった豆はろ過する道具のようなものに移され、細いポットからお湯が注がれていく。これが「ドリップ」というものだろうか? 珈琲に疎い私でもそれは何となく知っていた。珈琲の香りが漂ってくる。品定めされているような感覚はもう無かった。認められたのかもしれない。ちょっとだけ。
「珈琲は飲む人を選びません」
手元に集中しながら、こちらを見ないで話しかけてきた。もしかしたら、独り言かもしれない。
「ですが、飲む人は珈琲を選びます」
品種、産地、味、香り。そもそもインスタントなのか缶コーヒーなのかドリップなのか。珈琲が苦手な人だって星の数ほどいるはずだ。私も子供の時は苦くって飲めなかった。ここの珈琲は、それを見ているんだろうか。選ぶことはできないけれど、観察だけならできるから。
「あなたは珈琲を楽しめる人だって、安心したんでしょうね」
変わらず店主さんはこちらを見ない。でも、うつむいた顔はほんのりと笑っていた。
シュワシュワと粉は泡立って、膨らんでいく。お湯と一緒に素直に浮き沈みする粉は、私に対して頷いているように見えた。
珈琲もおいしいって思われたいんだ。惰性で、周りに流されて、他人の評価におびえてる私と少し似ている。飲み物は飲み物として。人間は人間として、何かを残したいと思う。だから、それが私の場合恋人や結婚願望に表れているんだろう。珈琲と気が合うなんてちょっと馬鹿らしいけど、私もちょっと気が楽になったよ。って念を送ってみる。よりいっそう膨らみが大きくなった気がした。
ポットに抽出された珈琲はコーヒーカップに移される。カウンター下から出てきたカップは、四角いシルエットに真っ白な陶磁器。
「お待たせいたしました。砂糖とミルクはお付けしますか?」
「あ、大丈夫です」
ミルクはともかく、私は珈琲に砂糖を入れるのが苦手だった。学生時代、一夜漬けのお供によくインスタントのブラックを飲んでいたが、砂糖を入れた時のなんとなく口にへばりつく甘さが好みじゃなかったのだ。ミルクも、ぬるくなるのが嫌でそうそう入れない。わざわざ冷蔵庫やシュガーポッドを開けるのも惜しかったテスト前。そのせいかブラックしか飲めなくなっていた。
ソーサーに、オーロラの光沢が見える包装紙にまかれた琥珀糖が添えられ、目の前にカップが提供される。カップには花の形の穴が真ん中あたりに開いていたが、なぜか中のコーヒーがこぼれることはない。不思議なカップを、思わずまじまじと見てしまう。
「内側を透明な磁器で塞いであるんです。水晶彫と言うんですよ」
この店主さんは人の心を読んでいるように疑問に答えてくれる。
水晶彫。確かにじっくりと見ても穴が開いているようにしか見えない。この透明感は確かに水晶だ。薄めの磁器は手にそっとなじむ。
虹を反射する透明なペーパーを剥がして、琥珀糖を口に放った。外側はサクッとしつつ、中はじゅわりとジューシーな食感。あの輝くピンクと似たこれは、たぶん桃の味だ。甘みが口いっぱいに広がったところで、珈琲を含む。一気に口の中に軽めの酸味と、珈琲特有の美味しい苦みが広がった。あ、美味しい。インスタントと比べるのは失礼かもしれないが。
「美味しい……」
ほうっと湯気混じりの吐息が出た。秋が近づいてきた夜半、まだ気温は暑いものの風は涼しくなってくる頃。暖かい珈琲は緊張をほどいてくれる。締まった表情筋がゆるゆると柔らかになっていく。まだラフな薄着のシャツにのしかかったプレッシャーもこの時ばかりは肩に置いた手を離してくれる気がした。
店主さんは満足げに笑っている。きらりと胸元のタイピンが光ったのは照明の角度のせいだろうか。
「それは良かった」
「ここに住んで長いですけど、こんな素敵なお店があるなんて知らなかったです」
「路地の端の端、街路樹に隠れたこの店をよく見つけたね」
「なんとなく目について……」
矢津波さんはいつのまにか二杯目を飲んでいる。私がカップに見惚れ琥珀糖を嚙んでる間に作ってもらったんだろうか。アルコールの匂いと珈琲の香りが一緒に漂ってくる。このお酒にも珈琲が入っているのだろうか。
「仕事帰り? それで喫茶店で珈琲なんて良い趣味してるねぇ」
「全然詳しくとかないですけど……偶然……」
「ふ~ん。お店に入ってきたとき、なんか浮かない顔してたけど、悩みでもあるの?」
「そんな、顔に出てましたか?」
「出てた出てた。ここのバリスタ、お悩み相談が趣味だから相談してみたら?」
「えっと……」
「あたしは向こうで飲んでるから! 気にせずぶちまけちゃいなよ」
矢津波さんはそう言うとカウンターの一番奥に去っていった。持ってるグラスに盛られた生クリームが揺れている。
なんというか、嵐というか唐突な人だ。
悩み相談……確かに今私は悩んでいる。だけどこれを他人に話すにはいささか気が引ける。
所在なさげに店主さんを見ると、ちょうど目が合った。端正な顔立ちの人と顔を合わせるのが慣れてなくてすぐ逸らしてしまったけれど、気にされてはいないようだった。目の前のシンクでグラスが洗われていく。
まだ、カップの珈琲は半分以上残っている。
「恋のお悩みですか」
「……! どうしてわかったんですか?」
「この標本が呼ぶ人はそういう人が多くて。差し出がましいですが」
ピンクは恋の色。なんて固定観念がある。私も深層心理でそれを意識してしまったのだろうか。
カップの面が揺れる。
また、オフィスを出た時に響いた被害妄想が頭を叩いた。珈琲に映る私の顔は眉間にすっかり跡ができている。オーロラの包装紙はもうただの紙屑だ。
「その……まわりがどんどん結婚していって」
店主さんは黙っている。グラスが柔らかそうなタオルガーゼで包まれていく。
「私にはその、好い人とかも出会いも無くて。恋人がいる人に劣等感とか、嫌な気持ちを抱いてしまって」
悩みを打ち明けるとき、普段はそんなことないのに一言二言話しただけで喉がカラカラになるのはなぜだろう。そのたびに飲み込む珈琲は、涙の代わりに喉を流れていく。
所在が無くて、椅子の下で足首を組んだりシャツの袖をいじった。無音の、外の虫の声しか聞こえない店内は瞬きにすら音が聞こえそうだ。
「結婚、したいなぁって。まわりに急かされてる気がするんです」
後半はほとんど絞り出すようなか細い声だった。自分のちっぽけな悩みの一つだと思っていたのに、思いのほか追い詰められていたらしい。
声に出してみると、その内容のくだらなさと情けなさが浮き彫りになる。
こんなの、ただ言葉だけの焦燥感じゃないか。
「誰かに、早く結婚しろと言われたことは?」
「無いです」
そう、周りはそんなこと一言も言ってこない。これはただの私の独り相撲だ。
磨かれたグラスは、カウンターの下にしまわれる。背の高い店主さんはいちいち膝を折らなくちゃいけなくて、窮屈そうだ。
珈琲に置いていかれた水の入ったグラスはコルクのコースターを濡らす。
やっぱり喉の渇きには水がいい。シンプルな丸みを帯びたデザインのグラスは水滴をたっぷりつけて、じんわりと手を濡らした。冷たさで少し理性が戻ってきて、打ち明けた悩みに赤面しそうだ。
「あなたにとって、それが全てでいいんじゃないですか」
「え」
カランコロン。涼し気な氷の音が鳴る。いつの間にか店主さんはアイス珈琲を作って自分で飲んでいる。細身の長いグラスは店主さんの細い指に似合っている。
なにかのCM……広告に使われていてもおかしくない。売れそうだな。と冷えた頭は存在しないアイスコーヒーの広告デザインを考え始める。どこまでも仕事人間だ。
「周りの色に染まること、それも大切なことではあります」
透明なマドラーはグラスの中で薄茶色を透過している。回された氷も、同じく。
アイスコーヒーは冷たそうに店主さんの手に水滴を垂らす。
「ですが焦って染まろうとするより、そのままでいてもいいんじゃありませんか」
「……いつか恋人ができる、と?」
「いえ……お客様は周囲がしているから。だけの理由で結婚したいんですか?」
「そんなことは……」
そこで少し、ハッとした。
「あとは行動するだけじゃないですか。あなたの感情は間違ってませんよ。焦らずに素直になっていいんです」
口だけじゃダメでしょうけど、あなたは行動できる人です。
知り合って一時間程度しか関わっていないのに、なぜかその言葉にはなぜか説得力があった。
「どうして、そう思うんですか」
空になったグラスをマドラーでいじる。氷の音が澄んでいた。
「気に入られたようですから」
ニコッと笑って、店主さんは言った。
誰に?
「これは当店のサービスです。お受け取りください」
そうして差し出されたのは、一つの試験管。
中にはあの標本と同じ、小さな鉱石が。ガラスの蓋も中が空洞で、そこにはコーヒー豆が一粒入っている。ラベルには「パパラチアサファイア・モカ」と手書き文字でラベリングしてある。
革紐で括られたそれはかわいらしいキーホルダーみたいだった。
中に入っているこれは本物のサファイアなんだろうか。
「え、い、いいんですか。こんな高価そうな」
「気に入られた。と言ったでしょう? この子を連れて行ってあげてください」
「そう言われても……」
「お代はいりません。し、これを受け取ってくださるなら珈琲代もサービスいたしますよ」
「え、っと」
「淹さんは渡し方が怪しすぎ! お嬢ちゃんは遠慮しない! 大人しくもらっときなよ」
矢津波さんは店主さん──淹さんから試験管を奪い取ると、流れるような手つきで私のカバンにつけた。
「なんかの怪しい押し売りみたいな雰囲気だったよ……。それ、確かに宝石だけどカットも何もしてないし小さすぎるからそんな値は張らないよ。この店のショップカードみたいなもんだから貰っときな」
「結局聞いてたんじゃないですか。盗み聞きとは趣味が悪いですねぇ」
「毎回警戒されるんだからいい加減学んでほしいんだけどね?」
はぁ、と矢津波さんはため息をつく。よくやるやり取りらしい。いつもいつも……とボヤいている姿はあまり酔っているように見えない。
「じゃ、じゃあありがたくいただきます……」
「ああ、良かったです」
「ま、お守り程度に思っときな」
ふとスマホを見ると、数字は二十三と表示されていた。深夜だ。
「わ、こんな時間⁉ 私は今日はもう帰りますね」
「はい。初回サービスということでお代は結構です。ありがとうございました」
「あたしはまだ飲むわよ」
私は急いで店を後にした。商店街から家まではすぐで歩きとはいえ、こんな深夜に外にいるのは少し怖い。大通りの明かりをたどりながら、帰路につく。
その足取りは空になったカップのように、少しだけ軽くなった気がした。
カバンに揺れるサファイアは三十路のおばさんが付けるにはかわいすぎる気がしたが、私は好きだった。大人になったからと黒や無難な色でまとめた私物。そうだ、私は昔からこんなピンクが好きだった。今、思い出した。中学も高校も、あざといと言われても身に着けたピンク。いつの間にか封印してしまったこの色が、私だ。
「石蕗さんっ! そ、そのカバンの──」
「おはよう辻村君。これ? 近所の喫茶店でもらったんだ」
あれから数日経ったある日、久しぶりに出勤タイミングが被った辻村君は、驚いた顔で試験管を指さした。
らしくない、なんて言われるかな。でも、私はこの色が好きだから、怖くはなかった。
すると、慌てたように辻村君は自分のカバンから何かを取り出した。
きらりと光る、あの色。
「お──僕も貰ってて、あの、喫茶ちろり、ですよね⁉」
「うん。辻村君も行ったことあるんだ。すごい偶然だね」
同じパパラチアサファイアは、革紐の色だけ違う。まさか後輩とお揃いになるとは。
「よ、よく行かれるん……ですか?」
「ううん、この前初めて行ったんだ。辻村君は常連?」
いつも元気な辻村君だけど、今日はいつもに増してテンションが高いというか、挙動不審だ。会社の先輩とキーホルダーがお揃いって、気まずかったのかな。
サファイアは朝日を浴びてうれしそうに輝いているし、コーヒー豆は静かに見守っているように感じる。
辻村君はギュッと試験管を握りしめた。
「今度、一緒に行きませんか」
チカチカとピンクが、合図のように瞬いた。
「まさか淹さんが、恋のキューピットになるとはねぇ」
「そうと決まったわけではないですけど」
「パパラチアサファイアの石言葉は『一途な愛』『運命的な恋』。わかってて渡したんでしょ?
あの二人に」
「選んだのは石自身ですから」
「躱すねぇ」
夜、店内。あいかわらず矢津波はアイリッシュコーヒーを煽り、店主の淹と駄弁っていた。今日はまだ三杯目だ。
淹も矢津波しか客がいないからか自由に本を読んでいる。この店の営業態度はゆるい。
目線を本から外さずに、感情も乗せない声で淹は呟いた。
「まだ、飲まないつもりですか」
矢津波はにかりと笑った。口端には生クリームが付いている。
「まだ、目を背けていたいのよ」
淹はため息をつく。これももう何度目かのやり取りだ。
背中を押す一杯。人生を少し変える一杯。それがこの喫茶ちろりの珈琲だ。そしてそれを飾るのは多種多様の鉱石たち。
ちろり、と珈琲を楽しんだ一瞬の時間で、永い人生が彩られれば。と願った先代店主。
矢津波はそれに逆らっていた。
しかしだからといって強制する気は淹には微塵もない。この確認作業は、ある種の挨拶のようになっていた。
淹は本を閉じる。
と同時に、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
カバンにお揃いのピンクを下げたお客様が、二人。
今夜の珈琲の香りは、初々しい酸味をまとっている。
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