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三杯目 アウイナイト・グァテマラ
夢をみた。
ただの学生時代のくだらない夢だ。
たわいもない、高校時代の部活の話。
夢は記憶の整理とどこかで聞いたけど、整理というにはあまりに鮮明で、そして自分は違和感を感じながらもそこになじんでいた。あの頃に本当に戻ったみたいに。
あたしたちは音楽室にいて、部活終わりの夕暮れを背に窓際で駄弁っていた。
「浅野さんの声、やっぱ私好きだな」
「木野崎だってあんな綺麗なソプラノそうそうでないよ。少なくともあたしには無理」
こんなこと、当時話したっけ。おぼろげな自我はその答えを示すことはなかったけど、そこにいた私たちは本当に楽しそうで、青春と言って違いない生活を送っていた。
公立佐ヶ坂高校声楽部三年、浅野ことり。人生の絶頂期。
かつての甘いモラトリアム。
親友だった木野崎友子に褒められたアルトボイスは、今はたばこの煙にまみれすっかり曇っていた。
「電子ください。現金で」
コンビニでポケットからチャリチャリと小銭を出す。財布なんて使っちゃいない。そんな大金を持ち歩くわけでもないからだ。ジャージは高校時代地味だ地味だと不評だったくらいグリーン。お世辞にも若いパッションが感じられるとか、運動着らしい爽やかなカラーだとは言えない。
正直言ってみすぼらしい。でも今の私にはそれがふさわしいかもしれない。
この小銭だって、学生時代にバイトして貯めたものを切り崩している。すっかりヘビースモーカーとなった私は、毎日数十本のタバコとともに生活している。青い春は冬でもないのに白い吐息と入れ違うようにどこかへ消えてしまった。
ゆっくりと吸う。吐く。脳みそがチルしていく。嫌なことがちょっとだけ軽くなる。
それはまやかしで、現実は何も変わっていないのだけれど。
「浅野さん、変わったね」
同窓会で言われた、その言葉が未だ刺さって抜けない。
木野崎の声は変わっていなかったけれど、込められた感情は真逆のものだった。
どこで間違ったのか。
声楽コンクールで惜しくも優勝を逃した時。
新入生に副部長としてのプライドをへし折られた時。
推薦で入った大学を中退した時。
考えてみるとポンポン出てくるものだ。
歩きたばこはれっきとした迷惑行為だが、道行く人に嫌な顔をされてもこの相棒が手放せなかった。
寿命が縮むとか、癌になる確率とか、副流煙とか、どうでもいい。
自分勝手に生きてるやつのほうが、得をする世の中なんだから。
ポイ捨ても電車内の飲食も、雑誌の立ち読みも、そんな細かいこと守ってても心労がたまってくだけ。それが私の人生で学んだことだ。
あの新入生は、部活の壮行会パーティーでこっそり酒を飲んでいた。次の副部長はあいつだった。
規律に潔癖だった私はその時価値観が崩れたのだ。好き勝手に生きた人が勝ち組なんだって。
私はその波に乗れなかったんだ。
木野崎に頼りきりだった私の友人関係は大学に入って一気に減り、友達の作り方も忘れた私は履修登録に失敗。なんだかみじめになって、親のため息を聞き流そうとしながら中退手続きを済ませた。
その時からすでに、服にはタバコの匂いが染みついていた。
「このとお兄ちゃんはこんなに立派なのにねぇ」
親戚に言われた。確かに兄は優秀で、推薦で高偏差値の大学院にいる。将来は研究者か。
親は何も言わなかったけど、大学から右肩下がりに落ちぶれた私に目線を合わせなくなった。ため息は、もう聞き飽きた。
塾に習い事に、参考書もたくさん買ってあげたのに。どこで間違えたのかしら。
そんな言葉を深夜父親に愚痴っている母の背中は、私よりもはるかにしゃんと伸びていた。
いたたまれない。この家にいると自分がどんどん嫌いになっていく。
目の下のクマは大学デビューと買いあさったプチプラコスメでも隠し切れなくて。
薬局で睡眠導入剤のパッケージを見て、その値段に戦慄したことがあった。
この世界は睡眠すら金が必要だ。万引きする勇気はなかった。
「喉、乾いたな」
コンビニに戻ってチューハイでも買おうかな。なんて考えていたら、街路樹に隠れた建物が目に入った。ああ、この道、商店街の端につながってたんだ。
日陰になった扉は、秋の今少し物寂し気で。ステンドグラスの窓は日に当たったらさぞ綺麗だろうに、暗く曇っている。
看板に書いてあるのは、「鉱石喫茶ちろり」。ふーん、変な名前。
でもなんとなく気になって、喫茶店なんてオシャレなところに行くには少し、いやかなり場違いな服装だが、気にせずに重いドアを押した。狭い店内だ。
あんま儲かってなさそう。でも店内に所狭しと並べられたテラリウムはセンスがいいと思った。中の石が良い。キラキラ光っててまぶしい青春時代を思い出す。あ、やっぱ嫌いかも。
「いらっしゃいませ」
あたしを迎えてくれたのは美形の店員さんだった。髪は長いし、でも背は高い。性別が読めないミステリアスな雰囲気を纏っている。美人。だけどなんか軽々しく踏み込ませない。そんな感じの人だ。目の色が日本人の色じゃないから、海外の人だろうか。
奥には中肉中背のモサモサ頭のおっさんがノートを広げて何やら熱心に書き込んでいる。
それ以外に客はいなかった。
ネットマップで場所を検索したけど、店の名前は出てこなかった。登録されていないらしい。口コミも見れないんじゃ、店の評価もできないじゃん。
でも私は喉の渇きと、店員さんの顔、ついでに珈琲の香りにつられてついカウンター席に座った。モサモサ頭の一番遠くの席に。変な潔癖さはまだ私に中にあった。
革張りの椅子はゆったりと落ち着けて、あたしは手に持った電子タバコを咥えた。
煙がテラリウムの光を曇らせる。
店員さんはそれをじっと見ていた。あまりにも自然に店内で喫煙したことに気づく。
「ここ、タバコ、オーケー?」
店員さんは興味深そうに私の手元を見ている。
あちゃー、出て行けって言われるかな。喫茶店ってお堅そうだし。
でも、フラフラ歩いて足も疲れてるんだよなぁ。でもでも、相棒は手放せない。
てか、日本語通じてんのかな。
「それって、煙草なんですか?」
凝視してきた目を少し細めて、訪ねてきたのは随分と無垢な質問だった。
この時代、電子タバコを知らない人なんているんだ。ていうか見てわかるでしょ、普通。
この店員さんは随分と世間を知らないらしい。
「そーだよ。電子タバコ知らないの? てか質問で返さないでほしいんだけど」
なんだか自分が汚れてるみたいに感じて、言葉がとげとげしくなる。八つ当たりだ。こんなの。
でも、店員さんははぁ、と嘆息した。
「今は煙草すら機械なのですね。時代の発展はなんとも……」
若そうな見た目なのに随分と爺くさいことを言う。
「で、タバコは?」
「ああ……小里さん、よろしいですか」
小里、と呼ばれたモサモサ頭は「気にしないっすよ」とだけ呟いた。
どうやら吸ってもいいらしい。寛容だ。
「おにーさん、いくつ?」
「何歳に見えます?」
「えー、そんなの知らないし」
自分でもウザいからみをしていると自覚している。でも、こんな性格になってしまったから言葉は喉から飛び出して行ってしまう。
モサモサ頭は変わらずガリガリとノートに何かを書き込んでいる。
「ねぇ、メニューどこ?」
大した金も持ってないから、メニューを見て高かったら退散しよう。冷やかしになるが、足はすこし回復した。自販機くらい探せるだろう。
店員さんはクスリと笑うと、背にしていた壁の棚を見た。
「この中から、気になった標本をお教えください。そちらの豆の珈琲を淹れさせていただきます」
「いくら?」
「初見のお客様には一杯サービスしますよ」
太っ腹な店なことで。あたしとしては万々歳だ。珈琲より紅茶が好きだけど。
標本で選ぶなんて本当に変な店。そんな手間をアイデンティティにしてるなんて、逆に客が減るんじゃないの。
標本の石ころたちはカットされてないゴツゴツの石だ。まさに標本。カットして宝石に、ジュエリーになったほうが幸せそうなのに、ただそのまま狭い箱に閉じ込められているのがかわいそうに思えた。
その中で、あたしは一つの標本が目に入る。いや、あっちから目に飛び込んできたような感覚。さんさんと輝く青。それは学生時代の高い青空を思わせた。目に焼き付いて離れない、あの頃を思い出す。太陽が近くて、まだ木野崎とニコイチだった、あの日々の色だ。
不快な色のはずなのに、なぜかその石はあたしの心をとらえて離さない。
あたしはまだ、あの時代に取り残されている。
「……あの、青いやつ」
「はい、了解しました」
店員さんはあたしのざっくりしすぎな注文を最初から分かっていたかのように的確に、光る鉱石を手に取った。
コーヒー豆が入っている瓶も手に取る。ざらり、と中の豆が動いた時、なんとも言えない感覚が襲ってきた。思わずジャージの袖をいじる。
「珈琲はお嫌いで?」
残念そうに店員さんが言う。
別に好きでも嫌いでもない。でも、しばらく飲んでないなと思った。いつもは何かしらアルコールか、休肝日には適当にパックの紅茶を飲んでいたから。
品定めされているような感覚は不愉快だ。
そもそもタバコと不健康な食生活で馬鹿になっている舌に繊細な味覚なんてなかった。ストレスもあるだろうけど。
「珈琲評論なんてできる舌じゃないしー」
「お嫌いじゃないのなら、良かったです」
でも、この視線のようなものは納得いっていないようだった。
店員さんは瓶を軽く小突く。なだめるような優しい力加減だ。
それだけで、不快感は霧散した。なんだったんだ。
「すいません、なんとも気難しくって」
なにが? とは思ったが、なんとなく聞けなかった。
この店員さんは軽口は叩けるけど、ちょっと踏み込んだらとんでもないことになる気がする。勘だ。
店員さんは手慣れた手つきで準備を始めた。なんというか、絵になる。
面食いの木野崎ならキャーキャー言いそうだが、そういえば彼女にはもうお相手がいるんだった。高校の時とはもう距離も価値観も違うのに、取られたと思ってしまったのは内緒だ。彼女は元親友であって物じゃない。
今度の同窓会は断ろうかな。日に日に自分の感情がコントロールできなくなっていく。
珈琲の苦い香りは店内に染み付いている。私にはタバコの香りが。この時点でカーストが決まった気がするのはなんでだろう。被害妄想はほどほどにしないと。
「アンティグアのグァテマラ、ハイローストですね。どうぞ」
よくわからないカタカナにハテナを浮かべながら、自分の前に置かれたコーヒーカップを眺めた。白磁のそれは花の形の穴が開いたかわいらしいものだ。
こげ茶の液体は湯気を立ててあたしを待っている。
お前に美味しさがわかるのか? と挑発されている気がした。
謎に対抗心を刺激されたあたしは、少しかっこつけながら一口を啜った。
ジャージ姿じゃ格好つかない気もするけど。
タバコの匂いをかき消す穏やかな優しい香り。苦いけど少し甘みも感じるかも。
おいしい。
すさんでいた心がホッと温かくなる。いつか飲んだ冷めた缶コーヒーよりずっとおいしかった。出来立ての珈琲は、アルコールとは違う意味で体を温めてくれる。
秋の今、ちょうどいい温度だった。
「店員さーん、名前、なんていうの?」
「珈琲を淹れる、と書いて『よう』といいます」
「あは、カフェ店員にピッタリの名前じゃーん」
「ありがとうございます」
つい、とカップを回す。まだ残っている中身は、自信なさげな自分の顔を映している。
珈琲を飲んで安心したからか、あたしの口は勝手に回り始めた。
「あたしさぁ、ニートなんだよね」
BGMだったペンの音がやんだ。
「ガッコーもシューショクもせずにごく潰しやってるの。バカみたいだよね」
あーあ、こんな人生相談、らしくないってのに。
この珈琲は人の悩みでも引き出す力があるのかな。酒で酔っても愚痴一つこぼさないのに。
でも、そう溢した瞬間、珈琲はあたしを認めてくれた気がした。なんでかはわからない。
店員さんは黙ってそれを聞いている。手元で磨かれているカップはモサモサ頭が飲み終わったものらしい。隣をちらっと見ると、二杯目を飲んでいた。
ノートに書かれた大量の文字とマーカー。ああいう努力している人を見ると自分が酷く小さく見えた。
珈琲をまた啜る。苦みが、背中をしゃんとしろと押してくれている気がする。
「大学も中退。煙草と酒にすがる毎日。なんでこうなったんだろうね」
店員さんにとっては知ったこっちゃないだろうに、こんな話に耳を傾けてくれている。
胸元のタイピンに手を当てながら、ゆっくりと口を開けた。
穏やかな顔だった。
「現状を、変えたいですか」
芯の通った、しかし責めているわけではない声。選択を迫られているというより、意思確認にかんじるそれ。
あたしは黙ってしまった。
もちろん今の状況が悪いことだってわかってる。でも、ここからどうしろっていうのか。
変えようとしたことだってあった。でも、その努力に疲れてしまった。そんな怠惰なあたしに、できることはあるのか。
「変わりたいと思うなら、いつでも変われると思いますよ」
「ふーん、根拠は~?」
少し無責任な言葉にムカついて、言葉が鋭くなる。
「そうですね……」
店員さんは少し考えて、また胸元のタイピンをいじる。
その表情は、苦笑というか、生暖かい。
「過去を想う人は、未来も思えるってことです」
「…………?」
「過去があるから今の自分がある。今の自分があるなら、未来の自分もある」
「…………」
「あなたが過去を想う分、未来も広がっていきます。なら、現状を変える道もあるでしょう」
「なーんか、知ったようなクチ」
「まぁ、想うばかりではいけません。でも、あなたは変えれると思いますよ」
珈琲はもう湯気を発していなかった。口に残る苦みは、タバコの苦みよりよほどおいしい。
いつもはすぐに寂しくなって咥えるタバコも、今はポケットの中でおとなしくしている。
過去をずっと引きずってきた。
過去に取り残されながら生きてきた。
それが、未来につながるのなら。
「変わるための道、かぁ……」
飲み終わったカップの底には、卒業式に胸につけた青い花と似た模様が描かれていた。
珈琲も空になったことだし、そろそろ帰ろうかと腰を上げる。
すると店員さんは、どこから取り出したのかキラキラ光る何かをさしだしてきた。
小さな試験管。そのなかにはあの標本の鉱石の小さなものがころころと数個入っている。
「初見の方へのおまけのようなものです。どうぞ」
「えー、かわいーじゃん。…………ありがとう、色々と」
ちょっとだけ素直に、お礼を言う。自分の中で、何かが固まった気がした。
それはこの人の言葉のおかげなわけで。
とはいっても、まだ何をしようと決まったわけじゃないけど。
試験管のラベルには「アウイナイト・グァテマラ」と手書きで書かれている。
アウイナイトって鉱石なんだ。青い石なんてサファイアくらいしか知らなかった。
「井咲ブライダル」
「…………?」
「ふふ、ちょっとしたヒントです。頑張ってくださいね」
謎多き店員さんは、最後まで謎を残したまま店を出る私を見送っていた。
試験管のアウイナイトは、過去の輝きを残したまま、未来を照らしているような気がした。
さぁ、ここから何をしよう。
「うちの事務員が増えたのよ」
アイリッシュコーヒーを飲みながら、矢津波はなんとなしに呟いた。
まだ一杯目。理性の残る声は世間話にはちょうどいい軽さを持っている。
「タバコ吸ってたっていう割にはキレーな声した子でね。電話対応とかの評判がいいのよ」
真面目だし、いい子が入ってきてくれたわぁ~。と矢津波はカウンターにもたれる。
淹はそれを黙って聞いている。矢津波のグラスは残りわずか。どうせ二杯目三杯目を頼むのだろうから、今のうちに生クリームを泡立てている。
「うちってブライダルにしては珍しく白じゃなくて青をイメージカラーにしてるじゃない?」
「ああ、花嫁がひとつ青いものを身に着けると良いから、だからでしたっけ」
「そーそー。それが気になって入ってきたみたい。青は自分にとって特別な色だからって。うち、事務員は私服自由なんだけど、その子絶対どこかしらに青が入ってるのよ。」
よほど好きな色なのね。と話を切ると、おかわりを要求してくる。
淹はため息混じりにグラスに次を注ぐ。珈琲とアルコールの香りが店に充満していく。
「過去とは、なんとも扱いの難しいものですね」
「お、淹さんがセンチメンタルになるなんてめずらしー。どしたの?」
胸元のタイピンはキラキラと光る。夜のステンドグラスの窓は店内の照明であたたかく光を漏らしている。
淹はまた一つ、ため息をつく。
「いえ、お客様にいろいろと語りましたが、自分も大概過去にこだわったままだと」
カッコつけすぎましたね。と淹は頬をかいた。
「現状を変える未来への道。なんて、自分は考えたことないですし」
「んー、それって、淹さんが今に満足してるってことじゃないの?」
その言葉を聞いて、淹は少し笑った。胸元のタイピンが光る。
「そうかもしれませんね」
アウイナイトの標本は静かにそれを見守っていた。
「青春の色なんです」
浅野さん、なんでそんなに青が好きなの?
とお昼休みに同僚の事務員がなにげなく聞いた言葉の答えだった。
「過去にまぁ、いろいろあってちょっと擦れてた時もあったんですけど」
今日の浅野は青いリボンタイを巻いていた。
「私にとって楽しかった青春時代と、未来をつないでくれる色……お守りみたいなものなんです」
「おお……想像以上に深い答えが返ってきた……!」
「詩人だねぇ浅野さん」
「からかわないでくださいよ、もう」
からからと笑い声が部屋に響く。その中心には浅野がいた。
遠巻きにそれを眺める矢津波は、缶のミルクティーを飲みながらそっと安堵する。
新人はこの職場でうまくやっていけそうだ。
飲み終わった缶をごみ箱に捨てた。
さ、今日も喫茶ちろりに寄ろう。
今の矢津波にとって、過去も未来も無くしてくれるのはあのダークブラウンだった。
自分にはあの青はまだ早い。
「まったく、あの店主は……」
矢津波はまだ、あのきらめきから目をそらす。
喫茶ちろりには悩みを抱えた人がやって来る。
まだ、自分は傍観者でいたいのだ。
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