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第5章
その夜、僕達は深く愛し合った。僕はどうしてその人を抱いたのだろう。そして美桜はどうして僕に抱かれたのだろう。ただ僕にはそれがそうなるべくしてなったようにしか思えなかった。父への手紙がきっかけであの写真の女性に魅せられ、そしてこの三春を訪れることになった。そして写真にあった滝桜の前で写真の女性にそっくりだった美桜に出会った。だから2人が愛し合うことはとても自然で、そして運命のような気がした。
翌朝、まだベッドで寝息をたてている美桜をそのままにして、僕はその部屋を出た。すると階段の手前に五十位の女性が立っていた。
「お父様に似ていらっしゃいますね」
「父をご存知なのですか?」
「はい」
その人は美桜の母親だと名乗った。そう言われると確かに美桜に似ているように思えた。すると父があの写真で一緒に写っていたのはこの人に間違いないと思った。
「父に手紙を書いたのはあなたですか?」
「はい」
「父は昨年他界しました」
「え!」
その人は26年前、この地を訪れた父と知り合い、そして愛し合い、別れた。それが今年になり、突然父への恋慕が蘇り、あの手紙を書いたと言うのだ。
(どうして26年も経った今、行動を起こしたのだろう?)
「26年も経って、どうして今更なのかと思ったでしょうね?」
僕は心の中を見透かされた気がした。
「三春の名前の由来はご存知ですか?」
「はい。梅と桃と桜が1度に咲くからだと聞いています」
「この地下への階段が通じるのはそれが2度訪れた時なんです」
「つまり、26年ごとということですか?」
「はい。それで私と美桜が外に出られたのです」
「どれくらいの間、外に出ていられるのですか?」
「梅、桃、桜が1度に咲いている間だけです」
「たったそれだけ?」
「ええ」
「26年間、ずっとあの部屋の中にいて、それでたったそれだけなんですか?」
「ええ」
僕はそれがどんな訳かと思った。美桜は僕より2歳年上の25歳だと言っていた。するとこの母親のお腹の中にいた時から今日に至るまで、ずっとあの部屋に監禁されていたことになる。
「私達はその部屋から解放された僅かの間に愛する人に出会って子を宿すのです」
「まさか美桜はあなたと父との子供なのですか?」
「はい」
(あ)
その時僕と美桜が異母姉弟だったことを知った。
「何を驚かれているのですか? 美桜はあなたが選んだのでしょう?」
「でもその時は2人の関係を知りませんでしたから」
美桜の母親は父の死を知った時以外、常にやさしい笑みを浮かべていた。まさか美桜と自分の関係を知っていて、2人がこうなることを見守っていたのだろうか。いや、もしかしたら父の死のことも知っていたのかもしれない。知っていてあの手紙を送り、僕が興味を引かれて三春へやってくるように企てたのかもしれない。しかしそうだとしても、美桜と僕がこうなるのには偶然の積み重ねに頼らざるを得ないだろう。
「私の一族はこうやってずっと長い間同じことを繰り返して来たのです」
「それは何の為なのですか?」
「滝桜をご覧になりましたか?」
「はい。素晴らしい桜でした」
「あの木を守る為なんです」
「え?」
「あの桜は樹齢が千年を超えています。それ以上どれだけ生きているのかわからないのです。そして、これからも何千年も生き続けることでしょう」
「滝桜には永遠の命があるのですか?」
「ええ、そうなんです。あの木には永遠の命があるんです。でもそれだけではないんですよ。あの木の前に佇む人に生きる希望を吹き込んでいるんです」
「どういうことですか?」
「つまりあの木は生命の木なんです」
「生命の木?」
「はい。ご覧になったからおわかりだと思いますが、そう感じませんでしたか?」
僕はその時、滝桜を前にした時に感じたことを思い出していた。それは生命の息吹がたくさん詰まった、まるで森のような感覚だった。
「ですからあの木を守らなければいけないんです」
「守る? 何から守るんですか?」
「人間の欲望からです」
「人間の欲望から?」
「あの桜の木の下には1組の男女が埋められているそうです。でも一緒の棺ではなく、少し離れて埋められているそうです」
「それは何かの罰なのですか?」
「いいえ。その2人はただ愛し合っただけです」
「どうして愛し合った2人を離れ離れにするんですか?」
「それが滝桜のように美しいまま永遠に続くためです」
「どういうことですか?」
「純粋な愛は決して罪ではないでしょう。ただ2人は人間の罪を背負ったのです。2人は私の祖先でした。それで私達一族はその使命を代々受け継いでいるのです」
「人間の罪とはなんですか?」
「愛を不純にすることです。つまり、はじめの愛を離れることです」
「はじめの愛とは誰かを好きになった瞬間を言っているのですか?」
「ええ。愛の始まりは無垢で純粋で美しいものです。でもそれがやがて嫉妬や馴合いに陥って、更には裏切りや憎悪に変わるのです。またそうはならなくてもやがて愛を無視するようになるでしょう。それが人間の罪なのです」
「愛を無視ですか……」
「はい。愛に美しさを見いだせなくなり、ときめきを感じなくなることです」
「ではあなたや美桜は人間の罪を背負って、この地下に封じられているということですか?」
「はい。そして26年に1度、外界に出ることが出来て、そして誰かと愛し合い、子孫を繋げて行くことが許されるのです」
「すると僕が次に美桜に会えるのは26年後ということですか?」
「ええ」
「僕は49になってしまいます」
「そして美桜は今の私と同じ51になっています。それまでの26年間、昼夜もわからないあの狭い部屋の中に閉じ込められて、ずっとあなたのことを思い続けるのです。辛すぎます。それなのにきっとあなたは、あなたのお父様と同じように他の誰かを愛して、そして美桜のことを忘れてしまうのでしょうね」
その時、その人の瞳に光るものが見えた。
「ごめんなさい。それはあなたやあなたのお父様のせいではなく、私達一族の使命の問題でしたね」
「それだったらそこから飛び出してしまえばいいじゃないですか?」
「え?」
「自分の運命から逃げたいと思ったことはないのですか?」
「どういうことですか?」
「外界に出られた時に、この三春から飛び出して、そして2度と戻らないと思ったことはないのですか?」
「幼い頃、1度だけそう思ったことがありました。それで母にそのことを話したことがあったんです。すると母は狂ったような形相になって、決して裏切るなと言ったのです」
「裏切るな、ですか?」
「きっと母も自分の運命から逃れたい、あの部屋から逃げ出してどこか別の土地で暮らしたいと思ったことがあったのでしょう。でもそれを我慢したのでしょうね。これは一族の掟ですから。私の一族は決してそれから逃れることは出来ないのです。いいえ、逃れてはいけないのです」
その人はそこまで言うと僕の前を横切り、部屋のドアのノブに手を掛けた。
「あなたのお名前を聞かせてもらっていいですか?」
僕は父が愛した人の名前を知りたくなった。
「名前なんてどうでもいいんです」
「でも是非聞かせてください」
「私には名前がないんです」
「え?」
「かつてはあったんですよ。でも美桜が生まれた時に、私は名前を失ったのです。だから強いて言えば、美桜を生んだ女、美桜を育てた女でしょうか」
「それはどういう意味ですか?」
「私の母にも名前はありませんでした。母は私を生み、そして私を育てた女でした。でも、母にしても私にしても、娘を生む前にはやはり名前がありました」
「それはなんという名前ですか?」
「母も、そして私も同じ美桜でした」
「え?」
「美桜に会いたくなったら、滝桜に会いに来てくださいね」
その人はそう言うと部屋の中に入って行った。すると内側から鍵を掛ける音がした。僕は慌ててドアに駆け寄り、どうにかそのドアを開こうとしたが無駄だった。そしてその後僕の執拗な呼び掛けに美桜やその母親が応じることはなかった。僕は仕方なく地上への階段を一人で上った。
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