影山一族

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第85章 赦免 今年の始めにバチカンの教皇が亡くなるというニュースが報道された。しかし、それで私のような一介の神父が何か変わるということはなかったし、このような忘れ去られた教会に何か影響があるとは到底思えなかった。 ところがそれは違った。小山さんから話を聞いた後教会に戻ると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。それはバチカンからの手紙だった。 (今までこの教会をとことん無視しておいて今更何だろう)  私はそう思いながらその手紙を開けた。するとその中には一枚の紙が入っているだけだった。その紙には「赦免状」とあった。 (赦免状?)  それから私はそのタイトルの下に目をやった。そこには簡潔な文章が書かれてあった。 「破門を解く」 (破門?)  私は最初それがどういう意味なのかわからなかった。しかし、その直後、もしかしたらこの教会が実は破門されていたのではないのかということを閃いたのだった。この教会には申し訳程度の小さな十字架しかなかったり、布教活動を全く行っていなかったり、本部からは何も連絡が来なかったりと、不可解なことばかり存在していた。それが破門されていたという一言で全て解決してしまうように思えたからだった。 しかし、この教会がもし破門されていたとしたら、今まで父や私がやって来たことはいったい何だったのかと思った。いや、それだけではない。代々この教会で神父と称し、神の啓示を待ち続け、過越しの年を記録し、あの過去帳に御法度を破った者の名を記載し、彼らを地獄に落として来たことは何だったのかと思った。  私はそれでその赦免状のことを直ちにバチカンに確認をしてみた。時差を考えて現地の時間を計算すると今はお昼頃だろうと思った。それが為か、なかなか話が通じる人が電話口に出て来なかった。そして私の苛立ちが極限に達しようとした時、ようやく受話器から日本語が聞こえた。 「このたび新しい教皇に替わったことで、それで恩赦が出たというものです」  いきさつは私が予想していた通りだった。 「うちはいつから破門をされていたのですか?」 「それはかなり前に遡ります」 「そんな前なんですか?」 「そうですね。西暦で言うと1800年辺りでしょうか」 「1800年!」 「はい」 (すると江戸時代、その後期辺りだろうか) 「どうして破門になんかなったのですか?」 「それは神の意思に背かれたからとあります」 「それはどういうことですか?」 「そちらの三春というところには、独自の過越しの年という風習がありますか?」 「はい。あります」 「それを率先して流布したのが原因だと書かれています」 「どうしてそれが神の意思に背くと?」 「それが神の意思に反する風習だと記録されています。ですから、三春というところにはそれ以降、教会は一つも作られてはいません」  電話を切って、私はこの教会の不可思議なことがやっと理解できた。つまりうちは教会ではなかったのだ。そして三春の過越しの年、それは神の意思に反することだったのだ。つまり神は梅、桃、桜が同時に咲く特別の年に男女が愛することを奨励する立場だったのだ。そしてそれを拒否していたのがこの三春の人間だったのだ。彼らはその特別の年を過越しの年と呼び、そして神が奨励した男女の恋を頑なに禁止したのだ。そしてそれを扇動したのがうちの教会の神父だったのだ。 ―破門が解けた―  しかし、そう言われても私は特に嬉しいことはなかった。それが解かれようが解かれまいが、私は今までと何ら変わることがなかったからだ。これからやることは今までずっとやって来たことだったし、今までやって来なかったことは、今後もやるつもりはなかった。 でもここで私は、一つの大きな疑問を抱くことになった。それは、何故そこまでして三春の人々は梅、桃、桜が同時に咲く年に男女の恋愛を禁止したかである。しかもそのことはこの教会の神父が、神の意思やバチカンに逆らってまで推し進めたことなのだ。 (このことはあの「論理的帰結」に書かれていなかっただろうか?) そう思って私は父の書いた「論理的帰結」の文章を思い出した。 そう、それにはこの三春は第二のエデンの園だと書かれてあった。それは梅と桃と桜が一度に咲くような光景を指してそう言われたのか、或いは第二のエデンの園にしようという意図で神がそのような現象が起きる土地にしたのかはわからなかった。ただ、それらが同時に咲くのを目にしたアダムとイブはその見事なまでの光景に、かつて自分たちが居たエデンの園を思い出したのかもしれないと思った。 旧約聖書によると、アダムの置かれたエデンの園にはあらゆる種類の木があり、その木の実を食べて暮らしていたとある。その後アダムの肋骨から創られたイブが蛇によって欺かれ、結果アダムとイブは神からは決して食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまったことから、エデンの園を追放されたのである。神は後になってそれを後悔したのだろう。  エデンの園を追われた時にはお互いを信頼し合い、心を深く寄り添わせていた二人も、やがて神から見捨てられたのは、お前のせいだとアダムがイブをなじることに始まり、その結果イブもアダムを憎むようになったのだろう。彼らがエデンの園を追放された後、男女30人ずつの子を作ったとあるが、それは愛情故のことではなく、まさに種を保存するため、生き残るためという理由だけからではないだろうか。つまりその後彼らは二度と心から愛し合うことはなかったのではないだろうか。 一方彼らのそのような状況を見ていた神は、それを深く悲しんだのだ。何故なら、彼らは神の分身だったからだ。分身の不幸は自分の不幸であり、分身の苦しみや悲しみは自分の苦しみや悲しみだったからである。 そこで神は思った。彼らが再び信頼と愛を取り戻すことで、神も彼らに対する信頼と愛を復活させようと。つまり、彼らが再び愛し合うことを条件に彼らを赦そうと決めたのだ。そして命に限りがある彼らが死んでしまったら、その役目は彼らの子孫に受け継がせることにしたのだ。 私の父が集約したあのノートに書かれていることを解釈すると、こういうことだろうと私は確信していた。 (しかし) (しかし、そうだとしてもおかしい)  もし、彼らが愛し合うことを成就させたらどうなるというのだろうか。何故三春の人々は頑なにそれが成就されることを阻止し続けたのだろうか。 ―もし、過越しの年に男女の愛が成就されたら―  私はそれを解明することが全ての謎を解くカギになると思った。過越しの年に関する資料は図書館にはなかった。するとそれがあるとしたら歴史博物館しかないと思った。それで私は明日になったら一番にそこに行ってみようと思った。 第85章 最後の晩餐 僕と順菜さんは灯籠流しの賑わいから帰路につき、そろそろ小山さんが泊まっているホテルの前を通り過ぎようとしていた。 「あそこにいるの、小山さんじゃない?」  その時順菜さんがホテルの入口の方を見てそう言った。それで僕もホテルの入口を見ると、そこに男性が一人立っていた。それは小山さんだった。 「あ、本当だ」  すると小山さんも僕たちを見つけると、速足でこちらに近づいて来た。 「残念、もう終わってしまったかな?」 「いいえ、まだやっていると思います。あの花火も同じ場所ですから」  順菜さんがそう言ったので、僕は今来た方向のずっと向こうを見ると、先ほど始まった花火の打ち上げはまだ続いていた。 「今から行きますか?」 「君たちは?」 「小山さんが行かれるならお付き合いしますが。ね、順菜さん」 「ええ」 「うーん。でも止めとくか」 「そうですか?」 「うん。それにお二人に話があるし」 「話?」  僕と順菜さんは小山さんの改まった表情に顔を見合わせた。 「ロビーで話そうか」 「はい」  小山さんにそう言われて、僕と順菜さんは少し緊張しながらホテルのロビーへと行った。 「実は急なお客さんが来てね」 「はい」  三人がソファに座わると小山さんが笑いながら話を始めた。 「誰だと思う?」 「僕たちも知ってる人ですか?」  僕は小山さんの言い方からなんとなくそう思った。 「うん」 「誰だろう?」 「神父さんだよ」 「神父さん?」 「神父さんが折り入って二人だけで話をしたいと言って来てね」 「神父さんが、ですか?」 「うん、そうなんだよ。一体何の話かと思ったんだけど、あんまり熱心にお願いするもんだからね。それで仕方なく承知したんだけどね」 「それで今日突然灯籠流しに行かれなくなったのですね」 「うん」 「それで、どういう話だったのですか?」 「私が疑われたんだよ」 「え?」 「あの過去帳に二人の名前を書いたのは、私ではないかと言われたんだ」  小山さんは笑って言った。 「結局最後には私ではないことを信じてもらったがね」  僕はこれが小山さんが僕たちにしたかった話だったのだと思って、緊張がほどけた。 「それから私の母が死んだ経緯も教えてもらったよ」 「神父さんが知っていたのですか?」 「神父さんのお父さんから聞いていたらしい」 「なんだ。やっぱり知ってたんですね」 「うん」 「やはり、僕の祖父が関係してるんですか?」 「そうらしい」 「お話し頂けませんか?」 「聞きたいかね」 「ええ、是非」 「わかった」  小山さんはそう言うと、僕の祖父がハルさんと出逢い、恋に落ち、引き離され、そして失意の中で小山さんを生んで亡くなったということを話してくれた。 「過越しの年に恋に落ちた男女の悲運だったのですね」  僕がそう言うと、小山さんは静かに頷いた。 「過去帳には順菜さんのおばあさんの名前も書かれてありましたが、その話は聞かれましたか?」 「いや、それは他人の話だから」 「そうですね」 「順菜さんが聞きに行けば、教えてくれるかもしれないけどね」  小山さんがそう言って順菜さんの方を見た。 「ええ」  しかし順菜さんは余り関心がないような返事をした。 「結局神父さんは、あの過去帳に二人の名前を誰が書いたのかをずっと調べているようだね」 「そうなんですか」 「うん。それほどあの過去帳に名前が書かれることは重要なことなんだろうね」  そこで小山さんの話は終わった。 「夕飯はもう済んだのかな」  三人が、さてどうしようということになった時、小山さんがそう言った。僕は今夜が三春での最後の夜なので少し豪勢な食事がしたいと思った。 「過去帳に名前が書かれるとやっぱりそういう運命になるのですね」 すると順菜さんが再び話をそこに戻した。 「二人を待っているのは、悲しい結末なのでしょうか」 「うん。そうなるね」  しかし、それに小山さんが優しく答えた。 「じゃあ私たちは……」  僕は、順菜さんがそう言い掛けたので、そのことをずっと気にしていたのだと思った。 「順菜さん、ではそれを調べてみようか?」 「え」 「過去帳に書かれた男女はどうして悲しい別れ方をしなければいけないのか、それを調べてみようか。その理由がわかればそれを回避する方法も見つかるかもしれない」 「わかりますか? 神父さんにもわからないのに」 「神父さんが手詰まりだということは、もう頼りになるのは歴史資料館しかないかな」 「ええ、私もそう思います」 「では明日行ってみようか」 「はい」  しかしその明日という日は、僕が東京に戻る日だった。いくらなんでも、これ以上順菜さんの家に厄介になるわけにはいかなかった。 「明日、僕東京に戻ります」 「戻るんだ」 「ええ。これ以上順菜さんのおうちに厄介になるわけにもいかないだろうし」 「そうか」  小山さんは残念そうな顔をした。順菜さんは何も言わなかった。 「じゃあ明日一日で、なんとかそれがわかるように頑張ろう」 「はい」  小山さんの提案に返事をしたのは僕だけだったが、順菜さんもそれには同意した様子だった。 「じゃあ明日のことはそういうことで、夕飯にしようか」  そう言うと小山さんは辺りを見回した。 「夕飯、このホテルのレストランでどうかな」 「でも、ホテルのレストランて高くないですか?」 「心配ないよ。私が払うから」 「ご馳走して頂けるんですか?」 「うん。お二人が嫌でなければ」 「助かります」  僕はそう言って順菜さんを見ると彼女も笑顔で頷いた。 「あ、順菜さんのおうちの方で夕飯を用意してないかな?」 「いいえ。灯籠流しに行くと言ったので、外で食べて来ると思ってます」 「じゃあ決まりだ」 「はい」  三人はそれから三春で最後の夕食を楽しんだ。 第86章 お月見 順菜さんの家族にはとても良くしてもらったので、東京に戻るというだけでも辛い気持ちになった。しかし、辛いのはそれだけの理由だろうか。 小山さんと食事をした後順菜さんの家に戻り、部屋で一人になると僕は無性に順菜さんと話がしたくなった。それで何度か彼女の部屋の前をうろうろしたのだが、どうしても彼女に声を掛けることが出来ずに自分の部屋に戻ることを繰り返していた。 (でも明日は東京に帰るんだ)  そう思うとやっぱりこのまま何もしないで東京に戻るわけにはいかないと思った。それで遂に意を決して、彼女に話をしに行くことにした。 彼女の部屋に行くには、僕の部屋から周り廊下を通って行かなければならなかった。それで部屋を出て、庭に面したその廊下に出ると、そこからは綺麗な満月が見えた。 (さっきまで月なんか出ていなかったのに)  僕はその月に一瞬で目を奪われた。そこから見える月は、東京で見る月と同じはずなのに遥かに美しいと思ったからだ。それで僕は順菜さんの部屋に向かっていたことを忘れて、暫くその月に見惚れていた。 すると、いつの間にか後ろに誰かが立っていることに気が付いた。それは順菜さんに違いないと思った。しかし、僕は彼女の方を振り返ることは出来なかった。突然の事態に何を話したらいいのかわからなくなってしまったからだ。それで彼女の存在を無視して、そのまま自分の部屋に戻ろうかと思った。そしてその一歩を踏み出そうかどうしようか迷っている時だった。後ろから順菜さんの声がした。 「明日戻るのね」 「……うん」 僕はその声にドキっとした。しかし後ろは振り返らなかった。 「これお土産」 「え?」 そう言われて、仕方なく僕は彼女の方を振り返った。すると順菜さんは箱型の包みを持っていた。 「それなあに?」 「おたりまんじゅう」 「おたりまんじゅう?」 「うん。母から」 「ありがとう」  僕はそう言って、そのお土産を彼女から受け取った。するとその時に、彼女の手が僕の手に一瞬触れた。その手は温かくて、柔らかくて、そして優しかった。 「今夜のお月さま、綺麗ね」 「うん」 「さっき見惚れていたでしょ」 「うん」 「どうして?」 「綺麗だったから」 「嘘!」 「嘘って?」  僕はそれが嘘だという順菜さんの考えが理解できなかった。 「だって、嘘だから……」 (……) 「じゃあ、何だと思ったの?」  僕は少し間が空いた後、そう尋ねた。 「帰りたいんでしょ?」 (帰る?)  確かに僕は明日帰る。 「うん。明日帰るよ」  でも、それはさっき言ったことだった。 「違う。お月さまに帰りたいんでしょ?」 (いったい何を言いたいんだ) 「まるで、かぐや姫みたい」  僕はそれでなんとなく順菜さんが言いたいことがわかった。かぐや姫は彼女を愛するどの男にも引き止めることは出来なかったのだ。順菜さんが僕をかぐや姫だと言うということは、彼女は僕を引き止めたいということなのだろう。 「僕はかぐや姫なんかじゃないよ」 (僕だって帰りたくて帰るわけじゃないんだ)  彼女はそれには黙っていた。 「おやすみなさい」 最後に順菜さんはそれだけ言うと、そのまま自分の部屋に戻った。僕は仕方なくその場に残り、また綺麗なお月さまを眺めた。 第87章 郷土史  三春での最後の朝、僕と順菜さんはホテルのロビーで小山さんと待ち合わせて歴史博物館に向かった。その間、僕と順菜さんは一言も言葉を交わすことはなかった。 「今日が影山君の三春最後の日だから、是非何かわかるといいね」  小山さんのその言葉に僕は黙って頷いた。  三人は博物館の中に入ると、この前の学芸員さんを捜した。すると廊下の向こうから僕たちに向かって手を振る人がいたので、その人をよく見ると、それはその学芸員さんだった。学芸員さんは笑顔のまま僕たちのところへ歩み寄って来た。 「あれから何度か影山さんの携帯に電話をしたのですが、なかなか繋がらなくて」  確かに僕の携帯には何度か着信があったけど、知らない番号だったのでそのままにしてあった。それがどうやらこの博物館からの電話だったらしい。 「僕に電話をくれてたんですか?」 「ええ、いい資料が見つかったので」 「そうなんですか」  学芸員さんの笑顔はそのためだとその時わかった。 「良かった」  僕はそう言って小山さんと順菜さんを見た。二人も笑顔で僕を見た。 「でも皆さんが今日来られたのはどうしてですか?」 「過去帳についてこちらで何か手掛かりがないかと思いまして」 「過去帳のどんなことですか?」  僕はそこで言葉が詰まった。それは、僕と順菜さんの運命に関することだと言いたかったのだが、それを上手く説明出来なかったからだ。すると代わりに小山さんがその質問に答えてくれた。 「過去帳に載った男女の運命についてです。彼らはどうして別れなければならないのか、どうして悲恋に終わるのかです」 するとその学芸員さんの表情は益々明るくなった。 「それって、まさに私が皆さんにご紹介しようとした資料に書かれています。ちょっと待ってくださいね。今持って来ますから」  学芸員さんはそう言うと、僕たちを近くの椅子に座らせて、どこかに消えてしまった。 「何か見つかったみたいですね」 「うん」  僕はワクワクしながら小山さんにそう言った。 「あ」  すると順菜さんが博物館の入口の方を見て急に声を上げたので、彼女が何を見ているのだろうかとそちらに視線をやった。するとそこには三浦神父が立っていた。神父も僕たち三人に気が付くと、こちらへゆっくりと近づいて来た。 「おはようございます。今日も三人でお揃いですか?」 神父は僕たちの傍までやって来ると、そう声を掛けて来た。 「何でもいい資料が見つかったらしいんです」  それに僕は喜びを隠せずにそう答えた。 「いい資料?」 「はい。詳しくはわかりませんが」 「それだったら、私も同席させてもらってもいいですか?」 「あ、どうしよう」  僕はそう言われて小山さんの方を見た。小山さんは黙って頷いた。 「あ、一人増えてる」  そこへ分厚い本を抱えて戻って来た学芸員さんは、まずそう第一声を上げた。 「あ、どうも」 「なんだ、神父さんですか」  一人増えたのが神父だとわかると学芸員さんは急に笑顔になった。 「私もお仲間に加えてもらおうと思いまして」 「ええ、どうぞ、どうぞ」  学芸員さんはそう言うと、その重そうな本を五人の真ん中にある丸テーブルにドンと音を立てて置いた。それは意外に大きな音だったのでちょっとびっくりした。 「郷土史?」  置かれた本を見て早速小山さんがそう言った。その本のタイトルは、「三春郷土史」とあった。 「はい、この三春の郷土史です」 「ここに何かいいことが載っていたのですか?」 「ええ」  学芸員さんは神父のその質問に嬉しそうな顔をして答えると、その本をめくり始めた。 「ここです。見てください」  学芸員さんは、それをかなりめくったところでその手を止めた。 ―過越しの年の解釈―  そこにはそうタイトルがつけられた記事が載っていた。 「あれ?」  するとその開かれたページを見て、神父が声を上げた。 「三浦?」  小山さんも続いてそう言った。 「はい。この部分を書かれたのは、こちらの三浦神父さんのお父様です」 (え!)  僕はそう言われてその記事の先頭に掲載されていた写真を見た。するとその人はかなりの高齢に見えたが、凛々しい顔立ちをしていた。ただ、目の前の神父とは似ていないような気がした。 「いい資料とは、私の父が書いたものなのですか?」 「書かれたというか、お話しになられたもののようです」 「そうなんですか」 「はい。この前ここでお話ししたことは、過越しの年に男女が恋をすると過去帳というものに名前が書かれるということでした。そしてその過去帳に名前が書かれた男女には悲しい結末が訪れるということでした。そのような三春の言い伝えに詳しかった神父さんにお話を窺ったことがここに記載されています」 「そんなインタビューを父が受けていたのですね」  神父がぼそっと言った。 「そのようです。私もこれを見つけて初めて知りました」 「この郷土史には他にどんなことが書かれているのですか?」  小山さんが聞いた。 「郷土史は何冊かあるのですが、これにはこの三春に伝わる言い伝えや迷信に関するものが書かれています」 「へえ」  みんなは感嘆の声を上げてその本を眺めた。 「かなり長いインタビューになっていますから、要訳してお話ししますね」 僕たちは静かに学芸員さんの話に耳を向けた。 第88章 大飢饉 「三春には昔から梅と桃と桜が同時に咲く年が、13年おきに訪れます。それが過越しの年と呼ばれるものです」 「はい」  学芸員さんが神父を見ながらしゃべり出したので、神父がそれに返事をする形になった。 「そしてその年には男女が恋をしてはいけないという村の仕来りが、かなり前から存在していたようなのです」  今度は神父は黙って頷いた。 「それは正確には江戸時代の天明辺りからだろうと言われています」 (天明?)  僕は一瞬おやっと思ったが黙って学芸員さんの話を聞くことにした。 「天明というと……」 「西暦1780年頃だと思います」 「どうしてその頃から過越しの年というものが始まったのですか?」 「それについては詳しくはお父様も御存知なかったようです」 「そうですか」 「それで私が独自に調べました」  すると学芸員さんはその郷土史の下に重ねてあったもう一冊の本を引き出して、それをみんなに見せた。 ―滝桜の祠と大飢饉―  その本にはそうタイトルが書かれてあった。 「滝桜の祠って、滝桜の神様のことですか?」  順菜さんが身を乗り出して急に大きな声を上げた。 「ええ」  学芸員さんは笑って順菜さんに答えた。 「滝桜の根本に祠があるのは御存知ですか?」  一同頷いた。 「それが二つあることは御存知ですか?」  それにも全員が頷いた。 「では何のために建てられた祠かは御存知ですか?」  それには全員が首を振った。 「実は、木の根元により近い祠は天明の大飢饉の時に建てられたものなんです」 「天明の大飢饉?」  それには小山さんが応えた。 「あの祠はその時に餓死してしまった人の供養のために建てられたのだそうです」  「そうだったんですね」  順菜さんがそう言った。 「その中には多くの赤ん坊がいました。それから生まれて来るはずだったお腹の子もいました。更には妊婦もたくさん亡くなったようです」  それには誰もが悲痛の表情をした。 「そして、その年に梅と桃と桜が同時に咲いたと記録されています。それで梅と桃と桜が同時に咲くと大飢饉が来るという噂が生まれたらしいのです」 「なるほど」  小山さんがそう言った。 「そして飢饉の最大の被害者が生まれたばかりの赤ん坊や妊婦、胎児だったことから、その原因である男女の結びつきを禁じたらしいのです」 「それが恋をしてはいけないということになったのですね?」  小山さんが聞いた。 「ええ、でも梅と桃と桜が同時に咲くと大飢饉が訪れるということは、まだ噂のレベルだったようです。それが確定したのが天保の大飢饉だったのです」 「じゃあその時も梅と桃と桜が一度に咲いたのですね」 「ええ、それで三春ではそれらが同時に咲く年には大飢饉が来ると堅く信じられるようになったようです。それが過越しの年の始まりのようです」 「確か、天明8年と天保11年が過越しの年だったと思います」 そこで順菜さんがそう言った。 「過越しと言われたのはどうしてなんでしょうか?」 順菜さんに続けて小山さんが尋ねた。 「黙って耐え忍ぶという意味だと思います。その人が恋しくてもその思いは胸に秘めて、その年が明けるまで、ひたすら耐え忍ぶということだと思います」 「その天保の大飢饉の時に滝桜の大きな方の祠も建てられたのですね?」  神父がそう聞いた。 「はい」  滝桜にあったあの二つの祠、そして過越しの年の意味はわかった。でも何か僕はこの話にしっくりこないものを覚えた。 「では過去帳とそれらの話はどう結び付くんですか?」  すると順菜さんが僕の疑問を代弁するように質問した。 「そうですね。ここからが本編というところでしょうか」  僕はそこで椅子を座り直して再び学芸員さんの話に聞き入った。 第89章 魔女狩り 「皆さんは明治25年の三春で起きた心中事件を御存知ですか?」  神父は頷いた。後の三人は首を横に振った。 「ではお話します。今から約百年前、明治25年の過越しの年に恋をした男女が最後は心中することでその幕を閉じたということがありました。その時好き合っていた男女二人と、彼らに横恋慕した男一人の、合計三人の若い命が失われました」 「そんなことがあったんですか」  小山さんがぼそっとつぶやいた。 「その事件を機に、この三春で再び過越しの年の御法度が復活したのです」 「復活ですか?」 「ええ、そして神父さんのお父さんは再び過去帳に男女の名前を記載しようと思ったと、このインタビューで語っています」 「そうだったんだ」  神父が少し驚いた表情でそう言った。 「それはもう二度と若い命が失われないように過越しの年の御法度に従って、好き合った 男女の恋を終わらせるためだったのだとお父様は語られています」  神父は黙って頷いていた。 「じゃあそれまでは過去帳はどういう扱いだったのですか?」  学芸員さんが一呼吸おいたところで小山さんがそう聞いた。 「それまでは過去帳への記載は違う意味で行われていたようです」 「違う意味?」 「はい。過去帳が悪用されていたようです」 「悪用?」 「ええ、当時の有力者によって本来の意味を削がれ、私欲のために悪用されていたらしいのです」 「それはどういうことですか?」  今まで余りしゃべることのなかった神父が少し興奮気味にそう聞き返した。 「そのこともこの郷土史には書いてあります。それは何ページだったかなあ」  四人はその郷土史に見入った。 「過去帳は魔女狩りの道具だったらしいのです」 「魔女狩り?」  神父がその言葉に強く反応した。 「ええ、どうやら過去帳は、当時の名主などの有力者が自分たちにとって邪魔な者を追い払うために用いたものらしいのです。こいつは自分にとって都合が悪いという人物が目に止まると、過越しの年の噂を持ち出して、その帳面に記載するのです」 「そんな……」  順菜さんが言った。 「でも、過越しの年は13年に一度しかなかったのですよね?」  それは小山さんの声だった。 「そうですね。でも一度に大量の男女が申告された時がよくあったらしいです」 「大量の男女が?」 「はい。邪魔者をまとめて排除したのでしょう。何でも男が女にちょっかいを出しただけで御法度に触れたと嫌疑をかけられたそうです。一度に何十人も追い払えば何年、或いは何十年も敵が出て来なかったのかもしれませんね」 「それは相手の女性も排除されたということですか?」  それは順菜さんの声だった。 「恐らくそうです」 「酷い。その頃の女性なんてそんな権力争いには何の関係もないのに」 「魔女狩りとはそういうことですか?」  神父が口を挟んだ。 「外国の魔女狩りとは少し違うかもしれませんね、神父さん」 「ええ」 「それはこの村の有力者による勢力争いです。ただ魔女狩りはそれだけではなかったようです」 「まだあったのですか?」  小山さんが顔をしかめて言った。 「はい。そちらの方が本当の魔女狩りと言うべきでしょうか」 「え?」  神父も顔をしかめた。 「江戸時代の終わり頃の話らしいのですが、宣教師が日本を訪れた時にこの三春の地に足を踏み入れ、梅と桃と桜が一度に咲く光景に遭遇したそうです。その時、恐らくはその宣教師がそう言ったのでしょうが、ここがエデンの園のようだと本国に手紙を書いたようです。それがいつしか本国の教会の偉い人の耳に入り、それでこの三春が第二のエデンの園と言われるようになったらしいのです」  誰かの足が僕の足にぶつかった。見ると神父が貧乏ゆすりしながら真剣に話を聞いていた。 「それからバチカンだかどこだか知りませんが、やっきになってこの三春に布教の圧力を掛けて来たらしいのです。当時は幕府による禁教令がしかれていましたが、この三春を本当にエデンの園にしたかった彼らは独自の方法でその網の目をくぐっていたのでしょう」 「それから?」  神父が前屈みになって学芸員さんの話に聞き入った。 「三春の有力者はこの布教活動と結託したようです」 「結託?」 「教会は布教のためにまず教会の神を信じない者を排除した。信じなければ天罰が下るということくらい言ったのかもしれませんね。そしてその中に三春の有力者が邪魔だと思った者も含めたわけです」  神父が大きくため息をついた。僕はそんな神父の姿を見てちょっと可哀想になった。 「やがて時の有力者に反対する者はいなくなったのでしょう。そしてそうなるともう過去帳は必要なくなったのです。過越しの年も必要なくなった。それで過去帳は忘れ去られた存在となり、同時に過越しの年は風化してしまったのです」 「それが先ほどの話の心中事件が起こって、再び過越しの年や過去帳が脚光を浴びたのですね?」  小山さんがそう学芸員さんに聞いた。 「そうです。本題はここからです。ここでやっとこの本のお父様のインタビューに戻って来ることが出来ました」 第90章 クラッチ 学芸員さんは再び郷土史のあるページを開いて話を始めた。 「過越しの年と過去帳の復活によって、再びその年には男女が恋をしてはいけないという決まりが確立したのです」  四人は学芸員さんの話に頷いた。 「ではどうしてその年に男女が恋をしてはいけないのか」 「当時は飢饉という時代でもないですよね」 「違います」 「じゃあなんでしょう?」  小山さんのその言葉を最後に、一同は学芸員さんの次の言葉を待った。 「神父さんのお父様の話だと、それは論理的帰結と呼ばれるものに至ってしまうからだというのです」 「論理的帰結?」  小山さんがその言葉を繰り返した。  僕はそれが神父のお父さんのノートにあったタイトルだったことを思い出した。 「それは、神の意思だとお父様は言われています」 「神の意思?」  小山さんはその言葉も繰り返した。 「論理的帰結、それは実現してはいけないもののことだとお父様は説明しています」 「え」  その、えは神父がもらしたものだった。 「どういうことですか?」  小山さんが神父の反応を見て、その言葉を発した。 「論理的帰結とは、その男女が愛し合い、結果、神が人類を消滅させるということだと、お父様はそのインタビューで語っているのです」 (え) 「……」  一同はそこで沈黙した。 「郷土史で扱っているのは、飽くまで過越しの年という迷信に対するお話ですから、御伽噺のようなものとして、ここでは簡単にまとめられていますが、なんでも当時のお父様のお話には鬼気迫るものがあったようです。インタビューをしていた学芸員も、背筋に寒気を感じるくらい迫力があったと編集後記に書いてありますから」 「インタビューの内容をもう少し詳しく話してもらえませんか?」 「ええ、いいですよ」  神父が神妙な様子でそう学芸員さん言うと、再び学芸員さんは郷土史の内容に話を戻した。 第91章 消滅 「お父様の話では、ここの三春の人間は、どうやら聖書に出て来るアダムとイブの子孫らしいのです。私は聖書をまともに読んだことがないので、全人類がアダムとイブの子孫だとばかり思っていたので少し混乱しました。その話はさて置き、アダムとイブは神にエデンの園から追放された後、この三春に幽閉されたということらしいのです」  神父をはじめ、そこにいた全員は静かに学芸員さんの話に聞き入っていた。 「ところが、神はどうにかして二人をエデンの園に連れ戻したかったらしいのです。神自身、自分の分身であるアダムが自分を裏切ったことで、自分自身を信じられなくなったのではないかとお父様は言っています。そして神が自分自身を信じられなくなった状態から回復したかったのではないかと言っています」 「神は当然アダムを愛していたのですよね?」  小山さんが神父にそう聞いた。神父さんは黙って頷いた。 「神は自分の愛が裏切られるはずがないと思っていたのでしょうか?」  小山さんが今度は学芸員さんにそう質問すると、学芸員さんがそれに答えてしゃべり出した。 「そうかもしれません。でも、裏切られたことは確かです。しかもアダムは自分の分身です。それは自分自身と考えてもいいのではないでしょうか。それは大きな衝撃だったのではないかとお父様は語っています」 「それでエデンの園から追放したのですよね」  神父は黙って聞いていたが、小山さんは時々そうやって合いの手を入れていた。 「でも追放したって、神の絶対の愛に影が差したことには違いないのです」 「ですよね」 「なので、それを回復するために、神は策を講じたというのです」 「それが過越しの年?」  小山さんがまたそう尋ねた。 「ええ。過越しの年の梅、桃、桜が同時に咲く見事さは、エデンの園を彷彿させるものがあったということです。その現象は神の手によるものかもしれません。いえ、多分そうだったのでしょう」 「でも、アダムとイブの子孫である三春の男女が恋に落ちるということはどういうことですか?」 「アダムとイブはエデンの園から追放されたことを、相手のせいだとののしり合ったようです。そして遂には憎しみ合い、やがて死んで行った」 「それも悲しい結末ですね」  僕もつい、言葉が漏れた。 「神はその悲しい二人を見て、いつか彼らの愛を回復させようと思ったらしいのです。神は憎み合った二人が再びお互いを愛することを望んだのだとお父様は語っています」 「それが父のノートに書かれていたことの意味だったのですね」  神父が言った。 「それと、自分の分身であるアダムがイブを赦すなら、自分もアダムを赦そうと神は思ったのだとも語っています。自分を騙したイブをアダムが赦す、そして自分を裏切ったアダムを神が赦すことで、神の愛が再び回復するのだと神は思ったのではないかとお父様はこのインタビューで語っています」 「そうですか」  神父がため息交じりでそう言った。 「すると実際の過越しの年は、アダムとイブの時代にまで遡るということでしょうか」 「神がアダムとイブをこの三春に幽閉してすぐにそのことを思いついたかはわかりませんが、それでもかなり前に遡ることは確かだと思います」 「そうですね」 神父は学芸員のその答えを聞いて、納得したというように頷いた。 「では先ほどの飢饉の話とはどう関係するのですか?」 それは順菜さんの質問だった。 「梅と桃と桜が一緒に咲く現象こそ、第二のエデンの園の証だったのではないかとお父様は語られています。ですから、それが過越しの年と命名される前からあったことなのです。それがたまたま天明の飢饉があって、その時に三春ではそのような名称をつけたのではないかと私は思っています」 学芸員さんはそう言い終わると順菜さんを見た。順菜さんは学芸員さんを黙って見ていた。 「過去帳は過越しの年に恋に落ちた男女が書かれるということでしたが、すると天明辺りからそれは残っているということですか?」 僕はそれ以前の時代から過去帳への記載が始まっていたことを、実際に自分の目で見ていたので、少し意地悪な質問を学芸員さんにしてみた。 「そうですね、それは梅と桃と桜が同時に咲く年と過越しの年との混同から始まった問題ではないかと思います」 「どういうことですか?」 僕は続けて聞いた。 「梅と桃と桜が同時に咲くというのは現象です。ですから、例えばそれは千年以上前からあったことなのだと思います。一方、過越しの年というものは梅と桃と桜が同時に咲く年を指し示す名称です。ですから、最初に現象があって、然る後、その名前がつけられたのではないかと思うのです。つまり、天明からその名前がその現象に付けられるようになったのではないかなと」 「つまり?」 すると小山さんはまだ話が飲み込めないという顔をして学芸員さんに食い下がった。 「過去帳は天明よりもずっと前から存在している可能性があるということです」 僕はそう言い切った学芸員さんを凄いと思った。 「では論理的帰結ってどうなるのですか?」  それで僕は神父を横目に更に学芸員さんに聞いてみた。 「一度崩壊した神の愛がアダムとイブの子孫によって治癒されれば、その治癒した者をエデンの園に連れ戻すのではないだろうかとお父様は語っています」 「連れ戻す?」  そこで神父がそう尋ねた。 「ええ。そうお父様はおっしゃっていました」 「連れ戻した後は?」 「第二のエデンの園は必要ないということらしいです」 「第二のエデンの園とは、この三春のことですよね?」 「ええ。元々はアダムとイブの為に作られた楽園ですから」 「すると三春はどうなるのでしょうか?」 「なくなってしまうとお父様は語っています」 「なくなる?」 「神の愛を回復した男女一組だけが神の赦しを得てエデンの園に連れ戻されるのです。すると、この三春はなくなるのだということらしいです」  それでそこにいたみんなが固まった。 「連れ戻されるのは彼らだけですか?」  それは順菜さんの絞り出すような力のない声だった。 「ええ」 「どうしてですか?」 「アダムは神の分身であり、イブはアダムの分身であり、彼らの子孫だけが神の愛を回復出来るからだそうです。そしてそれを実現した二人だけがエデンの園へ戻れる資格を持つのだそうです」 「それは、あの過去帳に書かれた二人の男女ということですか?」  それは神父の声だった。 「そのようです」 「あとの人達は?」  それは小山さんが聞いた。 「はい……」 「後の三春の人達はどうなりますか?」  僕も言葉を続けた。 「……もう必要ないと神は思っていると、お父様は語っています」 「必要ない?」  小山さんが驚いた顔でそう言った。 「アダムとイブが主人公で、それ以外の人たちは単なるエキストラだからだそうです」 「エキストラ?」  続けて小山さんが聞いた。 「二人は、主役だけど、他の人たちは論理的帰結に至る芝居の小道具みたいなものだからだそうです」 「え……」  僕は何かを言おうとしたが、それは言葉にならなかった。 「芝居が終われば彼らは必要ない。ただ破棄されるだけだということです」 「と言うと?」  小山さんはまだ言葉を続けていた。凄いと思った。 「三春の人たちは三春の地とともに消滅するのではないかということです」 (消滅?)  僕は自分の耳を疑った。 「そうです。消滅する。つまり、この世からなくなるとお父様は語っています」 「そんな……」  それは順菜さんの言葉だった。 「それじゃあ、帰結してはいけない」  小山さんが言った。 「ですね……」  神父もそう言った。 「それだから今まで論理的帰結には至ったことがないし、至らなかったからこそ三春が存続しているということなのでしょうね。でもこれは飽くまでも迷信ですから。過越しの年の話も、三春がなくなるなんていうことも御伽噺ですから」  学芸員さんは冗談ですよと言わんばかりの笑顔でそう括った。 「父は……」  しかしそこで神父が突然真顔でしゃべり出したので、学芸員さんは再び真剣な表情に戻った。 「父は、そこまで調べていたんだ」 「ええ」 「しかし私は何も知らなかった」 「この郷土史は、実は発刊されなかったのです。私も倉庫にあったこの一冊を偶然見つけただけですから」 「どういうことですか?」  小山さんがその重そうな郷土史を手に取って眺めながらそう言った。 「とりあえず、見本としてこの一冊だけを作ったらしいんです。それから上司の決裁をもらう段階になった時、当時の有力者から待ったがかかったようなんです。それでこれだけが残ったというようです」 「きっと過去帳や過越しの年を悪用したのは、その本を作った当時の有力者の先祖だったのでしょうね」 「だと思います」 「じゃあこのことは誰も知らないんだ」  そう言うと小山さんはその郷土史を下に置いた。 「ええ、私たち以外は」 「でもどうして父はこのことを私に話してくれなかったのだろう」  神父が独り言を言った。 「それはお父様に深い苦悩があったからではないですか?」 「え?」  独り言に返事をされて、神父が少し戸惑ったような表情をして学芸員さんを見た。 「ここの最後に書かれていますが、過越しの年の御法度を破った男女は無理やりその仲を引き裂かれて絶望し、体を壊してそのまま亡くなられたり、自決した人もいたそうです。代々神父の職にあった人は村の有力者の一人として、過越しの年の監視をされていたそうです。決して愛し合う彼らの望みを叶えてはやれなかったのです。 しかしその一方で神に仕える身として、神の啓示を実行する立場でもあったわけです。それは彼らの恋を成就させてあげるということです。その相反する両者の立場にあって、その苦悩を息子であるあなたには上手く語れなかったのではないでしょうか」  神父は学芸員さんの言葉に黙って何度も頷いた。 「お父様は聖職者としての強い使命感と、そしてプライドをお持ちになられていたようです。ですから神の啓示を信じてらっしゃったようです」  それから僕たちはその場で少し歓談をしてからお開きにした。しかし神父は終始黙っていた。そして帰り際になって、その郷土史を借りて行っていいかと学芸員さんに聞いていた。学芸員さんはどうぞと言ってそれを大きめの紙袋に入れて神父に手渡した。 「いくら好物だからといって熟さない果実を食べれば不味いという結果になるのではないでしょうか。するとそれが熟すまで待つのがやはり合理的で正しいことなのだと思います。 しかし、人は自分を偽ることが出来る存在です。ですから、自分が熟しているように装うことも出来るのです。そしてもし熟した振りをしたものを食することをしたら、それはやはり美味しくないと後悔するのではないでしょうか。否、熟すまで待っていれば、それをどうぞお食べくださいと言われたかもしれないのです。それがあろうことか、食されることを拒絶される結果になってしまうこともあるのです。神はリンゴが熟するのを待って彼らに与えようとしていたのかもしれません。そしてこれは過去帳に記された男女にも言えるのではないでしょうか」 学芸員にそう語る神父の声が聞こえた。
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