影山一族

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第1部 喪失 序章 逃亡 今、私はこの手で父を刺した。それはかねてより心に思っていたことなのか、それとも衝動的なものだったのか、とにかく私は走った。力の続く限り走り続けた。 私が生まれ育ったこの地には様々な思い出が残っていた。しかし私はそれらを全て投げ捨てて、ひたすらそこから遠ざかった。そして私は走りながら、二度とここへは戻って来ないと決心した。いや、もし戻って来たくとも、この地に足を踏み入れることは出来ないと思った。 父と抱き合う形になったその瞬間、父の顔が微笑んでいるように見えた。しかしそれは、私の心が作り上げた幻想だったのではないかと思った。本当は苦悶に震え、私を地獄の底まで引き連れて行こうかというような形相で私にしがみついていたのではないだろうか。私はその父の腕を振り払って、その場から逃げたのだった。 私は走った。振り返らず走った。倒れても倒れても、ひたすら走り続けた。 第1章 三春 その桜の木がいつからそこにあったかはわからない。しかし、たった一本だけで、その小高い丘の上に花を咲かせる姿は人々の目をつかんで離さなかった。やがて、その木の魅力に取りつかれた人々がその地に集まり一つの村になった。 その村では不思議なことが起こった。それは、13年に一度、梅と桃と桜が同時に咲くという現象だった。それはまるで三つの春が一緒にやってきたかのような豪華な景色だった。その現象はやがて村の名前を三春にした。 私はハルとの待ち合わせを、いつもその丘の上の大きな桜の木の下にと決めていた。私は約束の時間には一度も遅れたことがなかったのだが、ハルはいつもその木の下で私を待たせた。それで何度目かの待ち合わせの時に、どうしていつもハルが遅れて来るのかを聞いたことがあった。 「だって、嬉しいんだもの」 「嬉しい?」  私は人を待たせておいて嬉しいというのはどういうことかと思った。 「あの坂を上り切って、滝桜の下にあなたの姿を見つけるとなんか嬉しいの」  それが私たちの待ち合わせにハルが遅れて来る理由だった。 「一度くらい、僕を待ってるハルの姿を見たいんだけどな」 「どうして?」 「だって、あの坂をやっと上り切って、僕のことを待ってくれてるハルの姿が見えたら、きっと幸せな気持ちになれると思うから」  私はその場所が好きだった。いつかその場所に自分の好きな女性と一緒に来たいと思っていた。家族や男友達とは度々そこを訪れたことがあったが、女性と二人切りで来たのはハルが初めてだった。  ハルは影山ハルといった。私と同じ姓だったが、近い親戚ではなかった。ハルは私の住む大町の隣の北町に住んでいた。歳は三つ下だった。幼い頃から顔は知っていたが、ハルが中学に上がった頃にその制服姿を見て好きになった。ハルは綺麗な顔立ちをしていた。三春の男たち誰からも人気があった。しかし、その中の誰とも親しくなることはなかったので、きっと身持ちが堅い人なのだろうと思っていた。ところが何かのはずみに、私がハルをお花見に誘ったところ、あっさりと、うんと言ったのであった。 私がハルと付き合うようになって少しした頃だった。どうして私の誘いにあんなに簡単に応じたのかをハルに聞いたことがあった。 「だって、傳蔵さんが優しそうだったから」  ハルの答えは至って簡単だった。 「それから?」 「それからって?」 「他の理由は?」 「それだけよ」 「それだけ?」 「ええ」  私は拍子抜けした。優しいというだけなら、ハルに声を掛けた他の男たちの中にもそういう輩がいただろうと思った。 滝桜は小高い丘の上にあった。丘の上にはその木が一本だけであった。しかしその姿はあまりに堂々としていて、春にその花を満開にさせた姿はこの世のものとは思えないほどの見事さだった。 その滝桜への道は、かなりきつい坂を上って行かなくてはならなかった。その坂が頂上付近で少しなだらかになると、滝桜がてっぺんの方から少しずつ姿を現わして来るのだった。 「前に傳蔵さんが言ったでしょ。遠くから僕のことを待ってるハルの姿が見えた時に、きっと幸せな気持ちになれると思うから、一度くらい自分よりも先に来て待っていて欲しいって」 「うん。言った」 「私もそうだよ」 「ハルも?」 「うん。私も同じなの。私もここへ来て傳蔵さんの姿を見ると幸せな気持ちになるの」 「でもハルは嬉しいからって言ってたね」 「うん。嬉しい気持ちにもなるの」 「嬉しくもあり、幸せにもなるか」  私はハルのその表現がいいと思った。 「あの坂を上り切ると滝桜のてっぺんが見えるでしょ? その瞬間、この下にあなたがいるんだって思うと、それだけで胸が熱くなるの。あなたが私を待っていてくれてるんだと思うと、とっても幸せな気持ちになるの。だから私はそこから走り出すの。早くあなたの姿を見たくって力一杯走るの。そして、あなたの姿が見えて来ると、本当に涙が出そうになるの」 「そうなんだ」  私はハルの言葉に心が動いた。 「じゃあいいよ」 「いいって?」 「ハルがそういう気持ちでいてくれるんだったら、僕はいくらでも先に行ってハルを待ってるよ」 「ほんと?」 「うん、本当さ。僕はいつまでもハルを待ってる」 「ありがとう。嬉しい。やっぱり傳蔵さんは優しい」 私とハルはその木の下でいつも並んで座っていた。そしてハルは私の胸に寄りかかってじっとしているのが好きだった。私はそのハルを左手で優しく抱えた。すると髪のいい匂いがいつも私を包んだ。私たちはそうやって毎日のように滝桜の前で会っていた。 「傳蔵さん、今年変わったことが起こったの知ってる?」 「変わったこと?」  その日ハルは、突然そのことを思い出したように私の胸から顔を起こしてそう言った。 「うん。今年、梅と桃と桜が一緒に咲いたの」 「梅と桃と桜が一度に?」 「うん」 「それはちょっと変わってるね」 「傳蔵さん、驚かないの?」 「驚いたよ。凄く変わってるね、ハル」 「でしょ? 凄く変わってるでしょ?」  私はそうは言ったものの、梅と桃と桜がいっぺんに咲くことがどれほど変わっているのかはわからなかった。 「それ、どこで知ったの?」 「母が言ってたの」 「ハルのお母さんが?」 「うん」 「そうなんだ」  私はハルの母親が変わってると言うくらいなのだから、それが本当に変わってるのだと思った。 「何でも13年ぶりらしいの」 「それが?」 「うん」 「そうか13年ぶりにそういうことが起こったんだ」 「そうなの」 「梅と桃と桜が一度に咲いたら、きっと夢のような景色だろうね、ハル」 「うん」   それからハルは黙って感慨にふけっていた。恐らくその三つの花が一度に咲いた様子を思い描いているのだろうと私は思った。 「じゃあハルはその光景を見てはいないんだね」 「母がね、私に見たよって教えてくれたの」 「見たよか」 「でも、もう散ってしまったんですって」 「散った後に教えてもらったんだ」 「そうなの。だからどうして咲いている時に教えてくれなかったのって言ったの」 「うん」 「そうしたら、言うのを忘れてたって」 「そうなんだ」  私は笑いながらそう言った。 「酷いでしょ?」 「忘れていたのなら仕方がないよ」 「でも酷い。よっぽど見てみたかったのに」  ハルのその時の顔が幼い子どものように見えた。 「でも、そう言われると、確かに梅と桃と桜が一度に咲いてるところを見てみたいよね」 「傳蔵さんもそう思うでしょ?」 「うん」 「それで母に次はいつそういうことが起きるのって聞いたの」 「そうしたら?」 「そうしたら、この前そういうことが起きたのは13年前だから、次は13年後じゃないかって言うの」 「そっか」 「13年後だなんて酷い」 「うん」 「傳蔵さんもそう思うでしょ?」 「うん」  私は笑いそうになりながらも、それを我慢してそう答えた。 「酷いよね」 「うん。酷い」  しかし、13年というとどれくらいの時の長さを言うのだろうかと思った。13年後というと、私は33歳、ハルは30歳になっている。13年後の私は一体何をしているのだろうか、ハルはどんな女性になっているのだろうかと思った。 「傳蔵さんはそんな先まで待てる?」 「え?」 「母はもう見たからいいって満足してたけど、私はまだ見てないし、そんな先まで待てないって言ったの」 「僕も待てないなあ」  私は少しむきになってるハルの言い分に合わせることにした。 「そうでしょ? それなのに母は謝らないのよ」 「そうなんだ」 「うっかりして教えてくれなかったのに、謝らないの。父は赦してあげなさいって言うけど、私は赦せないと思った」 「そっか」 「母は傳蔵さんとは違うの」 「違うって?」 「母は優しくないの」 「そんなことないでしょ?」 「ううん。だから傳蔵さんだったら赦せるけど、母は赦せない」 「……」 「だから私、13年後はきっと見てやるって思ったの」 「梅と桃と桜が一度に咲くところをかい?」 「うん」 「そっか、ハルはよっぽどそれを見てみたいんだね」 「13年後、きっと見られるよね?」 「うん。見られるさ」 「傳蔵さんも見たい?」 「うん。是非」 「じゃあ一緒に見てくれる?」 「勿論さ。きっと一緒に見るよ」 「ありがとう」 「13年後、きっとハルと一緒に見るから」 「やっぱり傳蔵さんは優しいなあ」  ハルはそう言うと、また私の胸に顔を埋めた。  「あ」  その途端、ハルがまた何かを思いついたように顔を上げた。 「今度は何だい?」 「梅桃に」 「うめもも?」 「梅桃に、桜三春(さんしゅん)、豪華かな」 「何だいそれ?」 「俳句よ」 「俳句?」 「だって、ちゃんと五七五になってるでしょ?」 「そうだね、確かにそうなってるけど」 「なんかね、急に浮かんで来たの」 「梅桃に桜三春豪華かな、が?」 「うん」 「さんしゅん?」 「三春(みはる)をさんしゅんって読み変えたの」 「ああ、そうなんだね」 「どうかしら?」 「梅桃に桜三春豪華かな、いいんじゃない」 「本当?」 「うん。いい句だと思うよ」 「梅と桃と桜が一度に咲いて、三つの春が来たような豪華さだっていう意味なの」 「うん。わかるよ」 「次は見られるかな」  ハルはそう言うと再び私の胸に顔を落とした。私はその時のハルの穏やかな笑顔が好きだった。 第2章 過越しの年 「傳重さん、夜分に申し訳ない」 その日、町はずれの教会の神父が血相を変えて突然私を尋ねて来た。 「いったい何用ですか?」  いつも穏やかな三浦神父のただならぬ厳しい表情に、私は不安になった。 「お宅の傳蔵と北町のハルが好き合っているという噂が流れているのはご存じか?」 「北町のハル?」 「北町の影山ハル」 「ああ、あの」  私はそう言われてその娘に心当たりがあった。 「知っとるでしょ」 「でも、それは本当ですか?」  私は傳蔵が夜な夜などこかへ出掛けるのは知っていたが、それが女との逢い引きだということは初耳だった。 「本当らしい。多くの人に目撃されているのだから、まず間違いはない」 「しかし、それが?」 「それがとは?」  神父は困ったという顔をした。私はそれで他人の恋路をとやかく言う神父の方こそ困ったお人だと思った。 「傳重さん、今年がどんな年かはおわかりだと思うが」 「今年?」  私は思い当たることはあったがそれを白ばくれてみた。 「今年は、過越しの年だということをお忘れか?」 「そうでしたかな」 「いやいやいや、今年が過越しの年ということを知らないわけはないでしょう。町のあちこちで噂になったのだから」  過越しの年、それは梅と桃と桜が13年に一度、一緒に咲く年のことを、この三春ではそう呼んでいた。 「確かにそれは承知しているが、あんなものは迷信に過ぎないでしょう」 「傳重さん、迷信とは何をもってそんなことを。あなたも今から39年前のあの事件のことはお忘れではないでしょう」 「あの事件は、たまたまそれが起きたのが過越しの年だったと私は解釈しているが」 「いいや、あなたは真実に目を背けている」 「どういうことかな?」 「あの時あの事件は誰もが過越しの御法度に逆らったからだと思ったはずだ。傳重さん、あなただってそうだったはず」 「……」 「だからこそ私たちは、あれからずっとその御法度を守って来たのだ。そしてそうだったからこそ、あれ以来この村にはあのような悲劇が起こらなかったのだ。それなのに過越しの年は迷信だから何も起こらなかったのだと片付けることは笑止。その御法度を守ったからこそ、何も起こらなかったと考えるのが筋ではないか?」 私は神父の話を聞いて、その通りだと思った。私がその御法度を迷信だと言ったのは、正直それが怖かったからだった。39年前のあの事件のことを思い出すと、今でも背筋が寒くなった。それほどまで、あの光景は悲惨だった。だから私は、自分の記憶からあの忌まわしい事件のことを消し去りたかった。そして過越しの年の話も、忘れ去りたかったのだ。 「それで、今日私がお邪魔した理由だが」 「過去帳ですかな?」 「そうだ」 「傳蔵の件が本当だとすると、あの過去帳に二人の名前を記しに来たのだな」 「いかにも」  三春の仕来りでは、過越しの年に好き合ってしまった男女は過去帳と呼ばれる台帳にその名前が書かれることになっていた。私は神父のその真剣な眼差しから、最早そのことを避けることは出来ないと判断した。 「そうか。ではご案内しよう」 その過去帳とは、私の住むこの敷地の中に建てられた社(やしろ)の中に保管されていた。つまり当家は過去帳の「管理人」というお役目を代々預かっていたのだった。それで私は仕方なく神父をその社に案内することにした。 私の屋敷は約七千坪の敷地の中にあった。その周囲は塀で囲まれてあり、正面の大きな門を入るとそこに母屋と離れ、そして蔵が建ち並んでいた。それからその奥には森のように木々が生い茂る場所があった。社はその森のずっと奥に位置していた。そしてその過去帳はその社の中に収められていたのだった。  社の管理は掃除を含めた一切のことが代々家長の仕事だった。それで父が亡くなるまでは父がその全てを行っていた。だから私はその間、一歩もその中に足を踏み入れたことはなかった。父が亡くなった後、その仕事は私に引き継がれた。しかし、過去帳への名前の記載は今回初めての経験だった。  私たち二人は無言のまま社に向かった。何かを言うような気分ではなかった。そしてその時私は39年前のことを思い出していた。それは雨の夜だった。今日と同じように突然現れた三浦神父の父を連れ立って雨の中を社に向かった私の父の後ろ姿が印象的だった。 ―39年前―この三春に、ゆきという娘がいた。その娘は、私より六つ年上のたいそう綺麗な人だった。ゆきは三春の男たちの熱い視線を一身に浴びていた。私も子どもながら、その引き込まれるような美しさにいつも見とれていた。しかし、私はゆきが隠れてある男と逢い引きをしているのを見てしまったことがあった。それで、その人には決まった人がいるのだと知っていた。  その年、13年ぶりに梅と桃と桜が一緒に咲いた。年寄りたちは過越しの年だから自重するようにと騒ぎたてたが、若者たちは誰も真剣に耳を貸す者はいなかった。それは私も同じだった。  ところが、やがてゆきを巡って男たちの間で騒動が起きた。ゆきと逢い引きをしていた男が、過ぎ越しの年が迷信だとは思いながらも、自分がゆきの男だと言うことを憚っていたからだった。一方ゆきは、どの男の誘いにも乗らなかった。それは当然だった。ゆきには決まった男がいたからだ。やがてゆきはある男に力ずくで押し倒された。その時ゆきは、近くにあった石でその男を殴りつけた。男は頭を割られて絶命した。 それから数日後、ゆきが村の奥の森の中で心中しているのを発見された。心中の相手はいつぞやゆきと逢い引きをしているところを私が見た男だった。 町は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。私は友だちと遊んでいるところだったが、遊び道具をその場に放り出して現場に走った。現場に着くと、ちょうどそこから遺体が運び出されるところだった。私の心境は、火事を見物に行く野次馬と同じようなものだった。人を掻きわけ、小さい体をうまく利用して見事その集団の一番先頭に出ることが出来たのだった。 しかし、それはすぐに後悔へと変わった。私の目の前を遺体が通り過ぎる時だった。遺体にかぶされた布がひらりと落ちたのだった。その時私が見たものは、腐りかけた肉の中にうごめくウジの大群と、そして大きく突出した白い骨だった。 それはゆきの変わり果てた姿だった。あれほどまでに美しく、男たちみんなを魅了した人の見るも無残な姿だった。私はその異様な姿に、過越しの御法度を犯した者の末路を知らされた気がした。 「好き合ってしまったことは仕方がない。しかし、その気持ちは封印されなくてはいかんのだ」  社の中に入り、過去帳の空白のページを前にすると神父は独り言のようにそう言った。 「過去帳に名を書くことが封印するということか?」 「この世で一緒になれなくても、せめて好き合った印を残しておいてやろうということでこの過去帳はあるのだ」 「そうか」 「残念だが一緒にはなれなかったその無念を記すのだ。それはこの世に生まれて来られなかった水子のようなものだと私は解釈している」 「つまりこの作業は好き合った男女の供養のためにあると?」 「そう考えて良いと思う」 「ではその名前がこの過去帳に記載された後は?」 「二人の関係はそこで終わる。いや、終わらせなくてはならないのだ。二人の愛は死んだのだからな」 「もしそれを終わらせなかったら?」 「39年前の悲劇の二の舞になる」  神父はそう言うと息子の名前をそこに書き始めた。  三浦神父が帰った後、私は息子の傳蔵を部屋に呼んだ。 「父さん、どんなご用ですか?」 「実は先ほど三浦神父が尋ねて来てな」 「はい。神父さんの声が聞こえましたから存じています」 「それで、お前が北町のハルと好き合ってると神父が言って来たのだ」 「え……」  私は息子のその反応を見た瞬間、神父の話が真実だと確信した。 「お前はまだ二十歳だ」 「はい」 「なら女になどうつつを抜かしている時ではないことはわかっているはずだ」 「……」 「東京に行け」 「東京へ?」 「東京の傳吉のところに行け」 「叔父さんのところへ?」 「そうだ」 「でも……」 「傳吉も商売繁盛で人手が足りないらしい。それで以前からお前を手伝いに寄こしてくれないかと相談されていたのだが、これが良い機会だろう」 「……」 「わかったな」 「はい」 「それでは早速身支度をして東京に出発するのだぞ」 「わかりました」  私の息子への話はそれで終わった。私がそれで下を向くと息子は黙って私の部屋を出て行った。 第3章 約束 私にはもう時間が残されていなかった。父にあそこまではっきりと言われてしまえば、今すぐにでも東京へ出発をしなくてはいけなかった。それでそのことを真っ先にハルに伝えた。私がハルにその話をすると、ハルはその場に泣き崩れた。  私はハルを是非東京に連れて行きたいと思った。勿論それを父が許してくれるわけがなかった。そうであれば二人で駆け落ちをするしかないと思った。しかし、駆け落ちをしてどこへ行けばいいのだろうか。まさか女を連れて東京の叔父の家に厄介になるわけにもいかないと思った。 「どうしよう」  私はハルに自分の胸の内をそのまま伝えた。 「どうしよう」  ハルも私に思ったことをそのまま言った。 「ハルを置いて行くか、東京に連れて行くか」 「置いて行かれるのは嫌」 「私だってそんなことはしたくない」 「でも傳蔵さんのお父さんが」 「すると残された道は一つしかない」 「一つ?」 「うん。それは駆け落ちしかない」 「駆け落ち?」 「うん。ハルを連れて三春を出るしかない」 「三春を出てどこへ?」 「東京へとも思ったけど、父の弟が私たちを受け入れてくれるかどうか」 「お願いしましょう。気持ちを込めて一所懸命お願いしたら、きっと叔父さんにもわかって頂けると思います」 「うん」  私はこのような状況でも決して諦めないハルの逞しさに勇気付けられた。 「東京へはいつ出発するの?」 「父に早急にと言われているから、明日にでも出発をしないといけない」 「では明日私も一緒に参ります」 「いいのかい?」 「はい。私はいつも傳蔵さんと一緒ですから」 「そうか。わかった」  私はその時のハルの笑顔に安心した。 「それに」 「それに?」 「それに13年後の約束」 「あ」 「あの約束をきっと叶えたいの」 「そうだったね」 第4章 母のかんざし 母は素敵なかんざしを持っていた。それはお嫁に来る時に母の母からもらったと言っていた。私は一目それを見た時からそれが忘れられなくなった。 それは、鼈甲に桜の文様を螺鈿と金の蒔絵を使って表したものだった。私はその輝くような色合いに一目で心を奪われたのだった。  それは十二の時だった。それまでは母の目を盗み、自分の髪にあてがっては家の三面鏡でその姿を楽しんでいたものが、そのかんざしを遂に外へ持ち出してしまったのだった。友だちはその余りの美しさに狂喜した。そして私にも貸して、と言う声に、それは友だちの手を渡り歩いた。私はそれを見ていて、はらはらしたが、やがてそれが戻って来ると、再び自分の髪に差して、そして友だちと野原を駆け回った。  それがお寺の鐘が鳴り、さてうちに帰ろうとした時だった。それまで頭にあったかんざしがなくなっていることに私は気が付いたのだった。私は全身が凍る思いがした。あの大切なかんざしがなくなった、母に怒られる、どうしよう、という思いが心の中で順番に繰り返された。私はもしや友だちがそれを持っていないかと、一人一人に尋ねてみたのだが、誰もそれを私から受け取った者はいなかった。 「ハルちゃん、一緒に捜してあげるよ」 そう言って辺りの草むらに座り込んでくれる友だちもいた。 「あんなもの外に持ち出すからだよ。罰が当たったんだよ」 そう言い残して、さっさと帰ってしまう子もいた。私はそれを聞いて余計悲しくなった。というのも、私はその子の言う通りだと思ったからだ。 「酷いこと言うよな。お前も捜すのを手伝えよ」 一緒に捜してくれると言ってくれた関治ちゃんがそう言った。私は友だちにも手伝ってもらって、そうやって小一時間辺りを隈なく捜した。でもかんざしはなかなか見つからなかった。私はどの辺りを走り回ったのか自分でも覚えてなくて、それでもうこれは見つからないのだと諦めかけていた。 辺りはかなり暗くなって来た。そろそろ捜すことも難しくなって来た。一緒になって草むらを覗き込んでくれていた友だちが、一人二人と帰りだし、そしてとうとう関治ちゃんと二人だけになってしまった。私は心の中で、関治ちゃんは帰らないでと叫んでいた。しかしそれからほどなく、関治ちゃんが私に近づいて来て、帰ると言い出した。 「ごめん。母さんに怒られるから」 私はそんなにまで付き合わせてしまって申し訳ないと思いながらも、それでもかんざしが見つかるまで、出来れば一緒に捜して欲しいと言いたかった。 「明日また捜そうか?」 「ううん。ありがとう」 関治ちゃんの膝が小刻みに震えていた。そうやって、早く帰りたいと私に訴えていた。だから引き留めはしなかった。そして明日のお願いもしないで私は関治ちゃんを帰してしまった。関治ちゃんが帰ってしまうと、いよいよ私一人になった。私は見つかるまで帰れない、そう思った。そして私がこうして、あのかんざしを捜していれば、やがて両親が心配して、それで友だちからここにいるということを聞き出して、それから心配してここへやって来ると思った。そして、もう捜さなくていいからと、私を赦してくれるのではないかと思った。だから、それまでここでこうして捜し続けなくてはいけないと思った。 (でも……) でも、あの母は決して私を赦さないだろうと思った。父は私を赦しても、母はきっと見つけて来るんですよ、見つかるまで家に戻って来てはいけませんよ、と私にきつく言うことだろうと思った。母はそういう人だった。そうだとすれば、私はかんざしが見つかるまで決して家に帰ることは許されないのだと思った。私は涙が出て来そうになった。 その時だった。 「ハルちゃん、あったよ!」 ずっと向こうで、私の名前を呼ぶ声がした。 (誰?) 私はそう思ってその場で立ち上がってみた。すると、ずっと向こうからこちらに誰かが歩いて来るのがなんとなくわかった。そしてその人が私の目の前までやって来ると、手に持った何かを突き出した。 「ハルちゃん、これだろ?」 私が差し出されたそれを見ると、それは母のあのかんざしだった。 「あ、あった!」 私はその瞬間涙がぼろぼろとこぼれて来た。私はその人は誰だろうと思った。一緒にかんざしで遊んだ中にはいなかったような気がしたからだ。そして一緒になくなったかんざしを捜してやると言ってくれた中にもいなかったと思った。私がようやく泣くのを止めると、その人は私を家まで送ると言った。 「いつから捜してくれてたのですか?」 「最初からだよ」 私は全くそれに気がついていなかった。 「でも、最初から一緒にはいませんでしたね?」 「かんざしがなくなったってハルちゃんが大きな声を出したから、それはいけないと思って」 「え?」 「あの野原を突っ切って卵を買いに行く途中だったんだよ。母に言われて」 「じゃあ早く卵を買いに行かないと」 「ううん。もう暗くなったし、いいよ」 私は申し訳ないと思った。この人がお母さんに怒られてしまうのではないかと思った。それでまた悲しくなって来た。 「ごめんなさい」 「謝る必要なんてないよ。母もこんなことで怒りはしないし」 そう言ってその人が笑った。その笑顔に私は急に安心した。 「あのー、お名前は…」 私はいつかまたどこかで会ったら挨拶くらいはしなくてはいけないと思い、それでその人の名前を聞こうと思った。 「影山です。影山傳蔵」 「影山?」 「うん。ハルちゃんと同じ影山」 私はその時、その人が私のことを知っているのだと思った。 「ありがとうございます。傳蔵さん」 私は影山さん、と言うのが少しおかしいと思って、それで思わず名前を言ってしまった。でも、いくら相手が私のことを知っているとは言え、初対面の、しかも年長の人を名前で呼ぶなんて、そんなことは未だかつてなかったことだった。 「いいえハルちゃん、気にしなくて大丈夫ですよ」 私はその人のハルちゃんと言う声に何故か心地良いものを感じていた。 第5章 駆け落ち 次の日、季節は初夏であったが冷え込む朝になった。寒い朝は何事も行動を鈍らせた。着替え一つにしても、その緩慢さを禁じ得なかった。それは、これからしようとしていることに迷いがあるからなのか、或いは寒さ故なのかは、自分でもよくわからなかった。ただ、それでもこれからずっとハルと一緒にいられるのかと思うと、そのようなことはどうでもよくなった。 勿論、私の心の中にはもし叔父に断られたらどうしようかという不安があった。しかし、その時はその時で、きっとどうにかなると思った。ハルと一緒ならどんな事態になろうともきっと乗り越えられると思った。 ―カァ― 家の門を出た瞬間だった。母屋のずっと奥から鵺(ぬえ)とも、烏ともわからぬ声が木霊した。振り返ると敷地の奥に立ち並ぶ木々の方から日が昇って来ていた。 (急がないと) 私はそう思い、門を静かに閉めた。  それからは早足で先を急いだ。頬には冷たい風が否応なしにぶつかった。鼻が冷たさの余り痛くなって来た頃、ようやくいつも通っていた坂道に至った。そしてそこを一気に駆け上がると、そこにあの桜の木が現れた。それで私は思わずそこで立ち止まってしまった。暫く見納めだと思うと、どうしてもそのまま通り過ぎることは出来なかったからだ。私は何度あそこでハルを待ったのだろうかと思った。 ―カァ― すると再びどこかで何かの鳴く声がした。私はそれで気を取り戻し、再び駅へと足を向けた。  その丘から駅へ向かう道は、なだらかな下り坂になっていた。そして、いくつかの竹藪の脇を抜け切ると、そこからとうとう三春駅を望むことが出来た。すると、突然駅舎の前に佇む一人の女性が目に飛び込んで来た。それは後ろ姿だったが、私にはそれが一目でハルだとわかった。すると自然に歩みが速まった。 実は正直なところ、もしかしたらハルが今日ここには現れないのではないかと思っていた。もしかしたら心変わりをしてここには来ないのではないかと心配していたのである。  三春、それは私たちにとって楽園そのものだった。ここで生まれ、ここで育ち、そしてここで愛する人と出逢った。そのような土地を喜んで離れたいと思う人がいるはずがなかったからだ。私の場合は父の言い付けでこの土地を仕方なく離れるのである。父に勘当をされたわけではない。だから、ここに戻りたければいつだってそれが叶う。ただ今は少しだけ他の土地に移るだけである。叔父の会社を手伝う為にほんの少しの間東京に行くだけで、私の故郷がここでなくなってしまうわけではなかった。しかしハルは違う。ハルが私について来るということは、その意思で故郷を捨てるということである。故郷を捨てた人間は二度とそこへ戻ることは出来ない。だから私とハルとでは置かれた状況があまりに違っていたのである。 「やあ」  私はハルに少し照れながらそう声を掛けた。 「うん」  ハルも少し照れくさそうな顔で僕を出迎えた。 「汽車が来るまではまだ少し時間があるけど、駅舎の中に入ってようか?」 「うん」  そう言って私たちは中に入ると切符売り場はまだ開いてなかった。それを横目に私たちは駅舎の待合室に腰掛けた。 「切符売り場が開くまでここで待っていよう」 「はい」  ハルは終始笑顔だった。故郷を捨てる決心をたった一晩でよくぞ出来たものだと感心した。 「晴れて良かったね」 「ええ」  或いはハルは潔い人なのかと思った。こうと決めたら一心不乱に突き進むことが出来る強い性格なのかと思った。 「傳蔵さん」 「なんだい?」 「今までありがとう」 「なんだい、いきなり」 「ううん。こんなにまで私のことを思ってくれて」 「何を今更」 「私幸せ」 「うん」 「それに傳蔵さんのことも本当に好き」 「うん」 「傳蔵さんは正直で、そして優しいから」 「うん」 私はそう言って頷いたものの、少し心がくすぐったかった。 「でも」 「でも?」  私はこの時ハルのでも、という言葉に妙な胸騒ぎを感じた。 「でもね」 「……」 「でも私やっぱりここを離れられないの」 (何かあったの?)  私は一瞬で体が凍りついた。 「私ね。傳蔵さんと一緒には行けないの」 (どうして?)  私は自分の体から魂が抜けていくような感覚に陥った。 「母は優しくないし、父も気難しいし、でも両親にあれだけ懇願されたら私、やっぱりここを見捨てては行けない」  私は手の指先が小刻みに震えていた。 「ごめんなさい」  その時私は、先ほど三春の駅舎の前に佇んでいたハルの後ろ姿を思い出していた。あの時ハルの姿を見た瞬間、私は最高の幸せに包まれた。そして安心した。その感覚は、ずっと滝桜の前でハルを待ち続けた私の念願だったからだ。 「私、最後くらいあなたより先に来てなくちゃいけないと思ったの」 「うん」  私は涙が出そうで、最早ただうんとだけしか言えなかった。 「今日やっとあなたよりも先に来れたの」 「うん」 「今日あなたをここでずっと待っていて、あなたが私を滝桜の下で待っていた気持ちがようやくわかったの」 「うん」 「あなたはきっと来るとわかっていても、やっぱり私は不安だった。だから、ごめんなさい。いつもあなたを不安な気持ちにさせてしまって、ごめんなさい」 「そんなことはないよ。僕はハルを待つのが楽しかったんだよ」  それは私の正直な気持ちだった。何故なら、私はハルが一度たりとも来ないと思ったことがなかったからだ。必ずハルが来てくれると信じ切っていたから、寧ろそれが幸せな時間でもあったのだ。 「やっぱり傳蔵さんは優しい」 「そうじゃないって」 「ううん。傳蔵さんはそういうお人だから」  その時切符売り場の窓が開いて駅員がこちらを覗いた。私が駅員の方を見るとハルが私から一歩後ずさりをした。 「私、行くね」 「え?」 「見送りはやっぱり辛いから」 「うん」 「手紙書いてね」 「うん」 「元気でね」 「うん」 「お休みに三春に戻ったら、ハルを必ず訪ねて来てね」 「うん」 「東京へ行っても、ハルのことを忘れないでね」 ハルはそこまでしゃべり終わると突然私の胸に飛び込んで来て、そしてそこに顔をうずめた。その瞬間ハルの良い香りが広がった。それはまるで二人が滝桜の前にいるような錯覚をもたらした。しかしそれは一瞬のことだった。次の瞬間ハルは私から素早く離れると、何も言わず駆け足で遠ざかって行った。ハルのその後ろ姿は滲んでいた。私はその姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。 ―カァ― その時再びその声がした。まるでそれが合図かのように、私は東京までの切符を買って、そのままホームに向かった。 第6章 ハルの死  叔父の会社での私の仕事は経理事務だった。最初は右も左もわからない状態だったが、周りの人の親切でなんとかやっていけた。 東京に出て来て二か月ほどでお盆になり、他の従業員同様に私も休暇をもらった。私は三春へ帰れると思った。しかし、父の言葉は私を落胆させた。今帰省してはせっかく東京の水に慣れて来たことが無駄になってしまうと言われたのだった。私はハルのことを思いながら一人東京の街を彷徨った。  やがてその年も終わりに近づいた。私は正月こそは三春に帰れるだろうと思っていた。しかし、三春からは何も言って来なかったので、会社の中で親しくなった同僚と銀座にでも繰り出して、新年を飲み明かそうかと思っていた。そこへ母から急いで戻って来いという連絡が入った。私は父に何かあったのではないかと思った。年末になっても父から戻って来いという連絡がなかったのは、そのためかと思った。年末の帰省列車の切符はなかなか手に入れられず、叔父のコネでようやく各駅停車の乗車券を手に入れると、取るものも取りあえず三春へ戻った。 「ただいま帰りました!」 家に着くと玄関でそう大きな声を出して帰宅を告げると、母が慌しく出て来たので父さんがどうかされましたかと聞くと、母はハルの実家へ行くから私にもついて来いと言った。 (ハルの実家へ?)  私はどうしてだろうと思った。母はその途中ずっと無言だった。私は母のただならぬ様子にハルの実家に着くまで遂に声を掛けることが出来なかった。私の不安はどんどん大きくなって行った。  ハルの実家の前では、そこに灯された提灯のもとに大勢の人が集まっていた。それは葬式だった。 (誰の葬式だ?)  すると門の脇には立て看板があり、私はそこに書かれた名前を見て息が止まった。 ―故影山ハル儀― (嘘だ) それはハルの葬式だった。 (何かの間違いだろ?) 私はその途端、全身から力が抜けて意識が遠くなってしまった。それから私が覚えていることといったら、暗闇の中でぼんやりとした提灯の明かりと読経の声、そして参列者のすすり泣く声だけだった。私にはハルの死が到底受け入れられなかった。何か悪い夢でも見ているのだとずっと自分に言い聞かせていた。 ハルの死は突然ではなかったようだ。私と会えなくなって暫くふさぎ込んでいたらしいのだが、それも時間が解決してくれるだろうと周りの人はそれほど気にはしていなかったようだった。ところがそれからハルはどんどん体調を崩して行って、二度と明るい笑顔を取り戻すことはなかったらしい。そして、ハルがいよいよだめだという時になって、うわ言で私の名前をひたすら呼び続ける姿を見て、さすがにハルの両親も我が子が可哀想になり、私の母に私を呼び戻してくれるよう頼んだらしい。 しかし、母がそのことを父に話しても父はそれを断固として許さなかったのだ。結果、とうとうハルは私に会えずにこの世を去ってしまった。母とハルの両親は私に泣きながら詫びてくれた。私とハルの心境を察すれば、是非一緒にさせてやるべきだったと言っていたが、それでも家長である私の父の猛反対にあっては、どうしようもなかった。 あの日もハルは私と一緒に東京へ行く気でいたのを、私の父がハルの両親を脅すようなことをしてそれを力づくで止めたらしい。恨むのであれば父をだけれど、母には決して父を恨むことなどしないようにと、それだけは約束してくれと泣きつかれた。母親にあれだけ懇願されれば息子は弱い。でも、私は決して父を許さなかった。理由もないことで、私とハルの幸せを阻んだ父を金輪際許さないと思った。 私はハルの葬式中ハルの実家にずっとやっかいになっていた。ひと時もハルと離れたくなかったからだ。それで葬式が一通り済むと、ようやく実家に戻った。しかしそれは、父と最後のお別れをしようと思ったからだった。ハルがいなくなった三春には最早何の未練もなかった。いや寧ろ、ハルを死なせた三春が憎かった。だから、二度とここへは戻って来ないと父に告げに実家へ帰ったのだった。 第7章 今生の別れ 「父さん」 私は家に戻るなり、真っ先に父の部屋を訪れた。 「傳蔵か?」 「はい」 「入れ」 私はそう言われて父の部屋に入ると、父は何か手紙のようなものを書いていた。父はそれをあわてて片付けると私の方を向き、そして座れと言った。私は父と向かい合って、どう話を切り出したら良いか考えていた。やがて私が何も言わずにいたことにしびれを切らした父が話し始めた。 「なんだ?」 そこで私も、その言葉に引きずられるようにして話を始めた。 「三春を出ます」 「東京に戻るのか?」 「はい」 「明日か?」 「はい」 「そうか」 「そして、もう戻って来ません」 「ん?」 「もう二度と三春へは戻って来ません」 「どういう意味だ?」 「ハルはもういないんです」 「……」 「ハルを死なせた三春が憎いんです」 「……」 私は堰き止められていたものが溢れ出すように、次から次へと言葉を続けた。 「三春が憎い?」 そして言ってはいけないことも遂に言ってしまっていた。 「そして、そう仕向けた父さんも憎い」 父は私をじっと見つめたまま視線をはずさなかった。私はどうしてそこまでして私たちを引き離したのか、その理由を聞きたかった。 「父さん、どうしてですか?」 しかし父は黙っていた。 「どうして私とハルの仲を裂いたのですか?」 父の沈黙は、そのまま父の権威を表していた。家長である父の言葉は絶対である。そこには理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。しかし、それが一旦発せられたなら、その言葉通りに実行するしかないのだ。それが正しくとも、正しくなくとも、それにそのまま従うしかないのだ。私はそういう父と、そしてそれを保護するかのような母をずっと長い間見て来た。そしてもうこれが限界だと思った。いい加減にして欲しいと心の中で叫んでいた。 「それは…」 その時父がそう言ったような気がした。しかし、その瞬間私は、そこにあった小刀を手にして父に飛び掛かっていた。 第8章 父の本懐  私は故郷を失って、とりあえず東京に戻って来た。しかし、父を刺した身で叔父の元へ行くことなど出来るわけがなかった。それでも行く宛てがなく、叔父の家の近くをぶらぶらしていると、それが叔父の家の者に見つかり、結局叔父の家に連れて行かれることになった。叔父の話だと父の怪我はたいしたものではなかったらしい。警察沙汰にもならず、つまり私は犯罪者になることはなかった。それで今までと同じように叔父の家にやっかいになることが出来たのだった。しかしそのことで叔父には感謝をしたが、父には何も思うところがなかった。父はきっと世間体を気にしたのだろう。名家の家長がその愚息に刺されたなどとは口が裂けても言えなかったのだろうと理解した。  私はそれからがむしゃらに働いた。ハルのことを忘れる為、身を粉にして働いた。しかし、いくらハルのことを忘れようとしても、それは出来なかった。時には自暴自棄になり、叔父の会社を辞めてどこかへ消えてしまおうかと思ったこともあった。私はそれからずっと苦悩の日々を送った。  戦争が終わると私はある女と知り合った。当時は食べて行くのがやっとの状態だったが、二人ならなんとかなると言われて、それならば一緒に暮らそうかということになった。やがて、その女との間に息子が生まれた。 名を甫(はじめ)とした。妻と息子と三人での生活は決して楽ではなかったが不幸でもなかった。やがて息子は成人し、妻をめとった。そして息子に子どもが出来ると私は新しい生き甲斐をその孫の面倒に見出していた。 「そう言えば今年は母の二十三回忌だったなあ」 「お義父さんのお母さんですか?」  その日、息子の嫁とテレビを見ていて、たまたまお墓の特集をやっていた時に私はそのことを突然思い出した。 「お義父さん、じゃあ法事とかされるんですか?」 「いいや、いいよ。今まで法事なんかしたことないし」 「そうなんですか?」 「うん」 「でも、お祖母(ばあ)さんのお墓のあるお寺は御存知なのですか?」 「うん。一応はね。十七回忌の時にお花代と言ってお金を送ったし」 「じゃあ今回も同じようにされたらどうですか?」 「お花代を送れということかな?」 「はい」 「そうだな。そうしようかな」 「後で郵便局に行く用事がありますから、現金書留で送っておきます」 「悪いね」 「お寺の住所はわかりますか?」 「ええと、どこだったかな」  私はそれで自分の部屋に戻り、お寺の住所を書き留めた手帳を捜した。普段使わないものはいつも箪笥の真ん中の引き出しにと決めていた。それでそこを開けて中を探るとその一番奥に捜していた手帳があった。ところが、それを引っ張り出そうとすると、それが何かに引っ掛かってなかなか取り出すことが出来なかった。それで仕方なくそれを無理に引き出そうとすると、その瞬間ビリっと紙の破ける音がして黄ばんだ古い封筒まで一緒に出て来てしまった。 (あ、これは……) それはいつだったか、甫が生まれて間もない頃に父から突然送られて来た手紙だった。それを受け取った時は母に何かあったのかと思って驚いたが、そうであれば電報を打ってくるだろうと思い、そのまま箪笥の中にしまっておいたものだった。見ると無理に引っ張り出した勢いで封筒の一部が破れ、そこから「影山ハル」という父の書いた字が見えた。 ―影山ハル― 私はその懐かしい名前に一瞬で魅せられてしまった。それで我を忘れて、いつの間にかその封筒を開けてしまっていた。すると中からは便箋が数枚出て来た。私はその溢れるような父の文字に目を落とした。 「傳蔵、お前が生まれた朝、私は飛んで妻の実家へと向かった。男の子が生まれたと聞いて、嬉しくて仕事になど行ける心境ではなかったからだ。お前に会いに行くと、思った通り私に似て美しい男の子だった。跡継ぎの誕生とあって、妻の実家は喜びに満ち溢れていた。お前にはみんなの夢と期待を一身に受けて、輝かしい未来が待っていた。 ところが、その日は突然訪れた。三浦神父がたいそう深刻な顔をして、うちに訪ねて来て、お前が影山ハルと逢い引きをしていると言うのだ。私は、お互いに好き合ってる男女が逢い引きをすることに何の問題があるのだと思った。そして、男女の仲を他人がとやかく言う方が問題だろうと思った。しかし三浦神父は、その年が過越しの年だということを私に思い出させたのだった。 ―過越しの年―  お前はこの言葉を聞いたことがあるだろうか。そしてその言葉の意味を知っているだろうか。過越しの年とは、梅と桃と桜が一緒に咲く年のことを言うのだ。そして、その年には決して男女が好き合って結ばれてはいけないという言い伝えがあるのだ。しかし、そうは言っても好き合う男女を無理に引き離すことなど出来るはずがなかった。誰もがそれを迷信だと思っていたからだった。 ところが、そのことが悲劇を生んだ。今から39年前、その迷信は現実のものとなった。二人の男と一人の女がその御法度を破ったことによって、非業の死を遂げたのだ。 私はその時のことを今でもよく覚えている。その女はとても美しい人だった。若い男なら誰もがその人に恋心を抱いていた。ところがそれ程までに美しい人も、その最期は無残極まりなかった。その死に様は以前の輝くような美しさとは程遠いものだった。私たち町民は、その変わり果てた姿に驚きや哀れみよりも寧ろ恐怖を覚えた。あのような女神のような人でさえ過越しの年の御法度を破れば、まるで地獄に落ちたような形相になり惨めな最期を迎えるのだと震えあがったのだ。  お前が選んだ娘は、私も幼い頃からよく知っている女だ。とてもいい娘だ。それに美しい。私もこの娘がうちに嫁いでくれたらどんなにありがたいことかと正直そう思った。それだから、もし、お前たちが過越しの年に好き合うのでなかったなら、どれほど良かったことかと思った。 我が家では代々、過去帳と呼ばれている本を管理している。それはうちの敷地の中に建てられた社の中に保管されている。その過去帳には、三春の御法度で結ばれることが許されなかった男女の名前が延々と綴られているのだ。だからそれは愛し合う男女の怨念が詰め込まれたものなのだ。そして、図らずも、その過去帳にお前とハルも記されることになってしまったのだ。 私は三浦神父に促されて、お前とハルの名前をあの過去帳に記すことを承諾した。しかし、それは39年前の悲劇を再び繰り返さないようにする為だ。お前も、そしてハルも決してあのような惨い結末に至らせたくなかったからだ。しかし、その結果、お前とハルを永遠に別れさせることになってしまった。それは大変申し訳ないことをしたと思う。お前とハルの悲しみを思うと、私の胸は張り裂けそうで仕方がない」  私は父の手紙を読み終えると、その場で暫く動けなかった。そして、どういうわけか自然に涙が流れ出て来た。それで私はどうして悲しいのだと思った。しかし、それは悲しい涙ではなかった。きっと凍りついた私の心が静かに溶けだしたからだと思った。 私は自分の運命を悲しみ、ハルの人生を悲しみ、そして父の胸中を悲しんだ。すると、いつの間にか父への恨みは消えていた。父も苦しんだのだろうと思った。父が私たちのためを思ってしてくれたことが、このような悲しい結末になってしまったのだとわかると、父を素直に赦すことが出来た。そして、きっと私はずっと父を赦す機会を待っていたのだと思った。その途端、私は三春へ行ってみたいと思った。そしてうちの敷地にあったあの社の中の過去帳を見てみたいと思った。そこに書かれているはずの私とハルの名前を見てみたいと思ったのであった。 第9章 帰郷 まだ夏には少し早い季節だった。私は孫の徹を連れて三春に向かっていた。本当ならばもっと早く三春に戻って来たかったのだが、その踏ん切りがつかなかった。それが今、何の因果か父のあの手紙を読んだことで、過去の因縁を遂に断ち切ることが出来たのだった。 「徹を連れて遊園地へ行って来るから遅くなるよ」 息子の嫁にはそう言い残し、私は今年四つになる徹の手を引いて三春へと出発した。どれくらい振りで故郷に帰るのだろうか。頭の中でそれを計算してみると、ざっと52年の年月が流れていた。 上野駅から郡山駅に着くと、私はどうしても我慢が出来なくなって、駅ビルの中のお店に目を奪われている徹の手を引き寄せ、殺風景な磐越東線のホームに向かっていた。 「おじいちゃん、もう行くの?」 「うん」 「電車がもう来るの?」 「うん」  地下通路を抜けてホームに上がると、遠くまで続く線路が間近に見えた。その線路の先には故郷の三春が存在するのだと思うと私の胸に熱いものが込み上げて来た。 やがてホームに汽車が入って来た。昔はそれが蒸気機関車で引っ張られていたものだった。今もそれは電化はされてはいないものの、すっかり近代的な車両になっていた。そのドアが開くと、さっさと徹が私の手を引いて中に乗り込もうとした。それで私は徹と一緒にその中に吸い込まれるように進んだ。 どれくらい待ったろうか、私たちの乗った汽車がゆっくりと動き出すと移り変わる外の景色は待ったなしに三春へと迫って行った。私はもう逃げられないと思った。こうやってこの汽車に乗ってしまえば、もう逃げることは出来なくなったのだと思った。そして、もう三春に向かうしかないのだと思うと、やっと重い荷物を下ろした気分になった。 汽車は、川のほとりを走り、田の中を進み、更には山際を抜け、そして長く暗いトンネルに吸いこまれて行った。 「トンネルに入ったら窓を閉めるんだよ」 私は徹にそう言った瞬間、これは蒸気を撒き散らして走るSLではなかったことを思い出して恥ずかしくなった。しかし、孫は私の声が聞こえなかったのか、そのまま外を見たままでいた。私の心は既に三春に属していた。すると先ず知人の顔が浮かんだ。それから母の顔が浮かんだ。そして父とハルの顔が蘇った。  三春の駅に到着すると、その駅舎の変わりように少し驚いたが、それでも改札から一歩外に出ると、私の意識は52年の歳月を一気に飛び越えた。そこは私の町だった。確かに私が生きていた町だった。 「大町八番地までお願いします」 私は徹と一緒に駅前のタクシーに乗り込むとそう運転手に告げた。 第10章 大町八番地 「この家が大町八番地ですが、こんなところでよろしいのですか?」 「あ、はい」  タクシーの運転手にそう言われて外の景色を確認すると、そこはかつて私が住んでいた家の様子とは全く違っていた 「見た感じ、誰も住んでいないと思いますよ」 「はい。ここで結構です。ありがとう」  私は心配そうな顔をしている運転手に礼を言って、そこでタクシーを降りた。しかし、タクシーが行ってしまうとさすがに不安になった。そこはまさに廃墟だった。父が他界して、母もいなくなって、つまり誰もいなくなってから僅か十数年でこれほどまでに様子が変わってしまうのかと正直驚いた。 私は風化が始まっている門の外から敷地の中を恐る恐る覗き込んだ。そこには以前と変わらず広大な土地が広がっていた。そしてその周りを塀が囲ってあり、一か所だけある門には「影山」と書かれた大きな表札があった。その門から中に入ると家族が住んでいた母屋があり、その母屋から更に奥に進むと父が書斎に使っていた離れがあった。その離れの裏は大きな木々が立ち並び、まるで森のような光景だった。そして目的の社は、その森のずっと奥に位置していた。 私はせっかくここまで来たのだからと、その変わり果てた場所へ足を踏み入れることにした。私は徹の手を掴むとそのまま門を抜け、母屋を右手に見ながら離れの方へ進んだ。その離れは屋根と壁が大きく崩れていて、母屋よりずっと荒廃していた。 「お化けが住んでるの?」  徹が私の手を強く握ってそう言った。 「お化けはいないよ」  それから私たちが離れから更に奥へ進もうとすると、そこには以前にも増して木々が拡大していた。それはまるで魔物が住む深い森だった。それで徹が怖いと言い出したので無理に手を引っ張ろうとしたが、徹はそこから先には一歩も動かなかった。それで私は仕方なくそこから引き返すことにした。 私はがっかりした。しかし、それはあれから先に進めなかったからではなかった。母屋と離れがあれ程までに朽ち果てていたのだから、きっとあの社も同じような状態になっていると思ったからだ。もしあの中に何かあったとしても、それはとても確認など出来ない状態になっているだろうと思った。 「おじいちゃん、疲れちゃったの?」  それで私は、再び門のところに戻るとその場に座り込んでしまった。 「おじいちゃん、僕は疲れてないよ」  私が枯れた枝のようにその場に座っていると、徹はじっとしておらず、その周りでぴょんぴょんと飛び跳ね出した。私は徹を注意する気力もなく、その姿を呆然と見ているだけだった。 第11章 過去帳 「おいくつですか?」  その時、誰かが声を掛けて来た。私がその声のした方を見ると、そこには五十代半ばの女性が立っていた。 「四つ」  徹は自分の歳をその人に答えていた。 「あら、じゃあこの子と同い年ね」  よく見ると、その人の後ろには徹と同じくらいの歳の女の子が立っていた。 「大丈夫ですか?」  続いてその人は私にも声を掛けて来た。私はよっぽど疲れた顔をしていたのかと思った。 「あ、はい」 「どこかご気分でも悪いのですか?」 「いえ。ちょっと疲れてしまいまして」 「どちらかに行かれるおつもりだったのですか?」 「はい」 「どちらへ?」 「ここです」 「ここ、ですか?」 「はい」 「影山という表札が出ているこのお宅へですか?」 「はい」 「でも、ここには誰も住んでいないようですが」 「そのようですね」  その人は私がそう答えると私の顔を繁々と見た。 「もうずいぶん前に住んでいた方がお亡くなりになったと聞きましたが」 「そうですか」 「亡くなられた方のお知り合いですか?」 「ええ」  その人の後ろに隠れていた女の子が、いつの間にか徹とじゃんけんを始めていた。 「この敷地の中に、社があったはずなのですが」 「社ですか?」 「ええ」 「その社がどうかされましたか?」 「それを見に来たのです」 「その社をご覧になりたいのですか?」 「はい」 「そうですか」  その人は少し困ったような顔をした。 「失礼ですがこの辺りでお見掛けしないお顔ですが」 「はい」 「どちらから来られたのですか?」 「東京です」 「まあ、そんな遠くから」 「ええ」 「そうですか」 「ところがご覧の通り、ここには誰も住んでいないし、孫も怖がって中に行くのが嫌だと言うし」 「小さいお子さんなら怖がってしまいますね」 「ええ」 「それで途中までは行ったのですが戻って来てしまいました」 「ここに住んでらした方とはどのようなご関係なのですか?」 「え?」 「あ、ほら、いくら誰も住んでいないと言っても、赤の他人の家に入るのはちょっと……」  私はそう言われて確かにその通りだと思った。 「私は影山と言います。影山傳蔵です。この家に昔住んでいました」 「え! 影山傳蔵さんて、あの?」  その人が驚いて私を凝視した。 「まさか私のことを御存じですか?」 「いいえ。でも噂では聞いたことがあります」 「噂で?」  私は少し可笑しくなった。 「ええ、東京に行ったまま戻らない息子さんがいらっしゃるって」 「はい。その息子が私です」 「ああ、そうでしたか」  私は無意識に頭に手をやっていた。するとその人は私を尚も見つめた。 「色々とありまして」  私はどうして戻って来たのかを、その人に聞かれるような気がした。それでその前にそう答えた。しかし、その人はそのことには関心がなかったようだった。それでその話は自然に断ち切れる形になった。 「ここに社があるんですか?」 「ええ。このずっと奥にあります」 「あそこに見える森の中ですか?」 「はい。その奥です」 「森を通るとお孫さんが怖がるのですよね?」 「はい」  その人はそこで少し考える素振りを見せると急に笑顔になった。 「それでしたら、大丈夫ですよ」 「え?」 「森を通らないでも行けますよ」 「それはどうやって?」 「行かれますか?」 「はい。是非、連れて行ってください」  私はそう言うと急いで徹の手を取り、その人の後について行った。するとその人は、うちの門には入らずに、塀に沿ってぐるりと敷地を回りだした。 「あれ? 門からは行かないのですか?」 「はい」 「でもこの塀は途切れることなく敷地を囲っていますよ」 しかし、その人は私の言葉を無視して、急ぎ足でそのまま歩き続けた。するとやがて塀が部分的に崩れていて敷地の中が見えるところに行き着いた。 「ここからだったら入れるかしら?」  それは人がやっと一人、通り抜けることが出来るほどの隙間だった。私はそこから敷地の中を覗き込むと、森の手前に大きな木々に囲まれた小さな建物を発見した。 (あれだ!) 私はそれを見つけると体を横にしてその隙間からするりと中に入った。そして腰くらいの高さまである雑草を掻きわけながら、無我夢中で前へと進んだ。するとやがて目の前に現れたのは、やはりうちの敷地の外れにあったあの社だった。 (懐かしい)  それは不思議なことに昔のままでそこに建っていた。 「その社で間違いありませんか?」  気がつくと、あの女性も小さな二人の手を引っ張って、私の後から追い掛けて来ていた。 「はい。ここです。ありがとうございます」  私が社の入口の扉に手を掛けると、それは軋むような音を立ててゆっくりと開いた。鍵は既に壊れているようだった。私はその中に徹の手をつかんで入った。途端私はあまりの神秘的な光景に息が止まった。それは例えようのない美しさだった。まるで花畑の中にいるような錯覚を私にもたらした。 (梅、桃、桜……)  その時私は遠い昔にハルが言ったことを突然思い出していた。そしてもしやこれが梅と桃と桜が同時に咲いた光景ではないかと思った。 (あ) 見ると上の方から一筋の光が射し込んでいた。それは社に作られた天窓から注がれていた。それが天から降り注ぐ月明かりに私には思えた。 (なんて神秘的なんだ) 私は社の中の暗さに次第に目が慣れて来ると、その中がどのようになっているのかが段々とわかって来た。そこには棚が設けられていた。そしてその上にたくさんの本が和紙に包まれて置かれてあった。そしてその本からは仄かな光が発せられていた。どうやらそれが花畑の正体だったようだ。 (これが過去帳?) 改めて見るその本の山は例えようのない美しい光景であった。 (あれは?) 次の瞬間私はその中でも特に強烈な光が放たれている場所を見つけた。それは花畑の中央の少し後方であった。それでそれが何だろうと思って近づいてみると、そこには一メートルほどの高さの台があり、その上には他のものとは違って和紙には包まれていない一冊の本が乗っていた。裸の状態でさらされたそれは、他のものより一段と色鮮やかに輝いていて神々しくさえあった。私はその眩い光に一気に心を奪われた。 「おじいちゃん、綺麗だね」  私はあまりの美しさに声も出なかった。 「このキラキラ光っているのはなあに?」  その本の表紙は漆器で出来ていた。そしてそこにはあの滝桜の景色が螺鈿と金の蒔絵をふんだんに使って表されていた。その全面を覆い尽くす金の色調に桜の桃色や緑色が巧みに入り混じり独特の輝きを放っていたのだった。 私はその光り輝く過去帳をゆっくり開いてみた。 ―天保―  すると先ず私の目に飛び込んできたのはその文字だった。それは江戸時代の元号に違いなかった。天保11年とあり、それから人の名前が書かれてあった。 (これは江戸時代に書かれたものなのか)  それで私はその本のページを暫くめくってみることにした。するとやがて親しみのある元号が目に入った。 ―明治―  明治という元号を見た時に、きっとこれに私とハルの名前が載っているはずだと思った。それで私はそのページをめくる速度を速めた。 ―影山傳蔵― (あった!) するとそこから程ないところに私は自分の名前を見つけることが出来たのだった。 ―影山ハル― そして私の名前の隣りには間違いなく、あのハルの名前もあった。私はそのハルの名前から目を逸らすことが出来ずにその場で固まってしまった。 第12章 もう一人の犠牲者 「この中ってこんな風になっているのですね」  その時だった。社の入口からさっきの人が入って来て、私にそう言った。 「あ」 (入って来ちゃったのか)  私は突然の訪問者に少し戸惑った。しかしその人は少し周りの様子を眺めた後、平然として私のところに歩み寄り、そして私の手元を覗き込んだ。 「それは過去帳ですね」 (どうして過去帳のことを知ってるんだ?) 「私、初めて見ました」 「過去帳のことを知ってるのですか?」 「ええ」  次にその人は、そのページに書かれていた私の名前を見て言った。 「この影山傳蔵さんて……」 「私です」 「え? あなたがここに書かれていたのですか?」 「はい」 「では、このお隣りのハルという方は……」 「ええ……」  私はハルのことを語ることをためらった。 「将来を約束された方ですね」 「あなたがどうしてそれを?」 「でも結ばれなかったのですね」 「それも御存じで」  するとその人は、私の名前が書かれた次のページを静かにめくった。するとそこには、「影山とし」という名前が記載されていた。 「やっぱり」 「やっぱり?」 「これは私の名前です」 「え……」 「私も過越しの年に恋をしたのです」 「え!」  私は驚いてその人の顔を見ると、その人はそこに書かれた自分の名前をじっと見つめていた。 「ではあなたも私と同じようにその方とは結ばれずに?」 「はい」  私は自分以外にもこの御法度の犠牲になった人が実際にいたことを知った。 「きっとあなたも不幸だったのですね」 するとその人が自分の名前を見つめながらそう言った。 「不幸?」 「あ、私はその人と一緒になれずに苦しい人生を送ったので」 「そうですか……」  私はその人にそう言われて、改めて自分の人生はどうだったのかと思った。私はハルを亡くし、三春を去り、父と母の死に目にも会えずにいた。そう思うと私の人生は不幸だったのかもしれない。しかしその一方で東京では別の女と結ばれ、息子が生まれ、そして今こうして孫を連れてこの三春に戻って来れたことを思うと、果たして私の人生は幸せだったのか、そうではなかったのかわからなくなった。 「私はハルを連れて三春を出ようとしたのです。しかしそれは叶わなかった」 「一緒に逃げようとされたんですか?」 「ええ。結果、ハルは死にました」 「そうですか」 「私が一人でここを出て、そしてここにいない間にハルが死んだのです。葬式には戻って来ましたが、葬式が終わるとすぐに東京に戻りました」 「そうだったのですね」 「それ以来の三春です」 「では、何年ぶりですか?」 「52年ぶりです」 「52年……」 「ええ、長いような短いような」 「あなたに訪れた過越しの年はいつだったのですか?」 「忘れもしない昭和6年です」 「昭和6年」 「ええ、あなたは?」 「私はそれから13年後の昭和19年です」 「そうですか、やっぱり13年後にもまたあったのですか」 「はい」 私はその時、ハルとの約束を思い出した。 「私、あなたが三春を出られてどうなったのか関心があったのですよ」 「え?」 「だって三春を出てしまえば、もしかしたら幸せになれるのかなと思ったりしたものですから」 「ああ」 「ですからもしあなたが三春を出られて幸せになれたって知ったら、私もここを出ようかなと思ったこともあったんです」 「そうだったんですか」 「でも結局私は家を出る勇気がありませんでした。それで今もこうしてここに残ってしまっています」 「私は家を出ましたが、結果は同じでしたから」 「あ、そうでしたね。その方と結ばれなかったのは変わらなかったのですよね」 「ええ」 「お幸せでしたか?」 「……」  私はその質問にはやはり答えられなかった。いま楽しそうに遊んでいる孫の笑顔を見ると、まさか不幸だったとは言えないと思った。しかし、幸福だったと言うことも、この過去帳のハルの名前を前にしては、とても言うことが出来なかった。 「うちの孫と遊んでいるのは、あなたのお孫さんですよね?」 「はい。娘の子です」 「ではあなたもご結婚されたのでしょう?」 「ええ」 「でしたら、よっぽど不幸だなんて」 「全てが幸せな結婚とは限りませんから」 「あ」  私はつい余計なことを言ってしまったと思った。それでその本を閉じると、その台の上に置いた。 「ではそろそろ行きましょうか」  私はそう言うと徹の手を引きながらその社を後にした。 第13章  記念の写真 「今も滝桜は見事な咲きっぷりですか?」  私は塀の隙間から外へ出たところで、その人にそう聞いてみた。 「ええ。今も満開の時期にはたくさんの人が見物に訪れます」 「そうですか」 「寄って行かれますか?」 「そこへですか?」 「はい。滝桜に寄って行かれますか?」  私はそう言われて、再びハルの顔を思い出した。 「どうしようかな」 「これからのご予定は?」 「東京に帰るだけです」 「そうですか」 「はい」  私たちが塀のところで立ち止まっていると、徹はその人の連れている女の子と再び遊び出した。 「小さい子はいいですね」  私は二人の子どもたちを見てそう言った。 「本当に無邪気で」 「そうですね」  二人は本当に楽しそうに戯れていた。 「この子は順菜といいます」 「順菜ちゃんですか。いい名前ですね」 「坊やは?」 「息子の子で、徹といいます」 「じゃあ影山徹ちゃん?」 「ええ」 「順菜は影山順菜といいます」 「影山というと……」  私は確かその人が孫のことを娘の子と言っていたので、それなら名字が同じなのはどうしてかと思った。それで養子でももらったのかと思った。 「私は旧姓が影山です。それから結婚して堀内となりました。娘は結婚して堀内から影山の姓になったので」 「ああ、なるほど」 気がつくと、いつしか四人はうちの門の前まで来ていた。ではここでお別れですねと私が言おうとした時だった。 「帰られる前に滝桜を見て行きませんか?」  私はそれで、はいと言ってしまった。どうしても行きたいというわけではなかったが、そこまで言われたなら行ってみようかという気になったからだった。 「今年、また梅と桃と桜が一緒に咲いたんですよ」 「すると……」 「今年も過越しの年なんです」 「そうなんですね」 「ええ」 「じゃあ、今年は男女の恋は御法度ですか?」  その質問にはその人は答えなかった。私は嫌な話を敢えてする必要はないと思い、それ以上そのことを話すのをやめた。 「見えて来ました」  私たちが、ひたすら上り続けていた坂が緩やかになって来た頃、その人の言葉通り、あの桜の木のてっぺんが少しずつ見え出した。すると私はそのはやる気持ちをどうしても抑えられなくなって、無意識に小走りになっていた。 (あ)  するとそれは私の前に忽然と姿を表した。そしてその瞬間、私の意識はハルとそこで過ごした時に遡っていた。 「大きな木!」  徹の叫ぶような声が聞こえた。 「滝桜っていうのよ」  するとその人がそう徹に説明をしてくれていた。その間私の意識は、毎日ここでハルと待ち合わせをしていた頃に飛んでいた。 「梅桃に桜三春(さんしゅん)豪華かな」 「それは俳句ですか?」  その時突然私の口から、あの時ハルが詠んだ句が飛び出した。 「あ、はい」 「いい句ですね。影山さんが詠まれたのですか?」 「いいえ。ある人が昔この桜を前に詠んだものです」 「そうですか」  私たちはそれから滝桜に向かってゆっくりと歩き始めた。そしてその大きな木を目の前にしたところで暫くその木を眺めていた。やがて孫たちが飽きてしまって、追い掛けっこを始め出した。彼らはとても楽しそうだった。今日初めて逢ったのに、これほどまで仲良くなれるのかと思った。 やがて辺りが暗くなり始めた頃、その人は私たちを三春駅まで送ってくれると言い出した。孫たちはすっかり意気投合していたので、私はその言葉に甘えた。徹と順菜ちゃんは駅まで仲良く手をつないで向かった。私とその人はその二人の後ろ姿を見ながらゆっくりと歩いた。 「その方のお墓には行かなくていいのですか?」 「その方?」 「ハルさんと言いましたか?」 「あ、はい。次に来た時に」 「御両親のお墓へは?」 「それも次に来たときに寄ります」 私はそうは言ったものの、実は二度とここへ戻るつもりはなかった。ハルのお墓の場所もよく知らなかったし、それにハルや両親にはそう遠くないうちに会えると思ったからだった。私はこの三春に戻って来られただけでも十分だという気持ちだった。 「あ、ちょっと待ってください」  駅に到着すると、その人はそう言って売店に走り、インスタントカメラを買って戻って来た。 「徹ちゃんと順菜の思い出に一枚撮らせてください」 「写真ですか?」 「はい」  その人の突然の思い付きで、私たち四人は三春駅という看板が出ている前に並んで写真を撮ることになった。 「すみません。シャッターを押してもらえますか?」  その人はそう言って駅員にカメラを渡した。 「出来上がったら送りますね」 「ありがとうございます」 「それで、ご住所をお願い出来ますか?」 「あ、そうですね」  私は鞄から手帳を取り出して、その後ろの方の紙を一枚破り、そこにボールペンで東京の住所と私の名前を書いてその人に渡した。  「写真、必ず送りますね」 「はい。楽しみにしています」 「それでは」 「お世話になりました」 「徹ちゃん、さようなら」 「うん」 「順菜も徹ちゃんにさよならをして」 「ばいばい」 「ばいばい」  二人の孫たちは小さな手を大きく振り合った後、にこりとして別れた。その様子を見ていて、私とハルがこの駅で最後に別れた場面を思い出した。 「じゃあ行こうか」  私は誰とはなしにそう言うと徹の手を掴んだ。そしてその人に軽く頭を下げるとゆっくりと改札口に向かった。その間、その人と順菜ちゃんは改札の外でじっとこちらを見ていた。徹は私に手を引かれながら、何度も何度もその女の子の方を振り返っていた。
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