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日焼けの幽霊
友人たちと、熱海に遊びに行った帰りだった。みんなとは、すでに別れていた。疲れ果てていた僕は、無心で、日焼けの皮をぺりぺりとめくっていた。ヒリヒリとした痛みと、こんがりと焼けた色が、夏を感じさせていた。
駅に着くなり、自販機で水を買って、喉をたっぷりと潤した。帰って、シャワーを浴びて、すぐに寝る。頭の中で計画を立てながら、家への帰路を進んでいく。0時を過ぎている夏の夜のセミは、少し静かだった。
スローペースで歩き続けて、ようやく家に着いた。ヒヨコのアクリルキーホルダーのついた鍵を差し込んで、生ぬるい部屋に飛び込む。家に着いた達成感で、頭の中で立てておいた計画が崩れていくのが分かった。僕は荷物を置くと、何もせず、何も考えず、ベッドに倒れ込んだ。一瞬で眠気が押し寄せて、気がつけば、いびきの音が聞こえてきた。ぼんやりと、今日の海を思い出そうとしていた。それはもう、夢の始まりだった。
「夏の朝も、これまたいいものだよな」
知らない声が聞こえて、目が覚めた。飛び起きると、目の前には、太陽があった。反射的に火傷すると思った僕は、ベッドから転がり落ちた。背中に、うっとうしい鈍痛が響く。見上げると、太陽がこちらに近づいてきている。
「う、うわあああ!」
目を瞑って覚悟を決めると、顔のあたりに、ほんのりと温かい感覚があった。おそるおそる目を開いていく。目の前には、やっぱり太陽があった。偽物だと、思った。
「熱く…ない?」
「害はないから」
まじまじと、太陽を見つめる。声が聞こえてきたであろう場所には、口なんてない。ただ熱く燃えたぎる太陽があるだけだ。
そのまま下方向に目線をずらしていくと、胴体があった。マネキンのようで、乳首も毛も、生殖器さえもない。というか、まず男か女かも分からない。なんというか「太陽くん」みたいなヤツだ。喋る太陽くん。変なキャラ。
「何もかも分からないんだけど。これは夢?」
僕が聞くと、太陽くんは喋った。声はもちろん、どこから出ているか分からない。でも、どこかからは確実に出ている。
「夢じゃないよ。現実現実」
声的に、男のようだ。なかなかダンディな声で、少しだけ笑いそうになった。なんだか、混沌としてきた。
「じゃあ、あんたは一体?」
太陽くんは、真っ直ぐと姿勢を正した。
「日焼けの幽霊さ」
一瞬、聞いたことがあるような気がして、頭の中を探した。でも、そんな言葉はなかった。
「それは、なに?」
「日焼けをした人間の前に現れる、ただの幽霊。もちろんその人間にしか見えないよ」
「僕、幽霊とか見えないタイプなんだけど」
「関係ないよ。これは特例だから」
「ダメだ。僕、二度寝するね」
頭の中の容量がパンパンになってしまったので、一度寝ることにした。この不可解な現象を受け入れるには、時間が必要すぎる。早く眠れと言い聞かせて、力強く目を瞑った。背中側に、ほんのりと温かみがあって、その奇妙さでなかなか寝付けなかった。
「日焼けの幽霊さん。僕は何をしたらいい?」
よく眠り、頭を整理した僕は、日焼けの幽霊に話しかけた。太陽の顔がこちらを振り向く。目も鼻も口もない顔。のっぺらぼうが、燃え上がっているようだ。新しい妖怪リストに入れたらいいと思った。
「特にないよ。ただ現れただけだから」
「そういう存在っていうだけか」
起き上がり、余っていた水を飲み干す。
「名前は?」
「そういうのもないんだよね。つけてよ」
燃え上がっている顔が、右に左に揺れる。
「一番初めに思いついたのは、太陽くん」
僕がそう言うと、顔まわりの火が、ゆらりと勢いを増して見えた。
「それいいじゃん。シンプルでしっくりきた」
気に入ってもらえるのは、人間相手でも、幽霊相手でも、平等に嬉しい。
「君は、東輝。佐藤東輝」
「え。知ってるの?」
「さすがにね。夏いっぱいは憑かせてもらうんだから、それくらいのマナーは持ってるさ」
「日焼け幽霊界のマナーなんか知らないけど」
太陽くんの不思議さを、徐々に脳に馴染ませていく。気になることは、まだまだある。
「日焼けする人に、毎回取り憑くの?」
「いいや。一年に一回だよ。ちなみに、どんな相手になるかはランダムなんだ」
「ちなみに、前回はどんな人だった?」
「黒ギャルだよ。日焼けの幽霊界では、黒ギャルのことを、激アツと呼んでる。つまり、最高の夏の思い出だった」
太陽くんの炎が、メラっと、揺れた。
「僕は?ハズレ?」
「ハズレもハズレだよ。大学生の男って。一番くだらないよ。勝手に日焼けしててくれ」
「辛辣すぎるって」
僕は次に、太陽くんの、何の変哲もない、ただの肌色の体が気になった。
「その体は、機能してるの?」
僕が指をさすと、太陽くんもそれを追った。猫みたいだった。野良の。
「これは、レベルアップ制なんだよ」
「というのは?」
「東輝が日焼けすればするほど、体がレベルアップしていく。今は初期状態さ」
改めて、その胴体を見つめてみる。たしかに、何のパーツもなくて、膨らみもない。アバターの初期状態と言われたら、それにしか見えない。
「まだ夏は始まったばかり。期待してるよ」
太陽くんは、メラっと炎を揺らした。毎回、火が燃え移るんじゃないかと不安になる。
その日から、僕の夏休みには、この太陽くんがついて回ることになった。僕の視界には、太陽が二つ存在することになった。世界を照らす太陽と、喋る太陽。いつまでも不思議で、慣れそうにはなかった。
***
いつものように、友人とラーメンを食べていた。もちろん僕の隣には、太陽くんがいる。慎重に友人たちの顔を伺う。何も気づいていないようだ。ホッとしつつ、麺をすする。
「うまそー。幽霊は飯を食えないんだよ。こんな苦行はないよな。少し太ってる東輝には分かるだろ」
返事なんてできるわけがないのに、太陽くんは喋り続けている。ノイズすぎる。
「東輝?聞いてるか?」
「ああ、ごめん。なに?」
太陽くんのせいで、友人の話を聞き逃してしまった。ちゃんとした悪影響。会話が落ち着き、友人たちがラーメンに集中した隙に、太陽くんの方を見る。人差し指を口に当てて「しーっ」と掠れ声でささやいた。目がないから、どこを見ているのかわからない。
「喋ってないと、暇なんだよ。店内に流れるラジオだと思って聞き流しといてくれよ」
無言で、首を横に振る。小さめの振り幅で、チョビチョビ動かす。
「もっと有益な情報とか喋ればいいか?政治とか、環境問題とか。えー、国会では、なんとか大臣が、なんとかかんとか政策の実施を発表しました。的な?」
「声がデカいんだよ!」
ラーメン屋に、僕の素っ頓狂な声が響いた。店主が、友人が、僕を見る。太陽くんも僕を見ていた。見て、笑っていた。
「ぶっ…ぐぐ…はははっ」
顔が熱々になる。見事に振り回されて、大恥をかいてしまった。
「ちょっと、最近お笑い見てて」
無理やり言い訳を絞り出した。お笑いなんか、ひとつも見てない。
「ツッコミの練習ってこと?」
「やるなお前」
友人たちは、楽しそうに笑っている。なんとか誤魔化せたので、とりあえずセーフ。
「これは、憑き始めにはよく起こる現象だな。慣れてないやつは、間違えて喋っちゃう。これを機に学ぶんだな、新人の東輝くん」
ストレスを全て、厚切りのチャーシューのかぶりつきに持っていった。原始人みたいに頬張る。もちろんイメージ。肉汁は、あんまり出ない。スープを飲んで、白米を食う。とりあえず、腹を満たそう。
***
飲み会の席でも、室内のくせに、太陽が視界でチラついていた。意識を逸らそうと、おしぼりで顔面を拭きつけた。
「東輝くん、焼けた?」
「こないだ熱海行ってさ、ガッツリね」
同じサークルの、桃ちゃん。一個下で、セミロングがよく似合っている。気さくで話しやすいし、笑顔が可愛い。つまり、好き。
「東輝の鼻の下が、ビヨーン」
「へっ?」
焦って、鼻の下を手で覆う。そうしてから、これが太陽くんの声だったと気づいた。ゆっくりと手を戻していく。
「どうしたの?東輝くん」
「ちょっと、鼻の下に気配を感じてね」
脳のどっかから、言い訳をひねり出した、かと思った。でもよく考えたら、これは、言い訳にもなっていない。
「変なの!」
桃ちゃんは、声を出して笑っていた。
「良かったな。笑ってら」
ももちゃんの笑顔に免じて、今回は、許してやることにした。相変わらず、炎はメラメラと揺れ動いている。
***
昼から時間ができたので、ベランダに出て、体で太陽の光を浴びていた。これは、本物の太陽の方。
「おおっ。日焼けか?」
「まあね。体がどうなるのか気になるし」
「君、いいよ。とてもいい」
嬉しそうに、炎が揺れた。
一時間くらい、音楽を聴きながら、日焼けをしていた。肌は熱くなっているけど、目に見えて分かる変化はなさそうだ。あんまり期待せずに、太陽くんの体を見る。
「キ、キモッ!」
太陽くんの右足に、すね毛が生えていた。左足にはない。右足だけにある。気持ちの悪い景色だった。
「お前が、中途半端に焼いたせいだからな」
少しだけ、反省した。でも、もっとキモい状態にしてやりたくもなった。右腕だけムキムキで、左腕は初期のまま、右足はすね毛だらけで、左足は思春期の毛の量。
***
「大学生は暇なんだな」
いつの間にか日課になっていた、ベランダ日焼けをしながら、太陽くんと話していた。
「暇だよ。目的のない学生は特にね」
「そういうものか」
太陽くんは、どこか寂しそうな声をしていた。太陽を浴びながら、僕は聞いてみた。
「昔の記憶って、あるの?」
炎が、ぐりんと動く。相変わらずどこを見ているか分からないけど、こっちを振り向いたようだった。目が合っている気がした。
「あるわけない。幽霊になっていたところから、記憶はスタートさ」
「そりゃそうだよね」
太陽くんの声は寂しそうなままで、なんだか、気まずい空気が流れた。聞かなければよかった。僕は、日焼けに集中しているフリをした。太陽くんは、話しかけてこなかった。幽霊だから、僕が話しかけなければ、あっちが話しかけてこなければ、ないものになる。幽霊なんて元からそんな存在で、今こうやって見えている奇跡も、いつの間にか、あっけなく消えてしまうんだろうなと思った。
怖くなった僕は、サングラスを外して、隣にいるはずの太陽くんの姿を確認した。必死に、自分の脇の毛を抜いていた。
「脇毛生えてきた?」
「生えてきやがったよ。脇毛いらねえって」
太陽のような大きな存在が、小さな脇毛という存在に振り回されているようで、面白かった。もし地球に太陽が急接近してくる緊急事態が起きたら、解決するのは、脇毛なのかもしれない。くだらないことを考えながら、僕はまた、日焼けに戻った。
***
「鏡見ながらポージングするのやめてよ。気が散るから」
僕の粘り強い日焼けによって、太陽くんの体は仕上がっていた。発達した上腕二頭筋に、きちんと割れた腹筋。浮き立っている胸筋。僕よりもいい体になって、少し複雑だった。
「自分が太ってるからってさ。嫉妬?」
「うるさい!」
減らない食欲に負けながら、僕は大盛りのオムライスを頬張っていた。
スマホに通知が来る。大学の友人。明日の一限の出席取っといてくれ、とのことだ。長かった夏休みも、もうすぐ終わって、また授業が始まる。少し憂鬱になりながら、最後の休日を僕は満喫しようとしていた。
「夏休み終わるけどさ、太陽くんって、いつまでいるの?」
太陽くんは、ポージングをやめて、その場に座り込んだ。それで、指を一本立てた。
「東輝にひとつだけ質問」
オムライスの手を止めて、言葉を待った。
「夏の終わりって、いつだと思う?」
難しい質問だった。よく考えたら、明確に決まっていない。春夏秋冬という四季ははっきりとあるけど、その始まりと終わりは、誰にも明言されていない。政府かなんかが、決めたらいいのに、と思った。
「日焼けが落ち着いてきたら、とか?」
「それもひとつだな」
「あと、半袖を着なくなったら」
「ふんふん」
「スーパーでスイカを見ても、何も思わなくなっていたら」
「なるほどね」
「他にも、いっぱいある」
太陽くんは、きっと遠くを見ていた。目は相変わらず分からないけど、やけに発達したその背中で、なんとなく分かった。
「東輝が、夏が終わったと感じたその瞬間に、おれはいなくなる。だからいつになるかは、東輝自身にしか分からない」
「なんだよ、それ」
太陽くんはきっと、毎年、こんな思いをしてるんだ。だからあんな背中をしている。いつ来るか分からないその別れの時に備えて、いつでも心の準備をし続けている。
「まだ、思わないよ。まあ多分だけど」
「さようなら」
「え?」
「いや、早めに言っておこうかなって」
太陽くんは、意地悪そうに炎を揺らした。
「お前!」
少しだけ、僕は泣きそうになっていた。何度言ってきたか分からないその「さようなら」は、変な説得力があった。
***
大学が始まって、3日が経とうとしていた。夜食のカップラーメンを食べながら、太陽くんと一緒に、流行りの恋愛ドラマを見ていた。
「ありきたりなストーリーだなあ。この主演のアイドルの子がチヤホヤされてるだけでしょ?」
太陽くんは、基本的に辛口だった。
「いいじゃん。可愛いし」
「可愛いだけだもん」
食べ終えたカップラーメンの汁を流しに捨てて、ベッドに飛び込んだ。
「明日は一限があるから、もう寝るよ」
半ズボンと半袖を着て、電気を消す。消したとて、太陽くんがいるので、馬鹿みたいに明るい。寝ることに集中したい時は、いつもどこかに隠れてもらう。今日は、疲れて眠れそうなので、太陽くんには、何も言わない。
「太陽くん、まだ消えないでよ」
「あんた次第っすよ」
「なんだよその口調」
いつもこうやって、むにゃむにゃと話しながら、気がつけば、寝ている。まだ外は暑くて、太陽くんが消える気配なんてなかった。安心して、僕は眠った。
途中で、目が覚めた。びっちりとくっついた瞼をゆっくりと開いていく。外は明るかった。スマホを見ると、朝の六時。早く起きすぎてしまった。テーブルでは、太陽くんが座っていた。ホッとして、僕はもう一度、目を瞑った。網戸にしていた窓から、冷ややかな風が吹いてきた。僕は毛布にくるまって、二度寝をした。
その瞬間、部屋が少し暗くなったような気がした。僕はそのまま眠気に押しつぶされて、二度寝を始めた。意識は、すぐに遠のいていった。
目を覚ますと、太陽くんはいなかった。
「え?嘘だ」
寝ぼけ眼を擦りながら、部屋中を探す。でも、あの危なっかしい炎はどこにもなくて、どこもかしこも、本物の太陽だけで照らされていた。
「いつだろう」
思い当たる節は、なかった。
ないくらいに、自然と感じていたのかもしれない。
いつも夏は、突然に終わる。明確な終わりなんてなくて、気づけば長袖を着ているし、気づけば気温は二十度を切っている。
気づいた時には、夏は終わっていた。
呆気なくて、でも、それが心地いい。風のように去っていく夏は、また来年になれば、満面の笑みで暑さを連れてやってくる。日焼けが落ち着いて、また肌が白くなった頃に、黒くしにやってくる。あの日焼けの幽霊みたいに、すっと側にやってきて、余計な口を叩く。
この夏のことを、僕はきっと、忘れない。忘れても、日焼けをするたびに思い出す。すね毛が生えた右足と、メラメラと揺れる炎を、思い出す。思い出して、また日焼けをしてみると思う。また、太陽くんに会えるかもしれないから。もちろん今は恋しくて、すぐにでも会いたい。
でも、会えなくてもいい。夏になれば、また誰かに憑いて、また迷惑をかけているんだろうなと、思い描くことができる。これは、憑かれたことのある人間の特権。
だって僕は、見える側の人間だから。
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