酔いさえなければ

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 夕闇に負けそうになる自分をなんとか鼓舞して、今日もこの場に辿り着いた。  この扉の立て付けの悪さは変わらないなと、いつ来ても思う。直せばいいのに、とも。この部屋に入ることを、何十、何百と繰り返しているのに、どうしてか緊張してしまうのは、きっといつかの終わりを感じ始めているからだろう。  もうすでにオートロックが解錠された門扉を過ぎ、当人の部屋の前にいる。  鍵が開けられているはずのこの部屋の前、深呼吸して、自分の中に溜まる熱と屋外のじっとりとした暑さを入れ替える。換気など何の意味もないとわかっているものの、少しだけ体温を慣らした俺は、扉をぐっと開いた。  体を通せるほど扉を開く。さらに半歩分、体を奥の方に持って行くと、わずかにひんやりとした空気が漂う。  自分の周りに蔓延る熱気を取り除いてくれているような気がした。  ワンルームまでの通り道、廊下の明かりは漏れてくる部屋の明かりのみ。後ろ手に鍵を締めて、靴を脱ぎ、そのまま先へ進む。  いつもと変わらない、彼の部屋だ。 「お、来たなー、ダイチ!」 「うるせー、タカシ。つーか……テンション高いの怖いんだけど。まだ飲んでないよな」  彼は、弱い癖に好んで酒を飲む。ゆえに、さっさと飲んでしまうと後が面倒になることはわかりきっている。  俺が来る日は多少辛抱してくれているらしいが、それも五分の確立。結局ぐでぐでになった男のだらけた愚痴を聞くだけの時間が過ぎていくのだ。 「うん、今日はまだ、ひとくちも」 「なら良いけど」  ヘニャヘニャになった顔を向けてきた彼は、三十度を超える熱気に負けたのか、アルコールを摂取する前から赤い顔を隠さずに、オレを出迎えてきた。  フランクに抱きしめられるのも、もはや日常茶飯事だ。  だというのに。 「……」  慣れたはずの男に、少し、欲情した。  けれど、それらの感情が身体に出る前に、一瞬で打ち消した。きっと彼と出会ってもう何年も経ってしまったから成せる技だろう。勢いで何らかの行為に至るまでには、正直、馴れ合い過ぎてしまった。 「というわけで、ちょっと聞いてよ、ヤマダー」  タカシはぱっと俺から離れると、冷蔵庫に向かう。冷えたアルコール缶を出してきたタカシは、若干目を潤ませながらこっちを見ていた。  指同士が触れないよう注意して、彼の手から缶を奪い、机の上に置く。 「めんどくさいことを言うときだけ俺の名前を略すな」 「いいじゃん谷山大地クン。略してヤマダ」 「今フルネームいらねえ」 「そんなわけでヤマダくん」 「聞けよ」  彼は一応、大卒で、俺は高卒。家の事情とか、本人の意向とか、そういう諸々があったというのに、彼とはなんだかんだの腐れ縁が続いている。  いや、俺のほうが続けようとしているのかもしれない。  これまで幾度となく職場の中途採用で十以上年齢が上の人を教えることになったり、新採でも年上だったりとかで壁を感じてきたが、この男に限って言えば、そういう変な距離感はなかった。そういうフラットな感覚がよかった。良いことも悪いことも言い合ったおかげで、喧嘩らしい喧嘩もできなかった。  おかげで、大学生のどれだけが本気で勉学に励んでいたのだろうか、と違った見方をするようになったのだが、それは別の話。  高校の同級生だった笹山貴志くんことタカシを見ていると、自堕落な日々を過ごしていること自体、彼らのスタンダードであったのではないか、とさえ思ってしまう。  昔は名前通りの貴志くん、というようなイメージがあったが、ハタチを超えたあたりから、どうやら風向きが変わってきたらしい。  高校の頃、地毛の加工はカットだけで大人しく、規則も守り、礼儀正しい。そんな三拍子揃った彼は、大学の空気で少しばかり擦れてしまった。  一世一代の告白が失敗したのか、告白されて付き合った子が散々だったのか。想定されうる武勇伝は、今のところ聞いていない。きっと陰日向で好きな子達をおっかけていただけなのだろう。おかげで彼は美容室に通い、パーマを当てたり、カラーを入れたり、まあまあの努力をしている。  単純に、すごいなと、思っていた。  見知らぬ誰かのために努力できるタカシのことを、かっこいいとさえ思っていた。  だが、結果はこうして、プリン気味になった頭頂部も隠さないような絶賛残念なひょろ男がここにいるだけなのだが。  俺は目の前に出されて数分、汗をかき始めた第三のビール缶に手を伸ばした。ゆっくりとプルトップを引くと、まだそこそこ冷えていたようで、プシュ、と小気味よい音が響く。引き直し、あふれ出る泡とともに、彼の言葉を炭酸ガスに溶かして聞こえなかったことにした。  ――昔はあんなにかっこよかったのに。  俺は高校卒業してから、そのまま働いていたから、ちょうど四年のラグがある。  だからその間に彼の身の回りに何があったか、正直知らない。知らなくてもこうしてつかの間の楽しい時間は過ごせるのだ。何ら問題はない。  そう、彼には問題はないのだ。  そこそこ仲良く過ごしていた高校生の頃に比べて、毎日毎晩、彼が翌日の予定も気にせず威勢よくアルコールを煽るようになったことからちょっとずれているということはわかった。それが例え数パーセントの微々たるものであってもだ。  だから、せいぜい月に一回程度の会合までゆっくりと距離をとることに成功した。けれどそれ以上間を開けることには、敏感になっていた。  何かしらの行為を期待していたわけではない。けれど、いつかどこかを夢想するくらいなら、と思っていた時期もある。  そんな思いを振り切るために、いつか俺の前から自然に消えてしまうように、こういう遊びに関して、俺からの連絡はしなくなった。  自分の家にも入れないようにした。なにかあればここに来て、飲食料品を与えられて、愚痴を聞く。  それだけの、関係。  それでよしとした。  それ以上がないようにした。  どこかで関わりのない男と演出した。  だから、そういう時間の使い方をすること自体、間違っていたわけではない。  きっと、そうだと思いたい。 「こないだオカンと話してたらさ、近所のユミちゃんが、結婚したって。まさかの吉田ちゃんになってしまったって」 「おう」 「次の日急にグループトークに連絡きたと思ったら、ヤマトが彼女と同棲し始めたって。あ。ヤマトって大学のとき、ゼミで一緒だった奴な」 「……そこまで続くならおまえにもイイコトあったんじゃねーの」 「ねーよ!」 「いいオチじゃねえか」  タカシがぐい、と煽るのは、俺の飲んでいるものからさらに度数の低いアルコール。俺にとってはジュースのような雰囲気まかせのそれも、彼にとっては毒のように顔を赤くさせる。  非常に、よろしくない状況だ。 「よくない。また飲み友達が減った」 「……へえ」  自分の頭に残していた言葉それ自体が降ってきて、思わず苦笑した。  この部屋にはラグもない。自分の体温で温まった床が、なんだか気持ち悪く思えてきた。 「ていうかみんななに、どこで出会ってんの」 「聞く限りその二人は学生の頃からってやつじゃないのか」 「そんなの知ってるけど」 「おまえは実際に、何かしたのか」 「……シテマセン」 「だろうな」  苦みのある炭酸が、俺の喉を潤す。  つまみは最低限。米と焼いただけの野菜と肉、それで十分だろと笑う男に今更期待などしていない。だから細いんだよ、とは言わなかった。言う必要もないと、思っていた。生きるために苦労しない程度に、スーパーでたたき売られているそれらで腹を満たすことができれば、それで十分なのはお互い様だ。 「つーか」  タカシは座った目を、こちらに向けてきた。 「おう」 「……酔わないと言えない本音ってなんだよ」 「じゃあシラフでおまえのこと好きって、どんな場面で言ったらいいんだよ」  今度はこちらが、ごくり、と水分を飲み込んだ。  押し込んだのは、きっと吐きそうな思いそのもの。  自分に向けられるべきではない感情が、彼の座った目から注ぎ込まれている。 「それは」 「ふつうに好きだし、一緒にいてラクだし、ついでに酒の味もわかるやつって、女の子でおまえ以上のやつ探す方が難易度高いじゃん」 「……」 「ここにヤマダもいるのに」  なあ、と向かい合う机の距離、わずか一メートル圏内。  にしし、と笑う男が、かわいく見えたなんて、絶対うそだ。  嘘だと思っておかないと、これは、もう。 「ひでえやつ」  ぽろ、と零した俺に対しても。  見知らぬ希望の星に対しても。  なんにも味がしなくなったアルコールを、再度胃に落として、笑う。ざわざわと胃を刺激する炭酸が、俺を笑っている。 「そうだよ、俺、ひっでえやつなんだ」  ケタケタと、まるでドッキリ成功、のノリで笑う奴。  そういうやつだ、この男は。 「こうやって、付き合ってるやつはいるのにな」  真面目に、純粋に。  おまえを心配して、笑って、時間を使うやつが、ここに、いるのに。  じりじり、ざらざら。  唯一残ったこの部屋の蛍光管が、存在を示すように鳴き出した。 「なにそれ、本気にするじゃん」  精いっぱいのつよがり。そうだ、ただの強がりだ。そんなもの、本気にしろよなんて言えるだろうか。  今はもう、言う必要もないだろう。 「好きにしろ、って」 「好き、うん……そうかもしれない……な」  突っ伏してしまった彼は、何かを考えているのだろうか。それとも、考えることを放棄してしまったのだろうか。  構わない。  どっちだって、俺にとってのメリットはない。  彼の部屋の合鍵もない。決まった場所にあるそれを確認して、俺はゆっくりと立ち上がる。  冷蔵庫の脇に置かれているラップで飲食物を覆うと、静かに空き缶を片付ける。  流し台にそれらを置く。かしゃ、と金属同士が触れあう音を何度かさせているが、彼の反応はない。さすがに水道を使えば気付いてしまうだろう。  意識的に近付くことはしない。  そのうちに彼は眠ってしまったようで、すうすうと寝息を立て始める。  全くもって、自分はどうしてここにいるのだろう。  そう思うことも、ずいぶんと前のことのように思えてきた。  もちろん、ここは彼の部屋だ。  だから、どれだけ寝こけていても当人にとって構わないのだろう。  俺はこの光景にも、ずいぶん慣れてしまっている。  三パーセントで踊る彼を、俺はまじまじと見つめていた。にやけることもあざ笑うこともなく、淡々と受け入れて、いつも通りの俺であることを証明した。  だから、もういいだろう。  そうして一気に洗い流すのは、俺が俺である証だ。  おさわり厳禁。  俺が決めた唯一のルール。俺が触れることができる彼と繋がるものは、この部屋の鍵ひとつだけ。  確かに脈打つ身体ではない。  ゆっくりと立ち上がり、戸口に近付けばまだむわりとした湿気が体にへばりついてくる。扉を開ければ、きっとエアコンが音を立てて唸り出すだろう。  小さないたずら。そんなことをしたところで、なにも変わらないというのに、俺は少しだけ長めに扉を開けた。  これくらいで彼の体調が悪化するはずもないのに、どこかの俺は、俺のせいで彼にちょっとした何かが起こってさえくれれば、と思ってしまっている。不健康な関係。それすらも何度目かの夏の過ちだ。  俺は改めて、手の中に収めた、ごくシンプルなシルバーの鍵を見た。冗談混じりに、おまえの誕生日と一緒だな、と笑った四桁の通し番号が、今日も鈍く俺の瞳を刺してくる。  それだけのものが、俺にとっては重くのしかかる。  カタンと遠くで鳴った鍵音を聞いて、俺はどこか安心していた。  ポストに投函するのは、鍵本体だけではなくて。 「まだ、寒くならないな……」  寒くなれば人恋しくなる。  そうすれば彼も、また誰かの隣に行ってしまうだろう。  それがいいと思っているのに、ちくりと痛んだその心を、俺はまだ手放せそうにはない。
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