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「海が綺麗なとこ、連れてってやるよ」
うだるような夏の終わりに、指で車のキーを回しながら彼は言った。
「生きるの、疲れたから?」
そういうことだけ口をついて出る。
悪い癖だ。でも、彼は嫌な顔をせずに、けれど困ったように笑って、そうかもね、と呟いた。
22歳、人生最後の夏休み。哀愁だけが私たちを取り巻く。
私たちは恋人同士ではない。だからといって、友達でもないような気がする。ただお互いの心の穴を埋めるだけ。毎日一人は寂しいから。毎日何か不安に襲われるから。私たちはあの子への贖罪だけで繋がれていて、それ以上でもそれ以下でもない。
「ドライブは彼女としか行かないって言ってたでしょ?」
少しぼんやりとしながら、聞いてみる。かなり意地悪な発言。あんまり行く気はない。海に興味無い。ドライブだって、特別行きたいわけじゃない。やんわりと断っているつもりだったのに、
「今日だけ、特別」
と彼はなんてことないように言う。
「彼女とかもういないし。作る気もなくした。あんただけで良いよ」
私と付き合う気、ないくせに。というか、もう彼女なんて作らないでしょ。私はため息をついた。
「とりあえず遅くなっちゃうからさ、立って」
無理矢理私の腰に手を回し、立たせる彼。
「細!やっぱり最近全然食べてないよね?」
もうあの日からお腹が空かないから。
「毎日栄養剤。あとしらたき」
一瞬彼は心配そうな顔をしたが、すぐにヘラりと笑った。
「塩水飲ませたる」
彼の車は白いバン。小さいやつ。父親のお下がり。助手席に座るのは少し申し訳ないような気がして、ちょっと躊躇う。
「どこに座るの?2人なんだから隣で良いでしょ」
彼は運転席に乗り込みながら言った。私は仕方なくおもむろにハンカチを助手席のシートの上に載せた。彼はそれを見ても何も言わなかった。
「じゃあ行くよ」
と彼はエンジンをかけた。
彼が流した音楽は、ドライブに似合わず、ゆったりとしたテンポのせつない洋楽バラードだった。私は聞こえないふり。
「少し窓開けるね。気持ち良いよ」
生ぬるい風が私たちを攫った。髪がなびく。遠くの方にビル群が見える。何か泣きそうになって、きらきらと光っているビル群を眺めてみる。彼は一言も発さなかった。そう。彼が私を海に誘ったのは偶然じゃない。その意味が分かるから、私も例外じゃないから、お互いに黙り込んだまま。
そしてバラードが終わりに近づいた時だった。だしぬけに彼が言った。
「この曲、ユイが好きだったんだよ」
すぐには反応出来なかった。あぁ、言われてしまった。その名前。私は感情を出さないように、静かに「知ってるよ」と答える。よく知ってる。よく彼女が歌っていた。
この曲は、I want to disappear.『消えたい』
自殺未遂の曲だ。彼女がこの曲が好きだったのは、それが理由。この人はそこまで知っていたのだろうか?でも、それは聞けなかった。ただただ怖かった。
街中を超えて、やっと海に着いた。人は誰もいない。彼の細いシルエットがゴミだらけの砂浜に映って揺れる。
「綺麗じゃないね 」
「そんなもんだよ」
「綺麗な所って言ったじゃん。でも空は綺麗だね」
オレンジ色の暖かい光が空を包んでいる。綺麗な夕焼け。
「ユイが死んだ日もこんな日だった」
彼の唐突な呟きは聞こえなかったふりをした。でも、聞かないことは許されないのかもしれない。
私と彼は漫然と海と空を眺めた。
「もう1年経ったのか」
私はまた聞こえなかったふりをした。
「ユイが死んだ海もここだったのかな」
私は聞くに耐えなくなった。
「もう嫌だよ......」
彼は私に構わず続けた。
「俺さ、清算しようと思うんだ」
私は目を瞑った。
「君が言う通り、そうだよ。もう生きるの疲れたんだよ。だからユイと君との関係をもう終わりにしようと思うんだ」
私は自分の感情が分からなくなり、押し黙った。終わりってなんなんだろう?終わりの先に何が見えるの?
「君も分かってるでしょ」
私は必死に顔をふった。 だが、彼は私と違って、躊躇わなかった。彼の瞳には迷いがなかった。静かに口を開く。
「ユイを殺したのは、俺たちなんだよ」
私の頬はいつの間にか濡れていて、禁忌に触れたことへの不安だけが胸をつく。
ユイは、死に憧れていた。尚且つ、悲劇のヒロインが好きだった。その事実だけでも、彼女のことを大切にしなければいけなかった。
「ユイのこと、好きだったなあ」
彼は遠くを見つめて言った。もう空はオレンジ色だけじゃなくて、うっすらと闇が這っている。
「私も大好きだった」
あの日、去年の夏の終わり、ユイは私と彼に、海に行く、そこで死ぬの、と最期のメッセージを残して消えた。その日から、私と彼は一緒にいる。毎日が不安になって。苦しくなって。ひたすら申し訳なさで辛くなって。お互いの監視がユイへの贖罪だと思い込んでいたのかもしれない。ユイと付き合っていた彼と、ユイへの特別な感情を持っていた私。ユイが選んだのは彼だったけど、私は精一杯「友達」としてやってこれていたつもりだった。
でも、ユイを追い詰めていたのは結局、私たち二人だった。
「終わりにするんだ。もう今日から君とは会わないよ。だから、君も早く忘れて」
彼もいなくなったら、私は?どうすれば良い?
「もう見てられないんだ。君の目が虚ろで、どんどんやせ細っていくのが」
ユイは大人しくて、昔から友達が少なかったらしい。大学で出来た友達が、彼と私だけ。しかも、たまたま近くに住んでいた、ただそれだけの理由。最初は3人で仲良くしていて、それで良かった。それで楽しかった。
だから彼と私がユイの取り合いを始めた時、ユイが戸惑っていたのは、当たり前のことだ。ユイの唯一無二の魅力に魅了された彼は、ユイを束縛して、離そうとはしなかった。そんな彼にユイを渡すまいと私もユイへの束縛を繰り返した。
どんどん関係が崩れる私たち3人。崩れていくユイの表情。今でも生々しくはっきり記憶に残っている。ユイから最後に聞いた言葉は、もう疲れた、だった。
「俺たちがずっと一緒にいて何になる?罪滅ぼしのつもり?今、俺たちが仲良くしたら、ユイが笑ってくれるって思って?」
私は座り込んだ。服が汚れても、気にする余地はなかった。もう解放されるのかもしれない。そんな期待と安堵感、そして抜け出せない悲しみ。
でも、私の口から出た言葉は、了承の言葉ではなかった。
私は静かに顔を上げて言った。
「私と付き合ってよ」
彼は、驚いて目を丸くする。
「私と付き合って」
2回目の懇願を、彼は無視することが出来なかったらしい。
「ど...どうして?」
彼の絞り出した声は少し震えていた。
「もう、一生2人だけで良いから。本当は2人だけで良かったから」
と私は答えた。
ユイのことは大好きだった。はず。じゃあ、私は当時、彼のことをどう思っていたんだっけ?好き、という感情が分からない。本当にユイのことが好きだったのか、それとも、特別な感情を抱いていたのは、ユイではなく彼へだったのか。束縛はユイが好きでしていたのか、それとも、ユイの邪魔をしようとしていたのか。本当に私が好きだったのは誰なのか。
死ぬべきだったのは私だったのではないか。
私は吐きそうになった。海に向かって走り出す。彼の声が聞こえる。海の向こうにユイが待っているような気がした。私は波をかき分けて進んだ。幸せになるのは、私じゃない。彼とユイのはずだった。
贖罪。海の底から引っ張られるような気がした。禁忌に触れたのは私で、彼ではない。
好きという感情をはき違えた罪は重い。好きって、なんでここまで難しいのだろう。
身体に水が入って、呼吸が出来なくなった。我に返って、もがくが、海底に引っ張られる。服が重しになり、余計に沈む。気力がなくなった。目の前が一瞬白くなり、そして暗転した。
私は、その日から彼とは一切会っていない。あの日、気がついたら病院にいた。彼へのお礼の連絡は出来なかった。連絡先が消されたのだ。
彼の家にはもう行くことが出来なかった。そんな勇気は持っていなかった。
私は二回失恋をした。そして、2人とも二度と会えなくなった。でも、それで良いのかもしれない。なんとなく、本当になんとなく、踏ん切りがついたかもしれない。ただ3人で楽しくやってた時のことだけ思い出せば。どうしようもなく馬鹿だったなんて、もう今更遅い。恋も愛も分からないから、もっと大人になりたい。大人になって、いつかちゃんと向き合いたい。そしたら、彼とも本当の意味の友達として会ってくれるかもしれない。それまでは。それまでは、ちょっとだけさようなら、今、やっと、ちゃんと言える。
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