【試し読み】ソルティキャラメルエンパシー

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1.  アラームを止めてから十分寝過ごして飛び起きる、いつもと同じ始まりの朝だった。コップ一杯の水と薬と朝食代わりの煙草を一本飲んで、いつものように身支度を調えて、いつものように部屋を出た。  五分後のアラームで起きられずにもう五分眠ったこと、ここ二週間ほど市販薬でごまかしていること、寝ぼけて左右違う靴下を履いたこと、気まぐれでピアスのあとにイヤカフを付けたこと、エトセトラ、エトセトラ……どこで違えてしまったのか、それともそんなものはなかったのか、未来で考えたって仕方がない。この地球では、ブラジルの蝶が羽ばたくだけで、テキサスにハリケーンが巻き起こるのだ。  ただ、だから、地球のどこかで蝶が羽ばたかなければ。自分と彼はこの先もきっと、ほんの少し下世話なエンパシーを抱きあうことはあっても、昨日までと同じ他人どうしのままだったのだと思う。  最初の生命は宇宙からやってきた、という仮説がある。他の星で生まれ、宇宙を流れ、地球に漂着した生命だ。それはヒトでも動物でも魚でも植物でもなく、雄も雌もない、たったひとつの細胞だったという。共通祖先LUCA(Last Universal Common Ancestor)になぞらえて子供に榴果(るか)と名付けたのは、週末に天体望遠鏡で宇宙を見るのが密やかな楽しみの、小さな街でクリーニング店を営む男だった。  父のようなロマンチストになれなかった自分は、何十億光年も離れた星から何十億年も前に地球に流れ着いた祖先を思う時、進化を恨む。あの頃は――なんて、まるで知っているみたいだけど、あの頃は、ヒトも動物も魚も植物もなく、雄も雌もなく、――Dom(ドム)Sub(サブ)もなかったはずなのに。  多様性という言葉が溢れかえる世の中にいて、自分たちは多様であることを求められている。服装、メイク、性別、恋愛、ライフスタイル、思想や偏見でさえ。そんな世の中にあって人間を属性に縛り付けるのが、第二性(ダイナミクス)だ。星座占いや血液型占いのように、せいぜい今日の運勢を左右するものではない。地球には確かにDomとSub、どちらも持たないNormal(ノーマル)の三種類の人間が存在する。そして、自分たちは決して、服装やメイクを気軽に変えるようには、自らの意思で第二性を選択できないのだ。  Domは支配の性、Subは服従の性と言われる。DNAに刻まれた第二性は、性格や嗜好に関係なく、それを持つ者の心身を本能的な欲求で左右する。同時に世間はしばしば、リーダーシップがあったり暴力的であったりする人間を「Domらしい」と、大人しい苛められっ子を「Subらしい」とする。いくら保健体育の授業で第二性は病気ではありませんと習ったところで、駅の構内に啓発ポスターが貼られたところで、そうやって忌避されたり揶揄されたりする。なんていうのは、いかにもSubらしいネガティブ思考なのだろうか。  高校時代、生物の成績は控えめに言って良くなかった。ダーウィンの自然選択理論、メンデルの法則、それから、なんだっけ、中立説だっけ? まあ、どれも大して理解できなかったことだけはよくおぼえている。ダイナミクスは突然変異とも遺伝とも言われるが、研究の歴史は浅く、今後の解明が待たれるとか、教科書の下のほうに他人事みたいに書かれていたっけ。進化は無情だ、と、これから何度もそうすることになる益体もない恨み言を、自分はきっとその時も内心で唱えていたのだと思う。  さて、小さな街でクリーニング店を営む夫婦の間に生まれ、十五歳でSubと診断された自分は、大学進学を機に上京し、そのまま東京で就職した。それまでの対人関係にいくらか失望させられ、就職活動では笑えるくらい書類選考に落ちまくり、すっかり自分の第二性には諦めがついた。  結局、アルバイトからそのまま運営会社の社員として引き抜かれて、拘束時間が長いとか土日に休めないとか人並みの不満を抱きながら、向いているともいないとも、好きとも嫌いともわからない仕事を、今日までずっと続けている。  地下鉄の出入り口からナビによると徒歩七、八分の位置にある、かつては呉服問屋だったか染め物問屋だったとかいう古い商業ビルの一階に、カフェ&ダイニング「クイジン」がある。準備中のプレートを提げるために開けた扉からは、隣の歯科クリニックのエアコン室外機から吹くぬるい風と、ちょうど走り去ったワゴン車の排気の混じった、重苦しいくらいに蒸した空気が流れ込んでくる。街路樹の先を仰げば、どんよりと広がる曇天の隙間から、九月のぎらついた光が木漏れ日と呼ぶには鋭く差してくる。天気予報によると、台風は日本列島の外で温帯低気圧に変わり、夜半過ぎには所により雨が降るらしい。この店に配属されてからもう三年目になるのだなと、路面の窓ガラスに貼られたカッティングシートをなんとはなしに指でなぞり、ぼんやりと思い出す。人事異動には少し季節外れの、盛りが過ぎても暑さの衰えない九月だった。榴果は最後の一枚のロールスクリーンを下ろし、額にほんのり浮いた汗を手のひらで拭った。  雇われ店長は毎日それなりに忙しい。ランチタイムが終わる十四時に店を閉め、片付けがひと段落するのは十五時過ぎだ。ディナータイムまでの閉店中にも事務処理をしたり、午後の納品の対応をしたり、予約の電話が鳴ればそれに出たりと、休憩などあってないようなもの。  厨房に顔を出すと、めいめいの姿勢で昼食を摂っているスタッフが顔を上げる。 「お疲れっす」 「お疲れ」  軽い挨拶を寄越すスタッフへ軽い挨拶を返し、余り物を投入した結果グランドメニューより豪華になることもしばしばある賄いを一瞥する。メインの肉料理を避けて、ランチの残りのパプリカのポタージュをトレイに載せると、すぐさま非難の声が上がった。 「まーた、それだけかよ」 「食欲なくてさ。まだ夏バテしてるのかも」 「肉食え、肉を」 「思想が山賊だよねえ」 「うるせー」 「似合ってますよ、山賊」 「お前なあ」  シェフと気易すぎる冗談を言いあっていると、パティシエがそこへ冷たく茶々を入れるいつもの流れだ。その横で大盛りのライスを黙々と平らげる見習いコックに感心し、向かいでスマートフォンの中の動画に釘付けのさらに年若いホールスタッフにうっかり話しかけてしまったことで、推しアイドルの話をしばらく聞かされてから、ようやくトレイを片手に事務所兼倉庫へ引っ込んだ。  申し訳程度に確保された事務スペースで、メールや請求書を端からチェックしながらポタージュを啜る。口は悪いが腕は確かなシェフの、パプリカをローストして作る甘いポタージュが好きだったが、まったりと温かな感覚が食道から胃へ落ちるのに堪らず顔をしかめて、しくりと痛む胃を服の上からさする。ろくに食えないくせに、一日三回、一回一錠の市販薬を近頃では一度に二、三錠飲んでいるせいで、胃痛がひどい。それなのに、腹の奥の飢えた感覚が消えないでいる。病院に行くのを億劫がっていることへの報いにほかならないとわかっていても、同じ第二性でも服薬さえ必要ない者もいるのにと、自分の体質を嘆き、他人を妬む。最初の生命だった時、自分たちはたったひとつの細胞で、そこには何の違いもなかったのに――なんて。食欲不振、不眠、それに精神不安は、欲求不満の代表的な症状だった。  明日こそ病院に行こうと思いながらも、スマートフォンで開くのは予約アプリではなくマッチングアプリだ。規則正しい生活と服薬よりも応急処置を選ぶから、この悪循環が続くのだとも、わかっているけれど。鏡の前で顔を隠して撮ったセルフィーに、いくつもDomからのLIKEがついている。ユーザー名LUCA、Sub、暴力NG、セックス可。新宿エリア、0時以降会える人。募集開始。 「東野(とうの)さーん、日昭(にっしょう)さん」  ドアを開けもせずに大声で呼ばれて、ドアを開けもせず、はーい、と大声で応える。  ほとんどの納品は午前中で、午後の閉店中にやって来るのは、酒屋と、生鮮食品以外の食材をほとんど任せている日昭フーズくらいだ。台風程度の災害では納品が滞ることのない担当営業マンは、仕事のために道路交通情報をチェックしているのか、道路交通情報をチェックするために仕事をしているかわからない時があると、あれは後々結構大きなニュースにもなった事故渋滞のあった日だったろうか、あの下手な冗談なんて鼻で笑いもしないような涼しげな顔のままぼやいたのを、なんとなくおぼえている。  事務所兼倉庫からパントリーに抜けると、カウンターの向こうに人影が見える。ふたつ重ねて抱えた段ボールをぬっと避けて、馴染みの男が顔を出した。 「お世話になります」 「どうも、お世話様です」  飽きもせず交わす挨拶の一瞬、こちらを捉えた瞳を和ませる。一見してにこりともしない素っ気なさがあるせいか、瞳の色のかすかな揺らぎで相手を気後れさせるような男だと思う。 「奥まで運びますね、重いんで」 「助かる~」  榴果がこの店に配属されたのと同じ年の春に、新卒社員として担当になったという彼について、頻繁に顔を合わせていても知っていることは少ない。乙守昴星(おともりこうせい)は、日昭フーズの営業マンで、三歳下の二十五歳。誕生日までは知らないから、まだ二十四歳かも。プレアデスの輝く星空の名前が印象的だった。肘まで捲った袖から伸びる逞しい腕はこの季節、運転焼けだろうか、ほどよい褐色をしている。手首に付けたランニング用のごついスマートウォッチもよく似合っていて、しかもただの飾りではなく、帰宅ランを日課にしているらしい。信じられないけど。 「――あ、上の、これだけ持ってもらっていいですか」  彼が段ボールを抱えなおした拍子に、てっぺんに剥き出しで載った缶詰が滑り落ちそうになり、慌ててキャッチする。 「これが一番重いんじゃない?」 「ですね」  見たことのないラベルの外国語表記は読み方さえわからないし、この絵もたぶんイワシかサバだろうと見当がつくくらいだ。 「アンチョビ?」 「ノルウェー産のオリーブオイルサーディンです。サンプルなんで、よかったら食べてみてください」 「何に使えばいいの?」 「イタリアンなら、パスタかサラダあたりですかね」 「乙守くんは食べた?」 「最近毎日レシピ検索してます」 「料理するんだ」 「個人的には、パンか白米に載せて食うのが、結局うまいです」 「わは」  食品卸の仕事ならではの苦労を思い、笑いながら倉庫兼事務所のドアを開ける。 「ちょっと焼くとうまいですよ」  癖だとしたら少し性質が悪い、話す時にじっとこちらに向ける瞳の濡れたような黒が、捲った袖から伸びる逞しい腕が、スラックスに包まれた長い脚が、床を踏みしめて蹴る健やかな足さばきが、一挙手一投足のしなやかで静かな様子が、全部が躾のよい理知的な動物のようだ。サルーキやボルゾイのような、つんとして高貴な狩猟犬の雰囲気がある男だった。 「ここ置きます」 「うん、ありがと」 「こちら納品書です。あと、見積もりもお持ちしました」 「はーい。そうだ、追加注文、今してもいい?」 「もちろん」 「ほんのちょっとなんだけど」 「ひとつから受けつけてます」 「乙守くんも大変だよね」 「仕事ですから」  彼のような社員は二、三年現場で営業をやればたいてい異動して出世していくから、きっとそのうちこの店の担当も替わり、たかが調味料一缶を納品させられたことを懐かしく思い出すこともあるかもしれない。納品書の一枚目を剥がして寄越された、複写の受領書にサインしようとしてボールペンを取り落とす。カシャン、案外勢いよく回転しながら床を滑るそれを、先に屈んだ乙守が腕を伸ばし、拾い上げてくれる。 「ごめん、ありがと」  ペン先を向けずに渡すところも、行儀がいい。 「いえ――東野さん」 「うん?」 「靴下、そういうデザインですか?」  思いも寄らない指摘に足元を見て、ぎょっとする。パンツの裾から覗く靴下が片方は紺色のリブ、もう片方は全面ロゴ入りの黒だ。もちろん、デザインではない。 「あ、ほんとだ」 「流行ってますよね」 「やめてよ、間違えただけだって」  にこりともしない素っ気なさのある男にくすりと笑われるのは、かように恥ずかしいものだ。榴果の足元に屈み込まなければ誰も気づかなかったろうが、彼に気づかれてしまったせいで現実になったようなものでもある。 「寝ぼけてた、たぶん」  また、くすり。 「朝、弱いんですか」 「すっごい弱い」 「意外です」 「恥ずかし……」  ごまかすように髪を撫でつけると、今度はイヤカフを弾いて落とす。カツン。 「あ」  慌ててそれを追いかけようとした瞬間だった。フラッシュが閃き、じんわりと目の前が暗くなる。  ごめん、と、たった三つの音が出せなかったかもしれない。口から逃がした空気と、かすかに汗の混じった柔軟剤のにおいを、不意に吸い込んでしまう。両腕をしっかりと掴んで支える握力に、頬を擦るワイシャツの生地の感触に、彼にしがみついているのだとぼんやりと気づく。 「東野さん」  のろのろと下りたシャッターが再び上がるような鈍い暗転のあと、視界いっぱいに乙守の胸があった。ドクンドクンと打ち返す鼓動は、どちらのものだろうか。気遣わしげに潜めた声が、耳元をくすぐる。 「大丈夫ですか?」 「ご、めん……」 「いえ」  彼について知っていることは少ない。名前、年齢、そのほかにほんの少しの個人情報とよそ行きの性格くらい。だからこれは、世間話の中でどちらかがうっかりこぼしたようなことではない。そんな、いくらでも嘘を交えられる不確かなものではないのだ。躾のよい狩猟犬のような男の、この恐ろしく禁欲的な佇まいの奥から、どれだけコントロールしようとも滲み出るオーラが、初めて会った瞬間から榴果に確信させている。きっとそれは、彼も同じだと思う。 「……ごめん、気づいてると思うけど、俺」 「わかってます」 「でね、今、抑制剤が、全然効いてなくて……」 「――ああ」  そう言えば、なんてことだ。賄いを食べたあと、昼のぶんの薬を飲まなかったじゃないか。 「ごめん、このままだと、おれ」  逞しい腕を掴む自分の手が、彼を押し退けたいのか縋りたいのか、ぶるぶると震える。動悸が込み上げ、はーっ、はーっ、吸っているのか吐いているのかわからない呼吸がどんどん上がっていく。 「落ち着いて」 「ごめん……おれ」 「東野さん」  榴果を片腕で抱き留めながら彼が引きずったパイプ椅子が、嫌な音で軋む。 「落ち着いて。ほら――座って」  瞬間、両膝から力が抜けた。  ぺたんと座り込んだ冷たい床の感覚と、蕩けるような快感が、尾てい骨から背骨をじんじんと駆け上がる。 「……腰、抜けちゃったぁ」  呂律の回らないうわごとが、わななく唇から漏れる。  きっと、ひどく強いDomなのだろうと思っていた。それは、ただの、ほんの少し下世話なエンパシーだった。わざわざ暴く必要のない、プライベートゾーンだ。自分たちはお互い、わきまえた大人だった――はずだった。  今、榴果を睥睨するように見下ろす乙守の瞳に、支配の性が宿っているのがわかる。自分の奥の奥から、服従の性が溢れだすのがわかる。 (だめだ)  乙守の太股にしがみつき、股座に頬を擦りつける。 「……ほしい」  前立ての下へ指を入れてゆっくりとファスナーをなぞり、その奥に収まった存在感を探す。押し返す弾力が、少し硬くなった気がする。 「これ」 「待って」 「ほしぃ」 (だめ)  ふーっ、と、頭上から唸るような息遣いが聞こえる。  きつく眉根を寄せる彼が、きっと堪えているのだとわかる。ほんの数十秒前まであれほど理性的だった男が、今その理性を煩わしそうに振りほどこうとして、振りほどけずに苛立っている。榴果の頬のラインをたどろうとする強張った手のひらへ、自ら頬を押し当てる。長い指が榴果の唇を割り、歯茎を押し、前歯を撫でる。舌を出してその指に絡め、ちゅ、ちゅう、音を立てて吸う。 (ほしい) 「ねえ、ちょうだぃ」 (ほしい)  ぐっ、と、生地越しに膨らむ感触がある。  彼は自分から、自分は彼から、一ミリも目を逸らせないでいる。彼の瞳の濡れた黒が冷たく燃え上がり、苛烈なイメージが流れ込んでくる。 「――――《Lick(舐めろ)》」  待ちわびたコマンドは、歓喜そのものだった。  金具を鼻先で探り、歯を立て、チ……滑らかなファスナーを下ろす。  紺より明るいデニム色のボクサーパンツの生地が覗き、乙守の指がゴムにかかると、くすんだ色のそれがこぼれ出てくる。ごわついた陰毛を軽く撫で、体格に見合ったサイズの、こんなところまで形のよいペニスに手を添え、ごくりと喉を鳴らして吸いつく。蒸れた雄のにおいが鼻腔いっぱいに広がって、それだけでむせ込みそうだった。昂奮は焦らすのも焦らされるのも気持ちいい。下から上にちらちらと舌を這わせ、口の中に迎え入れる。たっぷりの唾液で濡らして、泡立てながら扱く。 「んむ……」  彼の大きな手が後ろ頭を撫で、髪を梳き、イヤカフの取れた耳朶をくすぐる。  先端のくびれに舌をねじ込めば、口の中にとろりとえぐみが溢れる。ゆら、ゆら、いつか、彼の腰が揺れ始める。頬を撫でる手のひらも、じっとりと湿り気を帯びて熱い。  ちらりと上目遣いに窺うと、じっとこちらを見下ろす黒い瞳に捉えられる。  きゅう、喉の奥が予感に狭まる。 「《Look(見ろ)》」 「――゛んぇ」  最奥をひと息に突かれ、嘔吐寸前の快感に、悲鳴が抜ける。  そこからの彼は乱暴だった。鼻が潰れるほど奥まで押し込み、強引に引き抜いて、また一番奥まで腰を押しつけるのを、何度も、何度も、繰り返した。涙が滲み、鼻水が垂れて、先走りの混じった唾液がだらだらと口の端から漏れるような責め苦だった。 「゛んぅっ、゛うぇっ」  目を逸らすことは決して許されず、榴果はただ、嗚咽じみた声を上げた。 「んっ……」  やがて、ぶる、腰を震わせて小さく喘いだ乙守が、性急な仕草でペニスを引き抜く。 「目、瞑って」  次の瞬間、生温かい精液が降り注いだ。  ふーっ、ふーっ……。目蓋に垂れた一筋を、彼の指が丁寧に拭う。一際濃い精子のにおいにむせながら、焼けた喉でぜいぜいと息をする。両頬を包む優しい手のひらに、ゆっくりと目を開ける。鼻先が交わるほど顔を寄せた乙守は、かすかに赤らめた目蓋を瞬かせ、深く深く微笑んだ。 「《Good(よくできました)》」  じゅわ、と、下着の中が温かく濡れた。  身じまいをする彼を、汗で額に張りついた前髪のひと房を弄りながら眺めている。ハリケーンが過ぎ去り正気に戻れば、満たされた本能がかえって虚しいばかりだ。重い沈黙の中、あーあ、と、内心でため息を吐く。とうとう職場で、毎日のように顔を合わせている仕事相手を誘って、鍵もかからない倉庫の中でプレイをした。自分はいつもこうだ。一度ああなってしまうと、本能でしか行動できない。そうしていつも、こんなふうに取り残される。  頭上に影が差し、乙守が榴果の前へ膝をつく。  鼻先へそろりと伸びる手を避けずにいると、少し躊躇うように震わせた指先で、榴果の目尻に触れる。子供の頃はコンプレックスだった、泣きぼくろのある場所だ。 「ごめんなさい」  静かな声に、浮かべようとした作り笑いが引っ込む。 「どうして謝るの?」 「だって、こんなこと」  あの、背筋を伸ばしてつんと鼻先を正面へ向けた高貴な狩猟犬のような男が、今、叱られたように、心許なげに目を伏せている。その、やはり躾のよい仕草に、彼の正しさに、むしょうにおかしみが込み上げた。 「変なの」  ぱっと目を上げた彼が、笑いだした榴果を見て怪訝そうに眉をひそめる。 「そっちから誘ったくせにって、言わないんだね」  ほとんど出会い頭に自分を犯したDomでさえ、そう言い捨てた。過ちはいつだって、ふしだらで我慢のできないSubのせいだった。  精悍な頬に手を伸ばし、慰める。まだ火照りの残る、温かい頬だ。じっとこちらを見る瞳の濡れたような黒を、じっと覗き込む――ああ、睫毛の先まで端正なのだな。 「俺のほうこそ、ごめんなさい」 「そんなこと」 「もう行って。納品、まだ残ってるんでしょ?」 「でも」 「そんな顔しないでよ」  へらりと笑ってみせると、彼は静かに目を伏せて、かすかにため息を吐く。しなやかな屈伸の動作で立ち上がる乙守に遅れて、甘ったるさの残る膝に力を入れる。辺りを見回した彼は棚の端まで転がっていたイヤカフを拾い上げると、くすぐったいくらい丁寧な手つきでそれを榴果の左耳に付け、会釈を残して去って行った。  初めて会った時、予感なんてなかった。彼がDomだとはすぐにわかったが、それだけだった。人口の三パーセントとも五パーセントとも言われる自分たちでも、アダムとイブでもあるまいに、たまたま出会ったくらいで運命は感じなかった。  朝寝坊して、左右違う靴下を履いて、気まぐれにイヤカフなんか付けた。昼の薬を飲み忘れ、介抱してくれた親切な男にそれ以上を乞うた。自分たちはわきまえた大人のはずだったのに、あっさりと間違えた。 (変なの)  強烈な支配の性を灯した、そして、深く傷ついた瞳の黒が、目蓋の裏から消えない。裸のまま置き去りにされたような気分があまりに心細く、シャツの前をぎゅっと掴む。放課後の教室でも、美術準備室でも、サークルの部室でも、あのクラブのトイレでも、この間のホテルでも、彼のように正しく優しいDomなんていなかったから、少し戸惑っているだけだと思う。  シャツのボタンを、左耳のカフスを、泣きぼくろを、指でたどる。こくりと飲み込んだ唾液に、まだ、味がする気がして、堪らなくなる。  足音はとうに遠のき、ドアの向こうからは、ボウルのガチャガチャとぶつかる仕込みの音が聞こえてくる。濡らした下着がすっかり冷たくなっていて、粗相のあとの感触は、だから、いつも、惨めだった。  夜シフトのスタッフが出勤し、平日のディナータイムは休日に比べて穏やかに過ぎる。雨雲の接近を知らせる通知に気づいたのは閉店作業もすべて済んだあとで、天気の悪い日はこんなものだろうと、日報の保存ボタンを押す。 「お先」 「お先です」  私服に着替えたシェフとパティシエが倉庫兼事務所に顔を出してそれぞれ告げるのに、お疲れさま、と手を振って返し、パソコンを閉じる。マッチングアプリにはコメントがいくつか届いており、品定めしながらそれを眺める。これからこの中の誰かとホテルで会って、始発で帰るのが休日前のよくある過ごし方だったが、もう渇くような飢えはなく、ただ億劫な気分だ。画面を下へ上へ手慰みにスクロールしていても詮ないと、スマートフォンをショルダーバッグに突っ込む。最後にもう一度戸締まりと火の元を確認し、裏口の操作パネルにキーをかざして警備をオンにしてから、店を出た。  まとわりつくような生温い風に吹かれながら正面の通りに出ると、歩道の柵に腰かける人影が目に入る。ごくシンプルなTシャツから覗く腕のしなやかさが、タイトなランニングパンツに包まれた長い脚が持て余すように投げ出されているのが、暗がりでもわかる。両肩にバックパックを背負った軽装の男の、手元で弄るスマートフォンがぼんやりと顔を浮かび上がらせる。精悍な頬、結んだ唇、伏せていても切れ長の目蓋。無表情でいるのに、にこりともしない素っ気なさがある。榴果が声をかけるより先にこちらに気づいた乙守が、片耳のイヤホンを外しながら背筋を伸ばした。 「東野さん」 「……どうしたの?」 「話したいことがあって」  単刀直入な物言いに、目の前の男が偶然に居合わせたのでないと知らされる。 「もしかして、待ってた?」 「はい」 「いつから?」 「向こうのマックが閉まってからなんで、大した時間じゃないです」  通りの向こうのマクドナルドは真っ暗で、閉店からもう一時間は経っているはずだ。 「声かけてくれれば」 「個人的な用なので」  行儀がいいというには厳格な返事に戸惑いながら、榴果は地下鉄の出入り口のあるほうを指差した。 「えっと……歩きながらでいい?」 「いえ、ここで。すぐ済みます」  にべもなく首を横に振った乙守が、こちらにじっと瞳を向けて、きっぱりと言う。 「俺のSubになってくれませんか」  突拍子もないせりふは、いったい地球を何周しているのか、いつまでも意味が届かなかった。 「決まったパートナーがいるならと思ったんですけど。いたら、ああならないですよね」 「――あは、うん、そう」  おかしくもないのに笑った榴果に、彼は笑い返さなかった。 「俺もパートナーがいないので」 「あ、うん」 「今日言えてよかったです。考えてみてください」  返事も待たずに踵を返そうとする彼のTシャツの裾を掴んだ時、彼よりも自分のほうが驚いていたかもしれない。 「待って。それだけ言うために?」 「はい」 「いつでも会えるのに? あ、でも、明日は」 「知ってます。東野さん、水曜休みですよね」  付き合いも長くなれば、定休日くらいはおぼえるのだろう。小さく顎を引いて頷いた乙守が、事もなげに続ける。 「ぐずぐずして、誰かに取られたら嫌だから」 「――わは」  今度、思わず笑った榴果に、彼はやはり笑い返さなかった。  じっとこちらに向ける瞳の濡れたような黒が、ちかちかと耀いて見える。頭上にはこれほど重苦しい曇天が広がっているというのに、まるで晴れた夜空を映したようだ、と思う。軽いまばたきのあと、その瞳を逸らすと、今度は彼が地下鉄の出入り口のあるほうを指差した。 「やっぱり。駅まで歩きませんか」  地下鉄の通路を、前を歩く女性のレインブーツの足元と、機嫌がいいとも悪いともわからない素っ気ない横顔を、交互に盗み見ながら歩いた。 「…………雨」 「はい?」 「降るのかな」  選びあぐねた挙げ句に口から出たのは、温帯低気圧に変わった台風がいつ雨を降らすのかなんて、彼に聞くにはあまりに馬鹿げたせりふだったのに、彼が気圧性の頭痛持ちだと知ることになった。それから彼が晩飯に、パティ二倍のビッグマックのサイドにナゲット十ピースとLサイズのポテトをつけて食べたことも。 「最近、全然食べてないなあ」 「何が好きですか?」 「てりやきバーガー」 「へえ」 「甘じょっぱいのが好き」 「わかります」 「あと、大して好きじゃないのに、月見は食べたくなる」 「――今日からでしたよ」 「うそぉ、もうそんな時期?」  新宿駅へ向かう電車にふたりして乗り込み、同じ方向の電車に乗り換えて、自分は数分、彼は十五分ほどで住まいのある駅に着くのだとも知った。帰宅ランのために、途中の駅で降りて家まで走るのが日課らしい。 「中学まではサッカー部だったんですけど、高校と大学は陸上部で一万メートル走ってました」 「一万メートルって……十キロ?」 「はは、十キロ」  多くの選手がそうであるように成績が大会記録になるようなことはなかったそうだが、調子がよければ今でも現役時代のタイムとあまり変わらないのだと聞いて、目眩がしそうだった。  終電間際の快速電車に揺られながら、目の前に立つ乙守の耳介のラインを眺めていると、ふと、彼がくつくつと喉を震わせる。 「なに?」 「いえ。靴下」  左右違う靴下をそんなに面白がるのはこの男くらいだろうし、こんなに笑われるのは自分くらいだろう。彼の足元、鮮やかな水色と黒のランニングシューズのつま先を、つま先で蹴って抗議する。 「すいません」  そうして、自分の靴よりひとまわりは大きいランニングシューズに向かって、とうとうここまで世間話に紛らせて聞けなかったことを、ぽつりと投げかけた。 「……その、さ。今日のことだけど。責任感じてるなら」 「いえ」  榴果の呟きを最後ほとんど食うように否定したあと、乙守がごく小さく、しかしはっきりと苦笑する。 「――ああ、いえ、責任はあるけど」  苦笑の残る唇を指でわずかに撫で、それから彼は、さらりと言ってのけた。 「まあ、下心ですね」  車内アナウンスが次の停車駅を告げる。降り口と示された真横のドアの向こうへ視線を向けた彼の横顔は、本当に冗談みたいにただ禁欲的で、曰く下心ってやつも、忘れるにはまだ鮮明すぎるあの傷ついた表情も、少しも見えないから戸惑っている。 「……寄ってく?」  Tシャツの裾を引っ張った榴果の手を、彼が丁寧に解く。 「少しは警戒してください」 「送り狼を食べる羊だっているよ」 「じゃあ、なおさら。今日はゆっくり休んで――隈がひどいから」  遠慮がちに伸ばされた彼の手が、前髪をそっと避け、榴果の下目蓋をかすかに撫でる。 「それから、返事ください」 「……うん」  榴果の目を覗き込む彼の瞳の、濡れたような黒に、ちかちかと星が耀いて見える。よく晴れた夜空を映したような――その先に宇宙が続いているような黒から、目を逸らせないでいる。 「気をつけて」  開いたドアから、たたらを踏むようにホームに押し出される。人いきれの感覚をすすぐにはべたついた夜風に吹かれながら、階段へ向かうひとに二人、三人と追い抜かれるのに、やがて夢から覚めたような気分で、榴果もまた足を速めた。 =================== 2023/10/8 J.GARDEN54にて頒布の新刊「ソルティキャラメルエンパシー」の試し読みでした。 ご興味お持ちいただけたら嬉しいです。 スペースNo:ふ11a サークル名:A急列車 文庫サイズ/182P/1,200円
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