矢島君の死

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 いやあ、今年の夏も、本当に暑かったね。未だに残暑とか言ってるんだけど、もう、九月なんだからね。本来残暑なんて八月中に終わっている筈じゃないか。未だにこんなに気温が高いなんて、本当にもう滅茶苦茶だよね。これじゃあ、夏も終わったんだか終わってないんだか、もうわかんないよ。あなた、体調崩したりしなかった?なるほど、それは何よりですな。  こう暑いと、もう、頭がぼうっとしちゃって仕事にも差し障りが出てくるんだよね。本当に、何にも思いつかなくって。何かいいアイディアないかね?それを考えるのがお前の仕事だろうって?いや、相変わらず手厳しいお言葉ですな。さすが泣く子も黙る辛口評論家先生だ。ええ、そりゃわかってるよ。よおく、わかっておりますよ。でも、こんなに毎日暑いと、どんなに頭を絞っても、何にも浮かんでこないんだよ。本当に、もう、こちとら気が狂いそうになってるんだ。  そう言えばさ。暑さをモチーフにした怪談ていうと、ふとこんな話を思い出したんだ。もう20世紀初頭くらいの英国の作家の話だけどね。ある八月の暑い日、ある男が近所をふらふらと散策していると、とある石屋の店先で、自分と全く同じ名前が刻まれた墓石に出会ってしまう、という話なんだ。古典的名作だから、よくご存知かもしれないけど……そう、あの話さ。やっぱり名作だよね。確かに自分の名前の彫られた墓石を見つけるというのは恐ろしい話なんだけれど、その背景にある、うだるような真夏の暑さが素晴らしい効果を与えているんだよね。頭がぼうっとして脳味噌に”もや”がかかってくるような感覚。肌を伝う汗の不快感。気が狂いそうになるような苛立ち。物語全体が、真夏の狂気のイメージに支配されているような、そんな感じを受けるよね。  そして、やっぱり恐ろしいのは、人間の運命というか、自分の名前が墓石に刻まれているという事実、自分が最早死者となって葬られているという状況が、本人自身の眼前に突然現れるという恐怖だよね。あの話の中では、名前を彫った石工は、ふと思いついて墓石を彫っただけで、名前も単に思いついたものを使っただけだみたいなことを言っているんだが、自分と全く同じ名前を思いつかれたというのは、それはそれで怖いよね。しかもよりにもよってそれが墓石に彫られるなんて、結局、逃れられない運命みたいなものを感じさせるじゃないか。死はその男を先回りするように、突然、散歩道の中に現れる。男の名前が明確に墓石に刻まれた文字という形を取って、いきなり彼の前に現れたわけだ。その男は誰かにかけられた死の呪いからことが出来なかったみたいな、そんな怖さも感じるよね。考えてみれば、呪術をかける際、呪いは相手の名前にかけられるって言うもんな。そういう点からも、この話は非常に怖い話だと思うんだよ。これは英国の話だけど、なんだか、言霊が実現化する話にも通じているような気がするね。  とか言って、あなたと色々話しているうちに、なんとなく一つのアイディアが浮かんできてね。試しにそれを使って書いてみようと思ったんだ。アイディアさえ決まれば、書くのはすぐだからな。いやいや、全然邪魔じゃないから、ゆっくりしていってよ。是非、今夜は泊まっていってほしいんだ。どうぞご遠慮なく。うん、タイトルも決まってるんだ。もう知ってるよね。だって、もうここまで読んでしまったんだろう?ねえ。なかなか面白い物が書けたと思うんだが、どうだろう。いや、全くあなたのおかげだよ、有難う。矢島君。 [了]
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