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2.鈴虫
「清貴?」
香りに気を取られている僕の耳に声が飛び込んできて喉からひゅっと変な具合に息が漏れた。ぎょとしている僕の前で藪が揺れる。顔を出したのは麻生緑先輩だった。
「あれ? お化け役、茜じゃなかったっけ」
怪訝そうに切れ長の目を細めた先輩の指には火の点いた煙草が見える。先ほど嗅いだ香りはこの香りだったのか、と煙草の先から立ち上がる煙を目で追い、僕は顔をしかめた。
「こんなとこで吸っちゃだめですよ。灰皿持ってます?」
「当たり前。けど暇すぎてね。ああ、でも清貴が来て少しは暇をつぶせる」
にやっと笑い、緑先輩は近くの大樹にもたれかかって座りながら、携帯灰皿へ煙草をねじ込んだ。
弓道をやっている人というと、落ち着きのある人というイメージがある。事実僕も弓道を始める前はそう思っていた。けれど実際のところはそうでもない。さすがに的前に立つときはきりりとしているけれど、的から離れれば、お酒を飲んで歌うことだってあるし、色恋沙汰でもめることだってある。
だが、緑先輩はいつも静かだった。凪いだ海みたいにどんなときも涼しい顔を崩さない。
今もそうだ。お化け役を押し付けられて面倒くさがっているかのような口を利きながらも口角だけはほんのり上がっている。
「最初の客が来るまで10分くらい?」
いつもの単調な声で緑先輩が問う。ええ、と声を押し出すと、そっか、と呟いて緑先輩は黙り込む。沈黙を埋めたい一心で僕は口を開いた。
「お化け役、ふたりもいりますかね?」
「お前のそれは人魂?」
面白そうに緑先輩が釣り竿をつんと突く。釣り竿の先に吊るされたサイリウム入りの靴下がほわわ、と揺れた。
「先輩は? 見たところお化けの扮装もなさってないですけど」
「ああ、俺は効果音担当だから。客が来たらこれを流す係」
笑いながら先輩はスマホを引っ張り出す。手早く操作すると木々が大きくざわめく音に混じって野太い男の唸り声が響いてきた。
「うわ、こんなのどうしたんですか」
「ふふふ」
笑うだけで先輩は答えない。その先輩の顔から僕は目を逸らす。
この人はときどきこんな風だ。普段は、感情なんて面倒なものに心振り回されたりしませんよ、というような顔をしているくせに、時折こんないたずらっぽい顔をする。
「止めてください、それ。怖いんで」
俯いて早口に言うと緑先輩は素直に音を止めてくれた。
「清貴はお化けが苦手?」
静かな声だ。けれど声の芯に楽しそうな響きがある。それが僕にはわかる。
「苦手も苦手じゃないもないです。いないですから」
「お化け信じてないならこんな音くらい怖くないだろうに」
からかうような色が声に加わる。僕は意味なく釣竿を揺らしつつ答えた。
「信じてなくても気持ち悪いものは気持ち悪いです。しかもこんな場所で聞くのはちょっと」
「まあ、確かに。さっき一人で待っている間、あまりにも音がしなさ過ぎてさすがにぞっとした。ああ、いや、そうでもないか」
そこまで言ってから先輩はすっと視線を藪の向こうへ向ける。
ちりりり、ちりりりと、軽やかな声が草の間から漏れてきて、僕はふっと目を瞬いた。
「鈴虫、鳴いてますね。もう」
「そう。だからまあ、この役も悪くない」
ひっそりと笑んで緑先輩が言う。僕はそんな先輩の顔を横目に見、一度唇を噛んでから呟いた。
「茜先輩が、良かったですか?」
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