11人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
雨の展望- 5
それから数日雨は続き、酒楽はずっと布団にくるまり過ごしていた。
頭が痛いというのでさすってやるが、いっこうに楽になる気配がない。薬をもってこようかと悩んでいたら、酒楽は不要だと言う。
「やまいじゃない。ただ、雨音がうるさくて」
宝物庫の中に響く水音はかすかだ。外は穏やかな春雨で、笹の葉ずれに似た優しい音が聞こえるばかり。静けさのなかに響くほんの少しの水音を、酒楽は全身で拒んでいる。布団のなかで丸くなり、ぼそぼそと言う。
「外にでられないのに、どうして外の音を聞かねばならない。うるさい、……うるさい、……もう、聞きたくないのに」
雨音は外を感じさせる。うす暗い蔵の中にいても、否応なく音は入りこんでくるものだ。牢にいる酒楽が、天から落ちるその水滴を浴びることはない。曇り空を眺め水たまりを駆けまわり、雨上がりの情景を見ることもない。丸まり布団の中で身を抱える幼子は、手に入らぬ外界のすべてを拒んでいるようだった。
(これはよくない)
布団の塊と化した幼子に、だからはっきりと告げてやった。
「外へ出ましょう。誰にも見られなければいいのです」
けれど酒楽は頑なだった。けして牢から出ず、外の世界を拒み続けている。雨が止んでからもその顔は青白く、幼子の生気は少しずつ冷たい牢の中で失われていくようだった。
(このままではいけない。やり方を変えなければ)
ある日、酒楽の目を盗んでこっそり外へ出た。町から焼きたての菓子を大量にもってきて、それを酒楽の前に広げてみせる。
「なんだこれは?」
差し出された包みに幼子は目を丸くしていた。
「よもぎ饅頭、餡のつまった蒸し饅頭、干菓子に塗りせんべい、みたらし、酒蒸し饅頭、他にも色々です。街に美味しそうなものがたくさんあったので。お好きな物をどれでもどうぞ」
「買ってきたのか?」
「ええ、まあ」
嘘である。自分の姿が人目につかないのをいいことに、すこしずつ屋台から失敬してきたものだ。酒楽は胡散臭そうな視線をよこしたが、好奇心と甘い匂いには負けたようだ。ひとつ、ふたつと菓子に手が伸び、止まらない。甘味が好きらしい。塩辛い菓子よりも、蒸し饅頭やあん饅に頬をゆるめている。
「お気に召しましたか?」
「ん、……これはなんという菓子だ?」
「月餅です。街で流行っているようで、いろんな種類が売られてましたよ」
本来は中秋節の頃に多く出回る菓子だが、どうやら現天帝が秋に向け、新たな菓子開発を促しているらしい。屋台には時季外れの菓子がずらりと並べられていたのだ。
月餅の種類は多く個性に富む。代表的な木の実を使うものから白餡、黒胡麻、椰子の実餡、紹興酒に栗の入ったもの、すみれの砂糖漬けを使ったものまである。酒楽は月餅が気に入ったようで、食べ終わった後も包み紙をいじましげに眺めていた。
「街にはもっとたくさん種類がありましたよ。いかがです、一緒に足を運んでみませんか?」
幼子はつられたように顔を上げた。淀みに濁る目が一瞬きらめくが、すぐに伏せられてしまう。
「いい」
「でも」
「おまえの考えはわかる。むだだ、やめろ」
もそもそと布団に潜りこむ酒楽は、誘惑に必死に耐えているようだった。いくら人より聡いとはいえ幼子だ。甘味につられた姿にはたしかな手ごたえがあった。根競べなら負けないと、それからもしばらく外へ出ては酒楽に甘味を与え続けた。はじめは頑なに渋っていた酒楽も、毎日繰り出される甘味攻撃には懐柔されていった。ついには、「木の実の月餅が一番好きだ」という言葉まで引き出せた。
「つくもがみ。おまえは伍仁月餅ばかり買ってくるな」
ある日、目の前に並べられた木の実の月餅の小山を見て、酒楽がそう鋭く指摘する。甘味を食すこれまでの様子から、それが一番好きなのだと察し、伍仁月餅を多く運ぶようにしてきたのだ。その好みを看過され、酒楽は不満そうだった。月餅をむんずとつかみ取り、じと目で睨んでくる。
「お嫌いでしたか?」
「きらいではない」
もぐもぐとひとつ目の伍仁月餅を咀嚼し終わり、酒楽はふたつめに手を伸ばそうとしている。以前に比べると表情は明るく、痩せ細っていた身もいくらかましになっている。日々の努力の成果だとこっそり喜び、内心ほくそ笑んだのがばれたか、酒楽はむくれてしまった。
「これで勝ったとおもうなよ」
「はい?」
「わたしはただ、……おまえがこんなに伍仁月餅ばかりもってくるから、しかたなく」
「はいはい」
何を言われても幼子の負け惜しみにしか聞こえない。月餅をりすのように頬張る酒楽は、年相応に愛らしく微笑ましい。
(そういえば、撫葉さまも幼いころ、甘味がお好きであられた)
微笑ましく見ていると、目をすがめた酒楽が満月に似た形の月餅をかざしてくる。月餅ごしに睨まれてしまう。
「うにん」
「はあ。伍仁月餅がお気にめしたのですね」
「ちがう。おまえのなまえ、今日から伍仁だ」
「はあ? 私の名は――」
言いかけ口をつぐむ。撫葉の手記を読んだ酒楽は、自分の名が「翡翠」だと知っている。あだ名をつけてくれたのだろうか。酒楽は口の端で笑っている。
「『翡翠』など、おまえにはぎょうぎょうしくて似合わん。おまえなぞこの『伍仁』でじゅうぶんだ。そういえば、どことなく似ている」
「どこがです」
満月を模した菓子は丸い形だ。伍仁月餅ほど太っていると言われた気がして、自分の姿を見下ろしてしまう。酒楽はそっぽを向き月餅を食べている。
「伍仁、菓子がなくなったぞ」
「ちゃんと噛みましたか? それより私のどこが太っていると? 丸くなどないでしょう」
「しるか。いいからはやく菓子をもってこい」
「今日はもう駄目ですよ、甘い物ばかり食べて夕ご飯が入らなくなります」
開き直った酒楽は、以前よりも積極的に菓子を食し、ねだるようになってきた。伍仁にとっては喜ばしいことだ。食べることは生きることだ。たとえそれが菓子であれ、それだけ酒楽の生きる活力を引き出せたことになる。
甘味ばかり食すようになってきて、その調節に頭を悩ませ始めたころ、酒楽の叔父・拾野波路がふたたび宝物庫を訪ねてきた。飄々とした青年は突然やってきて、酒楽の顔を見るなり悪態をこぼした。
「なんだ、まだくたばらねぇのか」
「わるかったな。それは?」
拾野波路はひと抱えもある風呂敷包みを運んできた。牢の前に置いた包みを開けると、中にはぎっしり古書がつまっている。
「書架の整理をしててな。不要な本が大量に出たが、貴重なものだから捨てるわけにもいかない。かといって売るのも面倒だと思ったら、そういえばここに不用品を入れておく蔵があることを思い出したのさ」
酒楽はむっとしたようだが、黙っていた。宝物庫にある本はすでに読みつくしたと話していた。暇をもてあました彼にとり、新たな本はなにより価値があるのだろう。
「まったく、ここは埃っぽくてかなわねぇ」
拾野波路はそれからも週に一、二度の頻度で現れ、「不用品だ」と言って物を運んできた。多くは貴重な薬学や草木学、漢方の調合の本だったが、時おり、絵筆と綴じ紙を持ってくることもあった。
「俺にはもう不要なものだ。酒楽、お前は画が好きだったろう。自由に使え」
「ごみをもってくるな」
「ふん。ごみ溜めに留まるほうが悪い」
その顔を見るたびに酒楽は心底怒っていたが、横で見ていた伍仁は拾野波路が、不遇な甥のことを気にかけているように思った。週に数回現れ、こまめに古書や絵筆など娯楽に近いものを置いていく。それは酒楽を思ってのことだろう。彼は酒楽のために、わざわざ足を運んでくれているのだ。
ある日、あまりに酒楽が彼のことを悪く言うのでその考えを伝えると、鼻で笑い一蹴されてしまった。
「あいつはそんなこと考えない。むしろ、波路は」
ふと言葉を止め、何かに気づいたように幼子は遠くをみやった。
「なんです?」
「いや。どこかへいくのかもしれないな。身辺整理をしているようだ」
「それは……」
少々考えすぎではと思ったが、そうでないとも言い切れない。拾野波路が運んでくる物の中には、本当に不要そうな物も多く含まれていたのだ。薬箱やすり鉢など、薬作りの材料器具一式。割れた食器に鉱石、虫の標本に動物の骨――高価かもしれないが、幼子の遊び道具には適さない。本当に蔵へしまっておくべき物も多く運びこまれてきて、宝物庫はしだいに狭くなってきている。このままの頻度で物が運びこまれれば、いずれ居住空間をも侵食するだろう。それが彼の狙いなのかもしれない。
(生活空間がなくなれば、酒楽さまも外へ出ざるをえない、か?)
伍仁にはどうしても、拾野波路が悪い人間には思えない。彼は酒楽をここから出そうとしていた。それは間違いない。牢の中ですり減っていく幼子の興味をひき、外へ誘おうとしているのだ。
「伍仁、だまされるなよ。あいつはじぶんのことしか考えない、冷血漢だ」
何を根拠にしたものか、酒楽は拾野波路のことをまったく信用しない。したり顔の幼子は、けれどそう告げたそばから、叔父がもってきた絵筆と色墨を手に取った。画を描きはじめたので、伍仁はなんとなく眺めていた。筆致は見事なもので、芸を生業とする廿野家の血筋をたしかに感じさせた。
「画がお好きなのですね」
酒楽は答えず、紙の上を走る黒い線に集中している。大きな黒瞳が瞬きもせずに紙を凝視し、白く細い指がよどみない勢いで白紙に模様を描く。墨を落とし、ゆるやかに濃淡をきかせ、手触りまで視覚から伝わるような質感を作り上げていく。紙が色で埋めつくされる――まるでそこに、現実を映した鏡があるように。
伍仁は息をのみ、様子を見守った。酒楽は天才だ。群を抜く聡明さや回転の速さだけではない。この画を見れば、彼が画家として大きく花開く器なのは明らかだ。画家の腕とは、物事を見る解像度できまる。酒楽はその点、並々ならぬ観察力と分解度を有している。迫真の筆致からはそれが十分に窺い知れる。だからこそ残念でしかたなかった。これだけの才能を有しているのに、うす暗い蔵に閉じこもっているなんて。
(外の世界を見せてやりたい。この才能を、ここで腐らせておくには惜しい)
「酒楽さま、外へ出てみませんか? 画がお好きならなおのこと……外はうつくしい小春日和ですよ。桜の花も満開です」
酒楽は答えない。聞こえているのかいないのか、黒瞳を大きく見開き、一心不乱に画を描き続けていた。
最初のコメントを投稿しよう!