雨の展望- 6

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雨の展望- 6

 жжжж  ――外へ出よう。  酒楽がそう思いたったのは、近ごろ小うるさい付喪神のせいだった。  毎日、街から月餅や新作の甘味を運んできて、外の様子ばかり話し聞かせてくる。自分だって、なにも外に出たくないわけじゃない。宝物庫のなかの生活にはとっくに嫌気がさしていたし、新鮮な空気を吸いたいとも思っていた。ずっと暗い牢の中にこもっている、もう二年もだ。これまで外へ出なかったのは、頑なに恐れていたからだった。何をと言われると困る。  「自分は外へ出てはいけない」、そう強迫観念のように思いこんできた。禁を破れば、なにかおそろしいことが起きると、そうなぜか信じこんできた。けれど突然の付喪神の出現でふと目をさまされた気分だった。うす暗い宝物庫で、なにもない場所から姿を現した付喪神。鮮やかな緑の衣を着て、理知的な佇まいをしている。どことなく冷たいのに、これまでに見た誰よりも優しい眼差しのときがある。曾祖父に仕えていたという付喪神は、かいがいしく自分の世話を焼き、しつこく告げた。  ――なぜ外へ出ないのです。  ――誰にも見られなければ、すこしだけなら平気ですよ。  繰り返し聞かされるうち、わからなくなったのだ。なぜ自分は外へ出ることをこんなにも恐れていたのか。禁を破れば恐ろしいことが起こる。その根拠もないのに、何をもってこの場所に閉じこもっているのか。  考えてみれば、宝物庫に留まることの無意味さがわかる。自分が逃げれば乳母が罰されると、そう思っていたのにしたっておかしい。乳母を連れて逃げればいいだけの話だ。ここにこもり続けることの理由にはならない。  なぜ、なぜ。酒楽はわからないことが嫌いだ。  長年信じこんできたことの筋が通らないのは、ことさら気分が悪かった。 (外へ出てみよう。誰にも見つからないように)  伍仁が街へ出た隙をねらい、静かに錠を開けた。付喪神がいない時に外へ出ようと思ったのは、言うことを聞いたと思われるのが癪だったからだ。それ以外に意味はない。  宝物庫の重たい扉を開けると、外は昼下がりの春だった。久しく感じなかった土の匂い、その心地よさに頬がゆるむ。足元の土は先日の雨に濡れ、水たまりが青空を映している。顔を巡らせると、蔵の横にある桜の古木が満開だった。枝ぶりも見事な零れ桜は、空気をうす紅に染め、鮮やかに興味をそそってくる。足跡を極力つけぬよう、桜の根元へ歩いていった。  大きい。真下から見ると、傘のように花天井が広がっている。どこかで鴬が鳴いていた。季節が春だと実感できる。降り注ぐ陽の温もりに、体中の強張りがほぐされていく。そのままそこへ屈みこみ、宝物庫から持ってきた綴じ本に花の画を描き写すことにした。 (次はいつ出てこられるかわらかない。今のうちに、この絢爛たる春を)  すこし、あとすこしと描き続けていけば時を忘れた。花天井と白紙を両目が往復し、思考はいつの間にか奥深くに潜りこんでいる。早く戻らなければという内心の焦りが、不可思議なことに「描いてはいけない」という声に変わりはじめた。単調な素描を繰り返すなか、己の記憶に疑問を抱きはじめる。 (――おかしい)  「描いてはいけない」と、以前にも確かに言われたことがある。とりかえしのつかない罪悪感と後悔、震えあがるほどの恐怖の記憶だ。重苦しさを感じながらも、桜を描き写すかたわら、己の記憶をたどっていった。  「描いてはいけない」、そう言われたのは少なくとも宝物庫へ入る前のことだ。伍仁や波路は絶対にそんなこと言わないし、乳母にいたっては喋れない。いったいいつ、誰に言われたのか。 (描いてはいけない。そう言われるからには、私は画を描いていたにちがいない)  考え方を変えてみる。  宝物庫へ入る前、最後に画を描いたのはいつのことだろう。  うすらぼんやりとした記憶に愕然とする。これまで何かを思い出せないということがなかった。たった数年前の出来事を、なぜこうも忘れかけているのか。それでも記憶を呼び戻し続けると、鮮明な茜空がぱっと広がった。  十月の夕暮れの空。  冗談みたいに赤い空に、灰色のうろこ雲が伸びていた。  秋空に届くのではないかと筆を握る手をかざしてみた記憶。自分の小さな五指の影、座る膝上に描き終えた画をのせていた。風に飛ばされぬようにと、画を片手でおさえていた。  足もとが屋根瓦で不安定だったから、落ちないように注意もしていた。足を滑らせでもしたら大変だから、そんなへまをしないように気を配っていたのだ。実際、自分は足を滑らせなかった。あのとき――、  まだ大丈夫、そう息を潜め茜空を見て――誰かに、後ろから呼びかけられたのだ。  あのとき、こっそり隠れて屋根瓦に登った。画を描くために。屋敷で画を描かなかったのは、誰にも見えない場所で作業しようと思ったからだ。見つからないようにしなければならなかった。隠れて描く必要があったのだ。 (あのときの自分は、――)  屋根の上で、夕暮れの空の中で後ろから名を呼ばれた。  誰かに見つかった。  それは身も凍るようなつめたい声で、自分が心底おそれていた化け物のような声で――……。 「描いてはいけない。そう言ったでしょう」  穴のような黒い両目が、瞬きもせず自分を見下ろしていた。  満開の桜の下に酒楽はいる。  春の陽が凍りついたように暗くなっている。  顔を上げた先に真っ黒な女が立っていた。ざんばらに伸ばした荒れ放題の黒髪、うす墨の衣。幽鬼にも似た無表情な目が、春のひなたを遮り風を暗くしている。感情の見えない黒瞳と目があったとき、すべてのことを理解した。一瞬で血の気が引いた。 「かあさま……」  記憶の中の秋の茜空と、春爛漫の中にある姿が混濁してみえる。 「描いてはいけない、そう言ったでしょう。お前、画を描いてはいけないと、何度言ったらわかるの――ッ!」  ふらりとよろめくような動きで、真っ白な腕が伸びてくる。黒髪が無造作に揺れ、一気に視界を覆いつくす。避ける暇もかわす間もなく片腕をつかまれていた。ぎくりと身がすくむ。筆と紙が手からこぼれ落ちた。  骸骨を思わせる白く細い手。この手に屋根から突き落とされたのだ。  おととし、画を描くために屋根の上にこっそり登っていた。茜空の下で振り返った先に、背後から忍びよってきた彼女がいたのだ。 「お前悪い子。悪い子わるい子ね、ほんとうにいけないわ隠しておかないと。お父様に怒られてしまう私が怒られるのよお前のせいで。人に迷惑ばかりかけてほんとうに悪い子、お前のせいでぜんぶお前のせいなのよ――……」  水に湿った土道を左腕をつかまれ、引きずられていく。これは現実なのだ、夢でも過去でもない。先ほどまでの春の暖かさは消え、震えが止まらない。寒いわけじゃない。感覚という感覚を閉ざされていく気配がある。極度の緊張に似た心持ちにはおぼえもあった。  暗い宝物庫の牢へ乱暴に投げ入れられ、衝撃に息がつまった。床へ転がされ、ひらめきに近い速さで考えていた。  なぜ、外へ出てはいけないと思いこんだのか。己に催眠術をかけるよう、問題をすり替えていたのだ。自分を騙していた。それほどに大きな衝撃だったのか。頭のすみで冷静な自分が驚いている。無意識に己を守ろうとした、過去の自分。 (外へ出るのが悪いわけじゃない。ただ私は、母さまを――) 「悪い子、どうしておとなしくできないのいつもえらそうにして親をなんだと思っているのお前は私が産んだのよ私のものなの私のおかげで生きていられるのよだから感謝なさいお前の命は私のものなのどうして言うこときけないの言う通りになさい考えなくていいお前はなにも考えなくていいの人形のようにただじっとして息をしていればそれでいい、だから画なんて描かないでちょうだい」 「か、っ」 「しゃべらないで」  起き上がろうとしたところを殴られた。口の中に血の味が広がる。  屋根から落ちた瞬間が思い出された。茜空を背景に母親の黒い影が、落ちる自分を無表情に見下ろしていた。  茫洋と見開かれた黒い目。親愛のかけらも見当たらない、ごみを見るような視線だった。  助けてくれと、手を伸ばすのも躊躇われたこの目が。自分のことをただの物だと思っているこの感情を遠ざけ、見なかったことにしたのだ。 「どうして画なんて描くの描いちゃいけないとあれほど言ったでしょう、お前の画はよくないものなの人に悪影響をおよぼすのよぜんぶお前のせいなの、ねぇわかるでしょう? 私だってこんなことしたくない、でもお前のためなのよ酒楽、母さまを責めないでちょうだいお前にそんな権利はないの私の子なんだから親の言うことを聞いていればいい親が何事も正しいんだからお前は画なんて描いてはだめ悪い子ね本当に悪い子どうして言うことを聞けないのかしら」  馬乗りになり、与えられる暴力は痛いというより衝撃に近い。  息がつまり涙がにじんだ。なにも考えられなくなる。なにも。思考が白みはじめ、顔をそむけて拳をできるだけ避けながら、笑い出しそうになった。  思い出した、これが母さまだ。  産まれてからずっとこの人はこうだった。  だからできるだけ顔を合わさぬよう、その意に逆らわぬようにと生きてきて、けれど画を描くことだけはやめられなかった。やめろと言われて止められなかった。そこに生きる価値を見出していた。だからこっそり屋根にのぼったあの日。視界いっぱいのうつくしい茜空。  屋根から突き落とされた瞬間に、世界が崩れ落ちる音がしたと思った。  壊れる、壊されてしまう、このままでは身も心も。  だからなかったことにしたのだ。自分が屋根瓦から足を滑らせたのだと。母さまは私を心配し、宝物庫へ閉じこめている、私を大切にしてくれている。そう思いこむことにした過去の自分。無意識の自分。さかしい自分。 「誰のおかげで生きていられると思っているのお前の暮らしは、この服も食事もお前の髪も体も目も手足もぜんぶ私のおかげで存在しているのよ言うことを聞きなさい。お前が産まれたせいでお父様は経典造りにこもってしまわれたのこの意味がわかる? ぜんぶお前のせいなのよお前が画なんて描かなければどうしてこんな指があるのかしらこんなものがあるからいけないのね」 「ィ、ッ!?」  指を折ろうとしている。  押さえつけられた左手をとっさに勢いよく体ごとひねりかわした。馬乗りになっていた母親は、床へ落とされ茫然とこちらを見る。激情に火がつく寸前だ。震える身を叱咤し、床を這う。宝物庫の奥へ逃げようとした。 「ぅ、にん」  助けて。どこへ行ってしまったのだ。たすけて。 「誰が親に手をあげていいと言った――!」  激高した母親は、見境なく拳を振り下ろしてくる。 「ッ――!」  両手をしっかり握りしめ、ただ衝撃に耐える。どうすることもできないのだ。
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