有限と無限- 4

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有限と無限- 4

 жжжж    女宮の端にいた伍仁は、急ぎ酒楽の宮へ駆け戻ってきた。  宴の席で場を支配していた弁財天女神(べんざいてんにょしん)に睨まれ、反感をかってしまった。無意識に抗おうとしたのだろう。気づけば酒楽から遠く離れた場所まで飛ばされていた。 (はやく戻らなければ――!)  すでに宴は終わり、みな宮へ戻っている。今ごろ酒楽は自分を探し、大騒ぎしているに違いない。なにせ自分は彼にとって、一番大切な存在なのだから。 (私がいないと酒楽さまは駄目なのだ)  うぬぼれでなく、それくらい必要とされている。先ほどの衝撃で、伍仁は不思議と閃いたことがあった。酒楽は伍仁のために、後宮へやってきたのだ。どうして気づかなかったのだろう。 (あのとき、――)  柘榴帝が着ている、薫香避けの黒羽織だ。後宮へ来る前に、自分はそれをたしかに目にしている。まだ酒楽が幼かったころ、町へ薬草を取りに行ったときのことだ。伍仁は不思議な商人と会っていた。えびす顔で、妙に気さくなその御仁は、昼間から酒精をなめていた。柘榴帝と同じ黒羽織を着た商人には、伍仁の姿が見えていた。そして酒楽が後宮入りを決めたのは、その商人と会ってからすぐのことだ。なぜ酒楽が後宮へ来ようと思ったか。その問いをずっと、はぐらかされ続けてきた。「実家を出たかったから」という答え以外に、含みがあるのが気にかかっていた。考え、導き出された答えはひとつ。 (私が会ったあの商人が、先帝・鳳梨帝だったのだ)  後宮へ入ってからも、酒楽はかたくなに先帝と伍仁を会わせようとしなかった。伍仁は先帝の顔もまともに見たことがない。酒楽が見せてくれなかったのだ。けれど、考えてみれば辻褄が合う。  権力者にとり、付喪神という存在は貴重だ。情報収集、隠密、暗殺など、なんにでも使えて痕跡は残らない。最近は酒楽や、その曽祖父・撫葉(むよう)といった無害な人間のそばにいたから、忘れていた。伍仁は元来、権力者にそういった目的で使役されることが多かった。高価な翡翠飾りは政治家や富豪の手に渡るものだ。彼らは伍仁を見つけると、きまって汚れ仕事を頼んでくる。もちろん、嫌だと思えば断るなり、(あるじ)替えをするなりしてきたわけだが。 (先帝は、おそらく私を求めたのだろう)  酒楽はそれを断ったのではないか。そこにどういうやり取りがあったのかはわからない。ただあの冷たく暗い座敷牢の中で、日に日に生気を奪われていくばかりだった酒楽が、ある日決然と「後宮へ行く」と告げたときのことは憶えている。  ――あんずるな。ずっといっしょだ。  お前を手放すことはないと、舌足らずにそう告げてきた凛とした横顔。 (私を守ろうとしてくれたのだ)  だから先帝が崩御するまでの五年間、酒楽は「飽いた飽いた」と繰り返し、それでもずっと後宮に留まっていたのだろう。出ようと思えばすぐに出られたはずなのに、文句を言いつつも、先帝の意に従い続けた。すべて自分のためだと考えるのは、うぬぼれに過ぎるだろうか。さほど間違いではないはずだ。そう直感が告げている。 (今日、この後宮を出る)  酒楽はけして自分を置いてけぼりにしない。できないのだ。それくらい必要とされているという自負が、伍仁にはある。早く彼の元へ戻らなければ。やきもきしているだろう少年を落ちつかせ、ともに後宮を出るためにも。  酒楽の宮へ戻ってくると、建物の前に柘榴帝の輿(こし)がとまっていた。なにかあったのか。宮の入り口ではなく横へ回り込み、そっと窓から覗きみる。寝台の上で、酒楽が柘榴帝に口づけられていた。あどけない少年は帝の膝に抱えられ、されるがままになっている。着乱れた衣、響く水音、顔が離れた瞬間、その蕩けきった瞳が見え、愕然とする。獣のように目をぎらつかせた帝が言うのが聞こえた。 「今日から君は、私のものだ」  首筋を舐められた酒楽はあえかに鳴いた。真っ赤に染まり切った頬に、悦楽の涙が転がる。とっさに目をそらしていた。衝撃が大きすぎる――逸らした視線の先に、自分の耳飾りが置かれているのが見えた。よろりと数歩後退し、窓から離れる。 (どうして――)  呻きは声にならない。そのまま急いで来た道を戻り、早足で歩く。どこへ行くのかもわからないが、今見たことから遠ざかりたかった。一刻もはやく。自分にはないと思っていた心臓が、嫌な風に波打っている。目の前が暗くなり、足元がおぼつかない。  何に衝撃を受けたのか、伍仁にはよくわからない。行方の知れない自分を酒楽が探さず、忘れたように放置していたことか。あるいは、常にその身から離さなかった耳飾りを、帝の前でああも無造作に外し置いたことか。それとも、柘榴帝を受け入れた酒楽の心や想いに、自分は嫉妬したのか――? (嫉心? 馬鹿な)  酒楽にいつか想い人ができたら喜び見守ろうと、伍仁はそうずっと考えてきた。つくも神と人の寿命は違う。いずれ彼に連れ添いができれば、それは喜ばしいことだ。現に、元(あるじ)の撫葉が結婚したときには、心から喜び祝福した。我が子の巣立ちを見るように、すこしの寂しさをおぼえたが、今日のような衝撃は受けなかった。 (我が子。そうだ――)  酒楽の曾祖父、撫葉は、自分にとって実子のような存在だった。かけがえのない守るべきもの。常に見守り、いずれ巣立つものと予想し、立派に育つのを喜ばしく見た。では酒楽はどうか、そうではなかったのか。撫葉とは何が違う?  天河の橋を渡り終え、女宮に着いたところで立ち止まる。酒楽の上にわが物顔で屈みこんでいた、柘榴帝の姿が思い出される。あれがもし自分だったなら――そんなことを、これまで考えてみたこともない。  抱けと言われれば、できるだろう。酒楽が望むなら、なんでも差し出す用意がある。それくらいの情はすでに持っていた。ただそれは、奪いたいとか無理にとか、そういう類ではない。恋情ではないと、伍仁には断言できた。恋はときに相手を破壊したいという凶暴な欲になるが、酒楽に対してそんなことを思ったことがない。むしろ酒楽が壊れれば、自分も死ぬ。  ただ甘やかし、幸せであってほしいのだ。  彼が傷つけばそれ以上に苦しいし、酒楽が死ねば自分の命も終わりだった。いつからこれほど傾倒するようになってしまったのだろう。会ってからたった十年、その刹那の月日のうちに。 (はじめて会ったとき、けして情を移すまいと考えていたのに)  いよいよ付喪神としての人生も終わりに近いのかもしれない。撫葉が死んだとき、あれだけの苦しみを味わったのだ。酒楽が消えれば、今度こそ耐えられない。  宮へ戻れなくなった伍仁は、暗くなりはじめた女宮の中をうろついていた。歩きながら、ぐるぐる考える。  問題は根深いところにあった。酒楽が真に柘榴帝を選んだのなら、どうすることもできないのだ。柘榴帝を殺せばまた元通りになるかもしれないが、酒楽が悲しむのだけは避けねばならない。もし、酒楽が帝を好きになったら――それは伍仁が、無価値になったことを意味しているのではないか。酒楽が他の人間を好きになればなるほど、伍仁は自らの存在を無意味に思う。  だから結局、嫉心なのだろう。けれど、どうしようもないではないか。ずっとそばにいられると考えていた、自らの想像不足だ。いや、そばにはいられるだろうが、後宮にとどまり、酒楽が帝に愛されるのをただ眺めていることなどできない。 (どうすればいい。どうすれば――)  こうなってもまだ酒楽のそばにいることを考えている。  彼に見捨てられるかもしれない。そんなこと、今まで考えたこともなかった。いっそ自分から離れられぬよう、恋でも肉欲でもなんでもいい、縛りつけておくべきだったのか。けれど、酒楽の意志を無視することはできない。それに今さら遅すぎる。捨てられる。必要とされなくなると考えてはぞっとし、夕暮れの後宮をひたすらさまよい歩く。  胴体に大穴が開いた気分だった。絶望に歪む道すがら、風にのり「酒楽が」という声が聞こえてきた。誰かが噂話をしている。角を曲がったところで黒官がふたり、小声で話しあっていた。 「いよいよ、廿野酒楽も」 「ああ、美蛾娘さまが大喜びされていた。もう終わりだ」  いったい何の話をしているのだろう。吸い寄せられるように近づいて行くと、黒官たちは怪談でも聞いたように身を震わせている。 「どんな拷問になるのか。哀れな」 「でも、なぜ急に? お気に入りの一人だったろう」 「美蛾娘さまが気に入っていたのは、廿野酒楽の完璧さだ。弱みが見つかった以上、あとは壊して捨てるだけさ」 「なんとも気の滅入る……だが、弱みとは?」 「知るか。さて、準備をしなければ」  廿野酒楽は近く処刑される、そうふたりの黒官は怖々話し合っていた。  
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