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有限と無限- 5
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愛撫を受け、快楽に溶ける酒楽の脳裏に、帝に告げられた言葉が大きく反響した。
「君は私のものだ。もうなにも、考えなくていい」
(いやだ)
それは廿野の家に閉じこめられていたとき、母親から繰り返し投げられていた言葉と同じだった。自分は人形ではない、感情がある。画を描きたいと思えば描くし、自由に行動する。思考を放棄することも、これ以上どこかに閉じこめられるのも御免だ。
(嫌だいやだいやだ!)
体の欲求とは反対の強烈な理性が、脳内で叫び続ける。帝に触れられることは嫌ではない。むしろ体は悦んでいる。薫香に支配されるのが、これほどまでに快楽を呼び起こすものだとは思わなかった。このままでは精神も支配されてしまう。身をよじり、寝台の淵にかけられていた自分の羽織をとっさに手に取った。先日、寝こけていた伍仁の背にかけてやった衣だ。
「あっ、ぅぁ――ッ!」
快楽が強まった瞬間、のけぞるように顔をその衣にうずめる。かすかに残る白檀の香り。伍仁の残り香だ。荒い息で、嗅ぎ慣れたその匂いに意識を集中する。ここに伍仁がいる、そう考えるのだ。
(大丈夫、大丈夫。今なら)
かすかに戻ってきた理性をかき集め、寝台にうつぶせたままで、自分の結った髪から玉かんざしを引き抜いた。鋭い鋼の切っ先を振り上げると、儚い抵抗だと思ったのか、帝は苦笑する。しかしその向きが、酒楽自身の瞳に向くのを見て顔色を変えた。
「止せっ――!」
「う、ごくな」
離れろと、唖然とする帝の下から這い出る。伍仁の残り香のある衣を必死にかき抱いた。その匂いをこれでもかと嗅ぐ。薫香をすこしでも締め出したかった。かんざしは己の左目へ向け、いつでも刺せるように構えている。帝は呆れたような顔をした。
「後宮で生きていくなら、私とともにあったほうがいい。何をそんなに抗う?」
「私は、……ここを、出て行く」
切れ切れになる思考をかき集め、帝を睨みつけ告げた。
「否とは、言わせない。あなたには、貸しがあった」
「貸し?」
ちがう、と酒楽は首を振る。こんな言葉ではなかったのに。薫香のせいでうまく頭が回らないのだ。
(思い出すんだ。帝が言っていた言葉を、そっくりそのまま)
「私たちに、何か礼をしてくれると。そう言ったな。欲しいものを、宴までに考えておくようにと」
柘榴帝は、唇をひき結び顔色を消した。その様子を見るに、どうやら憶えてはいるらしい。
「君は――、本当にここから出て行く気か?」
「そうだ」
「私が許さないと言ったら? 君を私のものに、今することもできる」
「それなら、ここで死ぬ。いますぐ」
左目にかんざしの切っ先を近づける。瞳のすぐそばまで。朝に伍仁がいつも通りていねいに髪を結ってくれた。そのとき、つけてくれた玉かんざしだった。まさかこんなことに使うなんて、思ってもみなかった。
「なら死ぬといい」柘榴帝は冷たく笑っていた。
「ただ君が死ねば、伍仁はどうなる。ひとり残されて悲しむだろうに」
伍仁。もし自分がここで死んだらどんな反応をするだろう。そう考え、笑いがもれてしまう。
「きっと、怒るだろうな。でも私の意図を察してくれるはず。そしていずれ、あなたを殺しに向かうだろう」
怒り狂う伍仁の形相はたやすく想像できた。帝がそんな伍仁と対するところを想像すると、今死ぬのも悪くない気がしてくる。しばらくの睨み合いのあと、柘榴帝は目をそらした。
「わかった、もうわかったから。君の意志を尊重しよう。私もついカッとなって……すまなかった」
言いながら、帝は何かに気づいたように立ち上がる。部屋の隅に、小さくまとめた手荷物があった。本当なら今日、伍仁がそれを運んでくる予定だった。宴の最中でもその後でも、後宮を出て行けると確実に分かった時点で、余裕があればもってくるように頼むつもりだったのだ。帝はそれを見て鼻を鳴らした。
「荷はこれだけか。変わり者だね、君たちは。ここを出てどうするつもりだ」
まるでここにいるほうが安泰だという言いように、負けん気が触発された。
「あなたのお人形になる気はない。あなたが私に、誰を重ね見ているのかは知らないが、その者の元へ行かれては。それとも、行けない事情でもおありか」
「廿野酒楽」
ぴしゃりと帝は言葉を阻んだ。凍りつく空気に、柘榴帝は静かに振り返る。おそらく帝の一番触れられたくない箇所を踏み抜いた。無表情の目に、澄んだ水色の怒りがきらめいている。
「望み通り君は死刑だ。いま決めた」
そう言って、袖内から黒瑪瑙の平たい飾りを出すと、まとめた手荷物の上に無造作に投げ落とした。天帝の御印証だ。あれがあれば、後宮のどこへでも行ける。後宮の外へ出るのにも許可はいらない。御印証を持つものは、こと移動に関し、天帝と等しい権限を与えられたとみなされる。
「刑は明日の朝に行わせる。それまで君がどこで何をしようが、私の関知するところではない」
有無をいわせず言い切ると、柘榴帝は背を向け去ってしまった。別れの言葉もない。酒楽という存在を切り捨てたように、一度も振り返らなかった。
陽はすでに暮れかけていた。それなのに、伍仁は一向に宮に戻ってこない。
(あいつ、どこに行ったんだ!)
小さな桐箱に翡翠飾りを入れ、それと天帝の御印証だけを袖内に隠し、酒楽は後宮をひた走る。探しても探しても見つからない付喪神の姿に不安がつのる。ひびの入ってしまった翡翠飾りも気がかりだった。魔醜座は、「伍仁は後宮にいる」と言ったが、本当に無事なのか。もし伍仁がいなくなってしまったら――、そう考えると身の底に震えが走る。昼間あれだけ暖かかった空気は日暮れとともに冷え切り、顔に凍てつく風を吹きつける。結っていた髪が崩れるのも構わず、天河のあたりまで駆けていった。すると、突如目の前に複数の黒官が立ち塞がった。
「廿野酒楽さま。ご同行願えますか」
「私は……」
黒官の言葉は疑問形だったが、拒否権はなさそうだ。罪人さながらに槍の穂先をちらつかされ、苛ついた。こんなところで足踏みしている場合じゃないのに。
「いったい何の用向きだ? くだらん要件だったら、ただじゃ済まさんぞ」
「美蛾娘さまが宮でお待ちです」
「美蛾娘が?」
いったいどういう用件で。考える間もなく、黒官が酒楽の両腕をつかみ上げていた。まさか、後宮から逃げる算段がばれたのだろうか。けれど、黒官たちは思いもよらぬことを口にした。
「廿野酒楽さま。貴方に、遊舎貴人殺害の容疑がかけられています。その証拠品とともに、貴方を宮までお連れせよとのご用命です」
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