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有限と無限- 7
酒楽はその瞬間、膝から崩れ落ちていた。目の前で四つの欠片に踏み砕かれた、翡翠飾り。美蛾娘が足を上げると、無惨に変わりはてたそれがよく見える。石床に細かな欠片が飛び散り、修復不可能なほどに割れている。
「う、にん……」
そこにあるのが現実か確かめようと、酒楽は無意識に割れた飾りのほうへ行こうとした。黒官たちに床へ押さえつけられても、構わず前進しようとする。酒楽は茫然としていた。酒楽には、目の前の現実が受け入れられない。
(どうして、こんなことに――)
美蛾娘に翡翠飾りを譲ると告げたのは、賭けだった。最高級品しか好まない彼女が、大玉とはいえ翡翠の、しかもひびが入った飾りを欲しがるわけがない。そう思ったのだ。もし「欲しい」と言われたら、それは嫌がらせにすぎない。自分が「不必要である」と態度に出せば、きっと興味を失くす。それは勝算のある考えのはずだったのに――。
「よい、放してやれ」
美蛾娘のひと声で、押さえつけていた黒官たちが退く。よろよろと腕をつき、立ち上がることもできずに、酒楽はそのまま四つ這いで翡翠飾りの元へ向かった。丸玉に斜めに走っていたひび。そこから四つに割れた翡翠飾りは、どう見ても修復不可能だ。宝石は、一度割れてしまえば貼り合わすしか直す方法がない。新たな台座につけるか、糊で貼るか――それにしたって、元のひとつの大玉ではない。壊れてしまえばもう二度と元には戻らないのだ。ましてや、千年近くもそこに宿り続けていた付喪神は――。震える指で割れた欠片を繋ぎ合わせようとするが、無意味なことだとわかっていた。
(これが割れたら、伍仁はどうなる?)
たった半日、伍仁の姿がそばに無かった。忽然と挨拶もなく消えてしまった。まるで前から存在しなかったかのように。
それが永遠と続くのか。
これまで積み上げてきた時間や会話、過ごしてきた日々のすべてを知っているのは、世界でただひとり、自分だけになってしまうのか。
(伍仁がいなければ――)
いきなり暗闇に放り出された気分だ。過去も未来も何もない、冷え切った暗がりに、己ひとりとり残されている。勝手に零れ落ちた涙が、割れた翡翠飾りの上に散っていく。この涙で元通りになればいいのに。おとぎ話のように、そんな奇跡を望んでも無駄だった。割れた翡翠をどうすることもできない。震える指がむなしく、細かな欠片を合わせようとする。
「あぁっ、よいぞ廿野酒楽! さぞやこの翡翠が大切だったのであろう。ほほほ、愉快じゃ!」
美蛾娘は酒楽を押しのけ、翡翠飾りをさらに踵で踏みつぶした。
一、二、三度。
粉々になっていく飾りを守ろうとしたが、黒官たちに押さえつけられてしまう。それでも手を伸ばそうとして、美蛾娘のひと言に寸の間、息を止められた。
「無駄じゃ。一度壊れたものは、二度と元には戻らぬ」
頭のなかで言葉を反芻する。
二度と元には戻らない。その通りだ。
美蛾娘が壊してしまったのだから。伍仁の翡翠飾りを永遠に。目の奥から頭のてっぺんに向け、カッと怒りの炎が駆けた。後からあとから涙がこぼれ落ちていった。怒りのせいで涙が止まらない――いや、もう怒りじゃない。脳が麻痺してしまっている。指先から脳天まで、灼熱の火炎に灼きつくされたようだ。体の感覚を感じなかった。意識だけが反響し、キンと甲高い音で大きくなっていく。
(どうして、こんなことを)
人は極度の怒りを通り越すと、哀しみや虚しさにいきつくらしい。実感として今日、それを知った。
(なんのために)
己を傷つけるために、こんなことができるのか。理解できないのだ。どうしてこれほど惨いことを人にできるのか。思考が理解できない。どうして。どうして、この女は――……。
なにもかもが虚しかった。
哀しくてあわれで、惨めだった。
自分を含めて世界のすべてがだ。
現実は理不尽と悪意に満ちている。そんなことはわかっていたはずなのに、忘れていた。伍仁のおかげで、今日まで忘れていられた。あまりに普通に、日常を過ごせていたから。いまさらにそれを思い知る。
ありもしない、助けてもくれない神さまや、奇跡といった幻の存在のことを思い出した。みなが崇め奉る、その素晴らしい概念のことを。
──憎らしい。
そういった奇跡に縋れると、どうやら心の奥深くで無意識に信じていたらしい。自分が許せなかった。己の精神の、なんと純真で浅はかなことか。
「その者を地下牢に入れておけ。廿野酒楽。おぬしの処刑方法を、今宵ひと晩考えることにしよう」
愉しみに弾む声も、ぼんやりとしか認識できなかった。黒官たちに無理やりに立たされ、美蛾娘の宮の地下牢へ投げこまれる。かび臭い石床は汚水に濡れ、鼠が数匹走っている。すえた匂いが鼻をつくが、もうどうでもいいことだ。つめたい石床に頬をつけ、自分の指先に触れた翡翠の感触を思い出す。それが本当に現実だったのか、確かめなければ。体中が痺れて力が入らない。まるで毒矢を打たれたみたいに。
(硬い感触……たしかに、割れていた)
なによりこの目で見たではないか。翡翠が壊されるところを。受け入れがたい現実を、即座に受け入れることなんてできない。知性と理性があればあるほど、非道にすぎる現実の奥行きが分かってしまう。
どうしてあのとき、翡翠飾りを守れなかったのだろう。
自分がもっとうまく振る舞えていれば。
あの場に翡翠飾りを持っていかなければ、少なくとも伍仁は助かったのに。
とめどない涙で視界が曇りゆき苦しい。このまま窒息すればいい。頭が現実をすこしずつ理解しはじめると、痺れた体に残る望みは死だけだった。
世界で本当にひとりきりになった。
酒楽にとっての生きる意味とは、伍仁にあった。想像の中の未来には、つくも神の穏やかな笑みが不可欠だった。
(撫葉が死んだとき、――)
自分の曾祖父が死んだとき、伍仁もこんな気持ちだったのか。何十、何百という人の死を見守り続けた付喪神は、だとすれば相当に強靭な精神の持ち主だ。
(無理だ。私には……)
人ひとり、見送ることができない。
受け入れられない。
こんな現実なんて。
それなら。
それなら、もう。
ここに生きる意味なんて――……。
どれくらいぼんやりしていただろう。かすかな物音がし、牢の扉が開かれる。足音が床越しに反響した。うるさい。耳に響く。もう放っておいてほしいのに。涙を流し続けていれば、このまま干からび死ねるかもしれない。ゆっくりと冷たくなって、石床と同化するように――。
緑色の裾衣がすぐ目の前で揺れ、止まる。見慣れた色合い。茫然と顔を上げると、そこに困惑した顔の伍仁が立っていた。
「な、んで……」
泣きすぎたせいで乾き、裏返った声に伍仁の眉が下がる。照れたような、泣き出しそうな表情を浮かべている。
「黙っていて、申し訳ありませんでした――これを」
屈みこんだ伍仁は、大玉の翡翠飾りをそっと差し出した。小さな桐箱に、ていねいに収められている。割れていない、ひびすら入っていない完璧な玉だ。ただ一緒にあったはずの、紫の房飾りは外されている。まぎれもない、酒楽がいつも身につけていた翡翠飾りの本体だった。
「昨日、酒楽さまがお休みになられている間に、本体だけをすり替えておいたのです」
不安だったのだと、伍仁は泣きだしそうな表情で眉を下げる。
「本来、この翡翠飾りは対でした。飾りは両耳用につくられていたのです。ひとつは、常に私が持っていました」
けれど伍仁の魂は、片方だけに大きく偏り宿っていた。酒楽が手にしていたのは、伍仁の魂が大きく宿る本体のほうだ。それを昨晩、眠っている間にすり替えたという。見た目は同じ翡翠の大玉だし、紫の房飾りをつけておけばわからないだろうと。なにより、酒楽自身にあまり鏡を見る習慣がない。翡翠飾りをつけるのも外すのも伍仁の役目だから、まずわからないはず。そう思ったと、付喪神は泣き出しそうに言う。
「私は、……酒楽さまの弱みになりたくなかった。だから万が一、飾りを失くすようなことがあっても、もう片方なら大丈夫だろうと。そう黙って、保険をかけて、――けれど、うぐっ」
その胸元に飛びこむと、勢いあまった伍仁は尻もちをつく。暖かい身体の感触をたしかめ、息を吸う。本当にかすかに白檀の香りがした。泣きすぎて鼻がうまくきかなくなっていた。
「うにん、っ、にん! うぅぅぅ、馬鹿もの!」
「……申し訳、ありませんでした」
大丈夫なのだろうか、本当に。
そう聞きたいのに言葉が出ない。涙に押し流され、胸がしゃくりあげている。ぎゅうと回した手が、暖かな絹の触感をたしかめた。指先から全身を痺れさせていた、割れた翡翠飾りの感触が徐々に消えていく。
「酒楽さま。本当に大丈夫ですから、もう泣かないでください」
「そ、……お前の、せい、だぞ」
急に涙を止めることなんてできない。ここまで泣いたのも久しぶりだ。しゃくりあげていると、伍仁が弱りはてた顔になる。そっと袖で涙をぬぐわれた。
「これからどうすればいいのでしょう。この牢からはとりあえず、出られるでしょうが」
視線の先で、見張りの黒官がふたり倒れて死んでいた。ここへ来る際、伍仁が殺してしまったらしい――牢の扉は開いている。
「荷物は……?」
「ここに」
用意のよい付喪神は宮から荷をとってきていた。荷といっても酒楽ですら運べるほどの分量しかない。伍仁に支えられ、ようやく立ち上がることができた。泣きすぎて痛む頭を押さえ、息を吸いこめば饐えた匂いが鼻につく。こんな汚らわしい場所にはもう、一刻も留まっていたくない。
「行こう。早くここから離れなければ」
「待ってください、坊ちゃま。上には兵の詰め所があって、そちらへは」
「上じゃない」
廊下へ出ると、下へ降りる階段がさらに延々と伸びていた。
「魔醜座の地図には、この宮の下にも地下通路があると書かれていた。まさか、ここから脱するとは夢にも思わなかったが」
暗い地下へ降りていくと、すぐ後ろに荷を持った伍仁がついてくる。暗すぎて前が見えなかったので、一度伍仁に手燭の火を上からもってこさせた。酒楽は闇を小さな炎で払い、すこしずつ進んでいった。小さな炎は手の届く範囲しか照らさない。足元は水浸しで嫌な匂いがした。こうもりや鼠の気配が時々して、かなりびっくりさせられた。
「伍仁、手を」
震えそうになる指を、付喪神がしっかりとつかんでくれる。
「私が持ちます」
手燭の火を伍仁がとり、辺りを照らしてくれた。右側を並び歩くその姿を、すっかり腫れてしまった目で眺める。闇の中に浮かび上がる伍仁の表情は緊張し、強張っている。
(生きていた……本当に、無事だった)
救われたという実感がすこしずつ、胸を暖めていった。伍仁がいれば、もう何も怖いものなどない。この付喪神だけが、今や自分の生きる大部分の意味だ。酒楽の足取りはしだいにしっかりと、堂々としたものにまた戻っていった。
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