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有限と無限- 8
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手燭の火をもち、伍仁はゆっくりと酒楽に歩調をあわせた。頭の中では、まだどうすべきかと考えていた。
(聞きたくない。だが聞くなら、今しかない)
前方に白く光る出口が見えてきた。伍仁は意を決し、口を開いた。
「本当に、よいのですか?」
「なにがだ……?」
ぼんやりと少年は腫れた目を瞬かせる。その顔に後宮を脱することへの後悔や悲しみは見受けられない。そのように見える。そう願いたいだけかもしれない。伍仁はついと視線を伏せた。
「柘榴帝のことです。宮に一度戻ったとき、酒楽さまがその……柘榴帝のことを、お好きになられたのでは、ないのですか?」
「見ていたのか」
その言葉に胸がきしんだ。あれが嘘であればいいと、どこかで願ってもいたらしい。
「もし、……酒楽さまが後宮に留まりたいなら。柘榴帝が助けてくださるのではないでしょうか。なにも逃げなくても、帝の力をもってすれば、今回の件にしたって」
このまま酒楽が「引き返す」と言ったら、伍仁はついていくだろう。彼の地位が安定するまでその側にいて、それから――酒楽が安泰になったと分かったら、そのときには。
(どうすればいいのか分からない。けれど私は、まだ酒楽さまにとって、それなりの価値があるようだから)
あれだけの涙を流してくれたのだ。つくも神が消えたと思い、悲しんでくれた。その想いがあるうちは、側に仕えてもいいのかもしれない。すこしずつその情が、柘榴帝へ流れていくとしたら、それを見続けるのは耐え難い苦痛ではあるが。離されると思っていた手を、酒楽は強く握りしめた。
「後宮へ留まるつもりはない。もう出て行くと決めたんだ。……それにお前、あのとき見ていたなら、どうして来てくれなかった。私のことはどうでもよかったのか?」
「っ、そんなわけないじゃないですか! 私は酒楽さまのことをこれほど、思っているのに。それに、止めに入れるわけないですよ。あんな──」
「ふん、どうだか。お前は、私がどうなってもいいと考えていたんだろう」
むすりとそっぽを向く酒楽に、信じられないと伍仁は言葉をもらしていた。深く考えることもなく。
「な、なんてこと仰るんですか! 私がどれだけあいつを殺してやりたかったか! 酒楽さまの一番は私のはずなのに。誰かがあなたを抱くというなら、それは私で――ぁ」
びっくりと丸くなる酒楽の瞳に、伍仁は口を閉じる。気まずい沈黙が落ちた。握りしめる酒楽と自分の手に、汗が滲んでくる。どちらのものかはわからない。
「お前、宮に戻って、どこまで見てた?」
目を眇めた少年に問われ、責められた気分になった。伍仁は目をふせ、すべてを告白した。柘榴帝と睦みあう酒楽の姿を見て、すぐに逃げてしまったこと。自分の翡翠飾りが外されているのを見つけ、悲しかったことも。
「もう必要とされていないと思って。それで私は……」
しばらく黙りこんでいた酒楽は、本当に何気ない調子で聞いてきた。
「お前、私を抱きたいか?」
「え」
「どうなんだ」
じっと見上げてくる瞳は、澄みきり大きい。ごまかしても無駄だ。仄明かりに照らされた、白くまろい頬に視線を落とした。何度も触れたことがある、ふっくらとした柔らかさを伍仁は知っている。そこに柘榴帝は触れたのだ。伍仁以外の者の手が、その頬に。頬だけではない。うすく色づく唇や、白く並びの良い歯、愛らしく細い首筋、それから、いつも憎らしいほど雄弁な、その小さな舌にも。あの舌は、甘いのだろうか。ごくりと、喉がなる。はじめて、欲を持ち触れてみたいと思った。他の人間が触れていいなら、伍仁にだって許されるべきだ。酒楽のことを一番に想い、考えているのは伍仁なのだから。
伍仁の両手は塞がっていた。手燭の明かりと、酒楽と繋いでいる左手。しかたなく見下ろせば、少年の輪郭がかすかな炎に照らされている。細部までが目に飛びこんでくる。
長い睫の影、愛らしい鼻梁。
少年にしてはふっくらとした口もとに思わず目がいく。そこから目が離せなくなる。じっとりと、つい見つめてしまった。視線を感じたのだろう、酒楽が笑った。吐息だけで小馬鹿にするように、「ほら無理だろう?」と、あさっての方を見ながら、検討違いなことを述べている。とうに分かりきっていたと、笑みを浮かべるのが憎らしく、伍仁は本心から言葉をぶつけていた。
「よいのですか?」
「は……」
「望めば、ゆるして下さるのですか?」
その瞬間こそ、酒楽は固まった。伍仁の目の色に、幼い顔はみるみる赤くなる。伍仁はその反応に驚いていた。酒楽は、そうしたことにまったく関心がないと思っていた。後宮で、えぐみある春画を平気で描いていたくらいだ。柘榴帝の薫香に惑わされていたときならともかく、たったひと言でそれほど反応が得られるとは──。
「ば、馬鹿が。聞いただけだ」
「……柘榴帝には、許していたではありませんか」
「あ、あれは、無理やり……だ、だいたい、お前はつくも神だろう」
「つくも神にも、人と同じ欲はあります」
「は、お前、なにを言って」
「嫌ですか? やはり、私では」
「そ、そうじゃなくて、私の意志を確認してから……じゃない! お前は、その……」
酒楽は、「あー」とか「うー」とか言って、ついに黙りこんでしまった。いつもは雄弁な口は閉ざされ、赤くなった顔で目をそらしている。伍仁は静かに笑っていた。己の感情にはっきりとした名を見つけ出すことは、難しい。恋というには大きすぎるし、愛と言い切るには苛烈だった。歪んでいて、なにか醜いものだ。酒楽の一番でありたい。そのために、理由や快楽が必要だというなら、いくらでも与えてやれる。欲するのは、酒楽という人間を独占する権利だった。髪の一本からつま先まで、心の隅々にまで伍仁の存在が刻まれていれば、それでいい。
白く光る出口の前に近づいたとき、ふたりの黒官が立ち塞がっているのが見えた。伍仁はとっさに、酒楽をかばい前へ出ようとした。
「酒楽さま、ここは私が──」
「大丈夫だ」
酒楽が静かに呟き、袖内から黒瑪瑙の飾りを取り出してみせた。伍仁が見たこともない代物だった。そのまま出口へ歩いていった酒楽は、それを黒官たちへ見せる。黒官たちは驚きの表情で頭を垂れ、道を譲ってくれた。
「どうしたんです? それ」
「もらったんだ」
「……」
ついじと目を送ってしまう。誰にとは聞かなくてもわかる。そんなものを贈れるのは、柘榴帝しかいない。
「な、なんだその目は。ほら、伍仁。外だぞ!」
暗闇を抜けた先は、真夜中なのに明るい城下街だった。賑やかな街は寝静まることなく、繁華な赤ちょうちんや屋台、出店の列がずらりと並び、人でごった返している。春の夜、城下の人々は夜通し飲み騒ぐことが多い。浮かれた空気と、久しぶりに嗅ぐ外の雑多な匂いに、酒楽はすぅと息を吸った。
「さあ、どこへ行くにも自由だ。まずはあの屋台から回ろう!」
「いや駄目ですよ。早く遠くへ逃げないと」
まずは着物を代えさせて、いや一刻もはやくこの街を去らなければ。嬉々とはしゃぐ酒楽は滅多に見られるものではなく、伍仁の表情もつい緩んでしまう。艶やかな満月はまだ天高く、陽が登る気配は遠い。赤提灯とごった返す人影のなかに、飛ぶような足取りの酒楽と伍仁の姿は、あっという間に紛れていった。
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