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◆エピローグ◆
うす青にかすむ山の稜線と、水色の澄みきった空。
小高い丘からは、遠くの美しい景観と眼下の街並みがよく見わたせる。茶色につらなる家々の屋根に、通りを歩く町人の姿。その中に、黒服の一行が現れるのを目にし、伍仁は双眼鏡から目を離した。見晴らしのよい丘の上で立ち上がり、隣を見る。さらに一段高い位置に灰色の巨石があり、平たい石の上で酒楽が、遠くの山並みの画を描いていた。
「酒楽さま、来ました」
「ん……」
「酒楽さま!」
「うるさいなあ、もう!」
伍仁が巨石の上によじ登ると、少年は画材を片づけていた。どうやら画は完成間近だったようだ。すこし日焼けした顔は、名残惜しそうに歪んでいる。
「さっさとしてください。捕吏が来てしまいます!」
「まだ距離があるんだろ? 落ちつけ。お前の声で居場所がばれそうだ」
伍仁はげんなりと口をつぐむ。
後宮を脱しすぐに気づいたことだが、伍仁の姿は誰にでも見えるようになってしまった。対だった翡翠の耳飾りの片方が壊れたせいだろう。そう酒楽は言っていた。
(一見無傷に見える私の体も、相応の瑕疵を負ったということか)
伍仁の魂が多く宿っている翡翠飾りは、無傷のままだ。今も、酒楽の耳元で揺れている。酒楽が言うには、おそらくそちらが意識や五感などを司り、もう一方の壊されてしまったほうが、目には見えない部分を――つまり、つくも神としての本質的な部分を担っていたのではないか、ということらしい。誰にでも姿が見えるようになったということは、付喪神としての性質が揺らいでいるということだ。そう説明した酒楽があまりにも心配そうだったので、伍仁は、人に見えるなら好都合ではないかと言葉を濁した。けれどその実、それがどういうことなのかは正確に理解していた。
(ただ人に近くなっている。寿命が短くなったのだ)
これまでは多少の怪我ならすぐに癒え、飲まず食わずでも問題なかったが、今はもう違う。人間と同じように疲れるようになったし、体の傷も癒えなくなった。酒楽に比べればまだ身軽だが、それもいつまでもつかわからない。けれど、構わなかった。寿命が八十年ほどあればいい。酒楽が死ぬのを見届けるくらいの余命は残されているはずで、それで十分だった。
「ほら、坊ちゃま急いで。捕吏が来ます!」
「慌てるな。旅行商にしか見えないだろうさ。まだ距離もある」
「坊ちゃまの歩みは遅いんですよ。よく転ぶでしょう?」
「坊ちゃまはやめろ。それに失礼な。人にはできることとできないことがある。まったく、私は今や万両を稼ぐ大家だぞ」
失礼な、と酒楽はもう一度繰り返した。岩場から危なっかしく降り立ち、生意気な顔でため息をついている。
酒楽の画はよく売れた。描く片端から高値が付くのは、後宮にいた天才画聖・廿野酒楽の名が、すでに国中に知れわたっていたからだ。それを熟知していた酒楽は、自らの画に必ず署名を残し、売りさばいた。おかげで顎が外れるほどの値で画は売れ、路銀には困らないが、すぐに捕吏が駆けつけてきて、こうして逃げまわるはめになる。署名のせいでどれだけ隠れていても、居場所が人づてにばれてしまうのだ。
(幸いなことに、世間での酒楽さまの人気は高い)
後宮を逃げ出した天才画聖――その噂がひとり歩きし、老獪な老人だとか美少女であるとか、様々に噂されている。物好きな商人たちが、画と交換に自分たちを匿ってくれることもある。行く先々で援助してくれた人々は、「後宮の天才画聖」がまだ年若い少年であることにもれなく驚いた。そのたびに伍仁は、「後宮から逃げた理由はお前か、彼と駆け落ちしたのか」と、微妙な視線を投げられ、複雑な思いを味わった。向けられる問いを一笑にふすべきか、頷けばいいのか。いまだに対処の仕方を決めかねている。
「急いでくださいよ。園楊の街はまだ遠い。川を渡らないといけませんから」
「わかってる、わかったから――っ、そう急かすな!」
荷を奪い、その手を掴み引くと、酒楽は怒っているのか照れているのかわからない顔をする。最近の酒楽は、怒りっぽくなった。こうして手を繋いだり、触れようとすると怒るので、時々は離れようとするのだが、離れてもまた怒られてしまう。よくわからない。
きっと決めかね、持て余している。
これまでに築いてきた関係が、すこしずつ形を変えつつあることに、酒楽も伍仁もまだすこし戸惑っている。変化はいつも微々たる恐怖と、尻込みをもたらすものだ。
繋いだ手を握りしめると、困惑と照れを半々にした酒楽の顔が、さらに怒りを形づくろうとする。百面相で実におもしろい。そう伝えればまた怒られるだろうから、伍仁は必死に無表情を装った。握り返してきた酒楽の指は、細くて頼りない。伍仁は冬がくるまでに厚手の手袋を探しておこうと決意する。この指を、自分が守らなければならない。
次に訪れる街は、広大な大河に挟まれた土地だった。季節は初夏、生命力にあふれた木々の青葉を仰ぎ見れば、次の街が休むのにちょうどいい場所なのだとよくわかる。水際の園楊の街は避暑地としても有名だから、きっと目にも涼しく、心地よいだろう。
きらきらした陽ざしが、遮るものなく進む先を照らしている。ともに駆けてゆく少年の瞳には混じりけのない、未来への期待があった。
喜びと好奇心、自信と満足だ。
酒楽の笑顔は生命力に満ちている。
そのことが、伍仁をこの上なく満たし、力づけてくれた。
行楽にでも行くような足取りで、伍仁は捕吏の手を逃れるために、酒楽の手を引いた。夏の日差しの向こうの、うつくしい河岸の街と、輝かしい明日を思い描いた。制限のない希望が、眼前にどこまでも広がっていた。
――End.
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