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春画- 3
「めずらしい取りあわせよのぅ。遊舎貴人と廿野酒楽。なんじゃ、画を描かせておったのか?」
酒楽は頭を垂れ、床の一点を見て黙っていた。遊舎貴人のほうがおびえ恐縮している。
「は、はい。美蛾娘さま、ご機嫌うるわしゅう」
「よい、楽にせよ。近くを通りがかっただけじゃ。すぐ帰る」
かすかに安堵の息をもらした遊舎貴人の横を通り過ぎ、美蛾娘は酒楽の手元をのぞきこんだ。
「何を描いておる、美人画? 見事なものじゃ」
「おそれいります」
「廿野酒楽よ、妾のことも描いてはくれぬか。以前は日が悪いと断られてしもうたが、今日は時があるのであろう?」
酒楽は床を見たまま逡巡し答えた。
「おそれながら、今日は遊舎貴人さまとのお約束で手一杯でございます。美蛾娘さまとはまた、日を改めさせていただければと」
この答えに遊舎貴人と伍仁はぎょっとしたが、美蛾娘は意外にも寛大だった。
「あいかわらず面白いやつ。よい、妾はおぬしが気に入っておる」
美蛾娘は右手の障子戸を開け、船べりに優雅に腰かけた。揺らぐ黒い水面に月が浮かんでみえる。おだやかな風がさらさらと、やさしく川沿いの柳葉を揺らしていた。
「よい夜じゃ。遊舎貴人、あれが見えるか?」
「は、はい?」
「あれじゃ。ほら川べりの」
機嫌のよい美蛾娘は外の景色を指さしていた。真っ暗な川岸、遠くに見える橋の近くだ。
「どちらでございましょう?」
美蛾娘は、おずおずと近寄ってきた遊舎貴人の衣をむんずと掴み、川へつき落とした。
「っ!?」
派手な水音に酒楽が顔を上げる。遊舎貴人は溺れていた。川の流れはゆるやかだが、衣がまとわりつきうまく動けないのだ。船のそばに控えていた侍女たちが慌てて助けようとしたのを、美蛾娘が止めた。
「ほほほ、うつくしい舞であることよ。見よ、廿野酒楽。今こそ遊舎貴人の描きおさめであるぞ」
水がはげしく波打ち、遊舎貴人のまとう紅金の衣が黒い水面に金魚のように広がった。
「た、たす……けっ……!」
水音の合間にかすかな悲鳴がきこえる。白く伸ばされた手が空を掻くのを、川べりの黒官たちはただ眺めている。川へ助けに行こうとしたおつきの侍女たちは、黒官たちに取り押さえられていた。
「いけません酒楽さま!」
伍仁はとっさに叫んでいた。茫然と酒楽は腰を浮かしかけた。静止も聞こえたかどうか、川を見てほぼ無意識に動こうとしたようだった。
「でもはやく、助けに――」
「ほほほ、なにを馬鹿な」
美蛾娘は酒楽の横にするりと近寄った。蛇のようにしなだれかかり酒楽の動きを止めている。
「よく見よ。遊舎貴人のいちばんうつくしい姿を用意してやったのだぞ。美人画を描くのであろう? だから手伝ってやったのじゃ。やはり美人画というからには、一番うつくしい頃合いを描かねばなあ。ほれどうじゃ、うつくしかろう? くく、溺れておる! あんなにもがいてさぞ苦しかろう。ほれ、何をしておる。ちゃんと見やぬか。はやく描かんと沈んでしまうぞ」
美蛾娘は酒楽に目をそらすことも許さない。棒立ちになった酒楽の顔をやさしく固定し、溺れている遊舎貴人へと視線を縫いとめた。
「あ、……」
酒楽は白い顔で遊舎貴人が溺れるのを眺めていた。頬は強張っているが、ぎりぎりで理性を保っている。目に浮かぶのは知性の光で、恐怖や動揺には染まりきっていない。すぐそばで笑む美蛾娘は、酒楽が恐怖にのまれる瞬間を見たいようだった。伍仁は以前、美蛾娘に会ったときのことを思い出した。そのときに酒楽が言った言葉も。
「酒楽さま」
その視界を遮るよう船べりに立つ。遊舎貴人の姿はこれで見えなくなっただろう。酒楽と目があった。すがるような色をしている。恐怖に崩れる一歩手前だ。
「お気をたしかに。その女は、あなたが怖がったり驚いたりするのを見たいだけです。弱みを見せてはなりません。以前そうあなたが仰ったのではないですか」
美蛾娘は残酷な女だ。人の苦しみが最上の悦びである彼女にとり、酒楽は得がたい玩具なのだと、前に彼自身がそう言っていた。
(酒楽さまはいつも冷静で、常人よりは理性の幅が大きい。美蛾娘はその強固な理性をなんとかして恐怖で崩してみたいのだ)
悪鬼とおそれられる美蛾娘が酒楽にだけ甘いのもそのせいだった。普通なら「美人画を描け」という頼みを断った時点で、酒楽は殺されている。それを何度も断わり続け寛大にも許されているのは、ひとえに酒楽が恐怖に屈する瞬間を、彼女が待っているからだった。後宮へ入った日からつかず離れず、ことあるごとに美蛾娘は話しかけてきて、贅をこらしては酒楽を甘やかし、ひとさしの惨たらしさを残していく。酒楽が冷静であるかぎり、美蛾娘がその命を奪うことはない。けれど反対に、すこしでも恐怖を見せれば殺される可能性が高い。後宮に入って早々にそれを看過した酒楽は、美蛾娘の前では無機質に見えるように気をつけてきた。感情をなるだけ表に出さず瞳の光を消してしまうのだ。冷静に、ただ理知的に動く人形のように振舞わなければならない。伍仁はじっと酒楽の目を見つめた。
「大丈夫です。いつでもおそばにおります」
案ずるなと想いをこめ見ると、酒楽は潤む目をかくすように目をふせた。瞬きのあとに現れたのはいつもの彼だ。両目にみえる理性の光、感情を廃してゆるぎない知識の熾火。
「――ほんに、おぬしは面白いのう」
言葉とは裏腹に、美蛾娘は興味をなくしたように酒楽から離れ、船べりから外を見た。水音はすでにおさまっている。振り返らなくとも遊舎貴人が溺死したことはわかった。侍女の慟哭に耳をすませ、美蛾娘はうっとりと笑った。
「さて、今宵も愉快な余興であった。ときに廿野酒楽、おぬしは柘榴帝にまだ会っておらぬな? 近々、女宮で祝水の宴があるぞ。そこへ今宵の美人画をもってまいれ。ついでに帝にご挨拶せよ」
酒楽は目をふせ、床の一点を見てお辞儀をする。両手を顔の前に、頭をすこし低くする正式な宮廷の挨拶だ。この場合は感謝の意だった。美蛾娘はくつくつ笑って踵をかえした。最後に流し目でくれられた視線が「諦めぬぞ」と言っているようで、伍仁は身震いしてしまう。美蛾娘と黒官が去り、完全にその気配が消えても、しばらく酒楽は川面を眺めたまま立っていた。そこに浮かぶ艶やかな布と遊舎貴人の死体を見ている。
「大丈夫ですか?」
びくりと身を震わせ、酒楽はようやくため息をついた。
「ああ……つかれた」
「帰りましょう。あの角までは、とりあえず歩いてください」
意図を悟った酒楽はよろよろと船を降り、人目につかぬ角まで歩くと背にもたれかかってきた。
「着いたら起こしてくれ」
「構いませんよ? そのまま寝台までお運びしますので」
「起こせ。まだやることがある」
「やること……?」
背負ったとたん寝息が聞こえてきてどうしようかと思う。ここから酒楽の宮までは遠くない。伍仁はできるだけ時間をかけて歩くことにした。人目を避け、遠回りにそっと少年を運んでいく。せめてすこしでも長く休めるように――。
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