春画- 3

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 жжжж  明け方、宮の戸を叩く音で伍仁は目がさめた。 (眠ってしまった)   酒楽に抱えられていた腕をぬき、ねぼけ眼をする。無意識に戸を開けてぎょっとした。 「やあ。廿野酒楽はいるかな?」  しまった。寝ぼけていたから反射的に戸を開けてしまった。驚くべきことに、伍仁は話しかけられていた。誰も伍仁の姿を見ることはできないはずなのに。  白みはじめた空を背景に、金衣をまとう青年が笑っていた。歳は二十歳ほどだろう。長い黒髪を後ろでひとつにまとめている。背は高く、くっきりした目鼻立ちをしている。口もとは薄情そうな笑みだった。印象的なのは青い瞳で、硝子細工のように透き通る水色だった。その爛々とした輝きはひときわ目をひく。風にくゆる甘い香り――すぐにただ者ではないとわかった。高貴な人間の威厳と圧迫感がある。 「なんだ。いないのか?」 「あ、いえ」  まだお休みになられています。そう断る前に青年はひょいと室内を覗きこんでいた。 「寝てるのか。へぇ、あれが名高い廿野酒楽? 思っていたよりずいぶんと――」  無粋に部屋を覗かれたこともそうだが、その言葉の余韻に嫌なものを感じた。酒楽の寝顔はひときわ幼い。可憐で無防備なものだ。青年が興味深そうにつやを含む瞳で見ているのが気に食わない。 「何の用です。私がうかがいます」  体で無理やり視界を遮ると、青年は長い睫を瞬かせる。まるで今そこに伍仁の存在をはじめて認めたようだった。 「君は誰かな? 廿野酒楽は、宮にひとりでいると聞いていたけど」  しまった。これは決定的にまずいことになったかもしれない。 「そういう貴方こそ誰です。訪問するにしても、こんな明け方に無礼ではありませんか」  青年は何事か考え首をかしげていたが、やがて不自然なほどにっこりと笑う。 「いや、すまなかった。これを彼に渡しておいてくれ」  手渡されたものに危うく叫びそうになった。酒楽の春画だ。なくなった最後の一枚。 「この近くで拾ったんだ。署名が入っていたから……くくっ、そんな顔しなくても誰にも言わないよ。じゃあまた」  あっさりと背を向けた青年をすばやく見やった。殺すか。誰にも言わないという言葉を信用できない。今なら誰もいない、ここでなら簡単にくびり殺せる。今なら――。 「伍仁」  聞きなれた声に身が固まった。酒楽がのそのそ起き上がり、怪訝な顔で歩いてくる。 「なんだ、誰と話してた?」  ぼんやりした酒楽は腰のあたりに抱きついてきた。ねぼけまなこの酒楽は無意識にだろうが、昔からこうして甘えてくることがある。 「なんでもありません。酒楽さま、熱があるのですか?」  覗きこんだ少年の瞳はうるみ、とろんとしている。すんすん空気の匂いを嗅ぎ、恍惚と頬を染めている。またたびに近づく猫のようだった。 「いい匂いがする。なにか、わからないが不思議な……お前のほうから」  匂い。その言葉に衝撃をうけた。雷が落ちたような閃きで、先ほどの青年の正体がわかったのだ。 「まだ眠っていていいですよ。昨夜は遅かったですし」 「うん」 「ほら」  強制的に寝台に転がすと、酒楽はまたすうすう眠りだした。そのあどけない寝顔を青年は見ていたのだ。 (水色の瞳に、あのくゆる香り)  彼は新帝、柘榴帝だ。この国を統べ、酒楽の行く末をも左右できる立場にいる、厄介な人間のひとり。数週間前に代替わりしたばかりの新帝の顔を、酒楽も自分もまだ知らない。けれど確実に、彼がそうだと伍仁には断言できた。こんな夜更けに貴人の宮を気軽に訪れたことがその証だ。不貞を疑われかねない無作法だが、柘榴帝なら明け方にどの宮を訪れても問題はない。それに、酒楽の言っていた「不思議な香り」。 (あれが薫香(くんこう)……?)  人間の理性を溶かしてしまう至上の匂いを、この国の天帝は身にまとうと聞く。前帝・鳳梨帝(ほうりてい)からはそんな香りはしなかった。てっきり眉唾話だろうと伍仁は思っていたが、どうやら本当のことだったらしい。そっと酒楽の寝顔を覗きこめば、その頬はうっすらと赤くなっている。たったすこしの残り香でこれだ。薫香の威力は人に絶大であるようだった。今後はどうやって酒楽をその幻惑から守るか、気を配る必要があるかもしれない。……そういえば、柘榴帝には伍仁の姿が見えていた。不思議な力をもつといわれる天帝には、つくも神の姿も見えるのだろうか。だとしたらなおさら面倒だった。薄情そうな笑みと、酒楽を見たときの目の色の変わりようを思い出す。 「……たかが人間のくせに」  窓の外が明るくなりはじめている。伍仁は立ち上がり、寝台横の姿見に映る無表情な自分自身を見る。二十歳くらいの青年がこちらを睨んでいる。その背に黒くまとわりつく怒りや殺気、色濃い負の気配がみえる。窓から光が伸びてきて、部屋が明るくなるにつれ、黒い気配は影のように薄まっていく。けれど完璧に消えたわけではない。ただ見えなくなっただけで、負の感情はいつもそこにある。酒楽を害する者への怒りと殺気だ。陽が高くのぼる前に、伍仁は厨へ向かうことにした。もう数時間もすれば酒楽も起き出してくる。何か食べさせなければならない。 「滋養のつくものを――そうだ。菓子も探しておかないと」  季節は春、花ひらく頃だった。食事をさせたら菓子をもち、庭園へ散歩に行くのもいいかもしれない。出不精の酒楽には、少し外を歩かせなければならない。やわらかな風が前髪を撫ぜていく。酒楽のことを考えて歩けば、気分もしだいに上向いてきた。後宮の花々の間を歩く足取りも軽やかになる。 (酒楽さまが安寧であるなら、他のことはどうだっていい)  昨日死んだ者も、これから死ぬ者も等しく塵芥だった。今の伍仁にとっては、酒楽との安寧な時間こそがすべてだ。
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