第一章 報酬は一千万

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第一章 報酬は一千万

「うちの息子を誘惑して欲しいの」  無遠慮に煙草の煙を吐き出した後、目の前の初老の女性は、中森瑞紀(なかもりみずき)をじろりと見た。隣に座っていた西尾(にしお)が、間髪を容れずに同意する。 「もちろんでございますとも、小田桐(おだぎり)様。この中森は、当相談所では一流の『サクラ』でございまして……」 「話は終わっていないわ」   女性が、冷ややかに西尾の言葉をさえぎる。西尾は、圧倒されたように沈黙した。さすがの貫禄だ、と瑞紀は感心した。女性の名は、小田桐みどり。ホテルや不動産業など二十以上もの企業を傘下に置く、小田桐ホールディングスの社長である。 「そこのオメガには……」  みどりが、瑞紀を顎で指す。最初に名乗ったにもかかわらず、名前を呼ぶ気も無いようだ。日本有数の大企業の女社長からすれば、結婚相談所で『サクラ』を務めるオメガなど、ゴミも同然なのだろう。 「息子と一年間付き合い、そして別れることを求めるわ」 「……一体、どういうことでございましょう?」  さすがの西尾も、怪訝そうな顔をした。瑞紀も同感だ。これは、単なるサクラの仕事とは、事情がかなり違うようである。 「端的にお話しするわね」  トントン、と灰皿に煙草の灰を落としながら、みどりは早口で語り始めた。 「知っての通り、我が息子は、いずれは小田桐ホールディングスを背負って立つ存在です。当然、それなりの相手と結婚してもらわねばなりません。ところが息子ときたら、そのような政略による縁組は嫌だと、幼稚なことを申すのです。そこで、じゃあ自分が気に入るような相手を見つけなさいと、おたくに登録させた次第。ただし、一年という期限を設けてね」 「は。なるほど」  瑞紀が相づちを打つと、西尾は焦り顔でこちらを見た。瑞紀は、それを無視して続けた。 「要は、おたくの坊ちゃんを落とした後一年間、その気がある演技で振り回せばいいってことですよね。で、期限が来た時点で、さっぱり別れると。ほら気に入る相手なんて現れなかったじゃないかと、そう言えますもんね」 「その通りよ。意外と話がわかるじゃない」  みどりは目を見張ると、初めて瑞紀の顔をまじまじと見た。 「息子の結婚相手は、もう私の方で決めています。けれど、無理やりくっつけたのでは不満が残るでしょう。だから、取りあえずは婚活したという実績を作りたいのよ」 「かといって、本当に気に入った相手を見つけてしまっても困る。だから、俺がキープしておけばいいんですね」  正解、と言いたげに、みどりは満足そうにうなずいた。 「なるほど。承知いたしました」  ようやく納得顔になった西尾は、みどりと瑞紀を見比べた。 「どうぞご安心くださいませ。中森は、我が『メイト・エージェント』ではダントツの実績を誇るサクラでございます。失敗など、するはずがございません」  だがみどりは、それに対してすぐには答えなかった。しばしの沈黙の後、彼女は低い声で言った。 「失敗する、くらいならまだ良いのだけれど」 「小田桐様?」  西尾は、眉を寄せた。みどりが、値踏みするように瑞紀を凝視する。 「私が危惧しているのはね、人間というのは欲を出す生き物だ、ということよ。仮に息子がなたを気に入ろうとも、くれぐれも高望みをしないことね? あなたは、あくまで仮の恋人。もし、息子との結婚など夢見ようものなら、私は容赦しないわよ」  威嚇と侮蔑の入り交じった視線が、瑞紀に注がれる。内心の不快を押し殺して、瑞紀は言い放った。 「一千万、それで手を打ちますよ」 「おいっ!」  腕をつかんで止めようとする西尾を振り払って、瑞紀は告げた。 「一年も茶番に付き合わされるんだから、それくらいいただいても、罰は当たらないでしょう。あ、それから俺、金にしか興味は無いんで。社長夫人なんかになって馬鹿馬鹿しい気取った社交をするよりも、大金を一発もらってそれきりの方が、はるかにマシってもんです」  横で、西尾が青ざめているのがわかる。みどりは、一瞬眉を吊り上げたが、やがてふっと笑った。 「『分』をよくわきまえてらっしゃること。あなたみたいなハッキリした人間、嫌いじゃないわよ」  みどりは、持参したハンドバッグの中から、小切手を取り出した。躊躇無く、百万の金額を記入する。 「前金よ。残りは、あなたが任務を遂行した後。妊娠と番関係にだけは気を付けて。では、頼むわよ」  最後に釘を刺すと、みどりは小切手を置いて席を立った。
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