第四章 疑惑と混乱

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 帰宅した瑞紀は、菊池アクターアカデミーへの入所準備を始めた。合格通知に同封されていた書類によれば、事前手続が山ほどあるそうなのだ。せっかく与えられたチャンスなのだ、真剣に取り組まなければいけない。そう思っても、瑞紀はなかなか集中できなかった。脳裏からは、先ほどの二人の光景が離れなかった。 (仕事だよな? とは、思うけど……)  優しい笑顔で明人に語りかけていた聖の姿が、蘇る。それに、いくら繋がりがあるとはいえ、二つのホテルはしょせん別企業だ。車で一緒に出かけてまでする仕事が、あるというのだろうか。  ぼんやりしていたその時、スマホが鳴った。西尾だった。 『坊ちゃんとの付き合いは、どうだ?』  西尾は、からりとした調子で尋ねてきた。 「順調、順調」  瑞紀は、とっさにそう答えた。 「いろいろ気にかけてもらってるし。そうそう、彼の身内とも会ったんだ。君なら大丈夫、的なことを言ってもらった」 『……ふうん』  だが西尾は、何だか疑わしそうな声を出した。 『本当か? 何か心配事があるんじゃないのか。中森、お前って、動揺すると早口になるからな』    伊達に、長い付き合いではない。瑞紀は、ギクリとした。 「……まあ、心配事っていうか、その」  瑞紀は、思い切って不安を打ち明けることにした。 「政略結婚相手候補の、白井明人っているじゃん。小田桐聖は、本当に奴と結婚する気は無いのかな? 実は、たまたま二人が一緒にいるとこを見ちゃって。割と、仲良さそうだったからさ」  わざと軽い調子で言えば、西尾は即答した。 『は? ンなわけないだろ。そいつと結婚する気があんなら、何でお袋さんが、わざわざ大金払ってお前を雇うんだよ』  もっともな意見だ。聖は、結婚そのものをする気が無いと言っていた。仮にそれが嘘だとしても、明人と結婚するつもりが無いのは確かだろう。彼との縁組にイエスと言わなかったからこそ、小田桐みどりはこんな大がかりな計画を立てたのだ。 「……だよな。やっぱり、そう思う……」 『ただ』  西尾は、瑞紀の言葉をさえぎった。 『気が変わった、という可能性が無いとは言えない。お袋さんに反発して結婚相談所へ入ったはいいが、冷静になってみたら、白井明人との縁談も悪くはない、と思い始めた。とはいえ、一年婚活すると宣言した手前、引っ込みが付かなくなった、とかな』  金持ちなんだから、会費くらい痛くも痒くもないだろうしな、と西尾は付け加える。瑞紀は、青ざめていくのを感じていた。西尾の推測は当たっているのではないか、そう思えてきたのだ。 「だとしたら、どうしよう、俺……」 『どうもする必要は無いじゃないか』  西尾は、けろりとしていた。 『見栄っ張りな坊ちゃんは、母親に啖呵を切った手前、一年うちで婚活を続ける。そして終了後は、母親の勧める相手とゴールイン。坊ちゃんも母親も、万々歳だ。お前と俺も、報酬をもらってハッピー。誰もが満足のいく、理想の結末じゃねえか』  ハッピーなんかでは決してない、と瑞紀は思った。なぜなら、聖に恋してしまったから。それに、もし聖が本当に明人を好きなら、無理に一年も自分に付き合わせるなんて、気の毒すぎる……。 『と、いうわけで、中森。坊ちゃんと白井明人とのことは、見て見ぬふりしろよ。特にみどり社長には絶対に、二人が親しいことを悟られるな』  西尾は、いつになくドスのきいた声音で語った。 『息子と白井明人に可能性がある、なんて気付かれてみろ。みどり社長が、こんな馬鹿げた作戦を続けるわけないだろ? 今打ち切られたら、俺たちの報酬はパアだ』  その通りだ、と瑞紀は唇を噛んだ。みどりの目的は、聖と明人を結婚させることなのだから……。
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