134人が本棚に入れています
本棚に追加
その時、不意にガチャリと音がした。開いた扉の向こうに立つ人物を見て、瑞紀はハッとした。当の聖だったのだ。手にしているのは、マスターキーのようだった。
「ここで何をなさっているんです? みどり社長」
聖は、冷ややかにみどりを見すえた。
「強引にホテルへ乗り込んだ上、乱暴に扉を叩いて宿泊者の妨害をする……。当ホテルの品格に関わる言動は、慎んでいただけますか」
「特別室が一ヶ月も貸し切りと聞いて、驚いたのよ」
みどりは、けろりと答えた。
「困ってしまったわ。X産業の社長をご案内しようと思っていたのに……」
「ならばそれは、支配人か僕に相談すべき問題ですね。ご宿泊のお客様に直談判するなど、前代未聞です」
聖は、みどりの言葉をぴしゃりとさえぎった。
「そもそも、いくら小田桐ホールディングス傘下とはいえ、小田桐ホテルは独立した企業です。支配人は、あなたに脅されて宿泊者情報を教えたとか。不当介入は止めていただきたい」
みどりは、一瞬ぐっと詰まったが、一転笑顔になった。付き添いの男たちには、目配せする。二人は、心得たとばかりに退室した。三人だけになると、彼女は息子に媚びるように語りかけた。
「聖の言う通りよ。出過ぎた真似をして、悪かったわ……。でもね、私はあなたが心配だったのよ。その……、こちらに宿泊の方が、オメガだと聞いたものだから。母親としては、気になるじゃない? 特にあなた、今、婚活中ですもの」
言いながらみどりは、瑞紀の方をチラと見た。聖には見えない角度で、すごむようににらみつける。余計なことはバラすな、と言いたいのだろう。
「いい年になった息子を偵察ですか」
フン、と聖が鼻を鳴らす。癪だが、みどりの話を信じた様子に、瑞紀はほっとした。自分が母親に雇われたサクラだ、などと知られたくはない。きっと聖は、裏切られたと感じることだろう。
「いい年だから、じゃないの。どんな方でもいいから、早く身を固めて欲しいわ。母親なら、当然のことでしょう?」
白々しい、と瑞紀は舌打ちしたくなった。聖はと見れば、皮肉めいた微笑を浮かべている。
「母親として、ではなく、小田桐ホールディングス社長として、でしょう。ついでに申し上げれば、気になさっているのは僕の結婚だけではないはず。父は、後継者の条件として、家庭を持つことを重視しているようですね」
とたんにみどりの顔は、さあっと赤くなった。
「聖……。あなた、そこまでわかっているなら……」
そこでみどりは、瑞紀の存在を思い出したらしい。はたと口をつぐんだ。
「まあとにかく、押しかけたのは悪かったわ。中森さん、失礼したわね。聖、プライベートな話は改めて」
早口でそう告げると、みどりはさっさと部屋を出て行った。
二人きりになると、聖は瑞紀に深々と頭を下げた。
「不快な思いをさせて、本当に申し訳なかった。こちらの支配人には、厳重注意しておきます」
いえ、と瑞紀は短く答えた。
「母は、僕の結婚のことで、相当やきもきしているのです。もちろん、押しかける理由にはなりませんが」
聖は、やや言い訳がましく付け加えた。
「それも、単に政略結婚させたいだけではありません。異母弟の順一、覚えてますか? 母は、彼が僕より先に結婚することを恐れているんです」
今日会っただけに、瑞紀はドキリとした。聖は応接セットに腰かけると、瑞紀にも座るよう促した。向かい合うと、聖は真面目な表情で語り始めた。
「ここまで巻き込んだ以上、瑞紀さんには打ち明けますが、実は僕の父は、とある女優と長らく不倫関係にありました。相当惚れ込んでいたようで、子供も生ませました。それが、順一です。愛しい女性の子供ということで、父は順一のことを、たいそう可愛がっています」
「じゃあ、もしかして……」
ええ、と聖はうなずいた。
「順一が僕より先に結婚したら、父はそれを口実に、彼を小田桐ホールディングスの後継者にと推すでしょう」
聖の父親は、小田桐ホールディングスの会長なのだ。順一が、聖と結婚相談所で出会ったのか、と尋ねてきた理由がわかった。きっと彼は、後継者の座を狙っているのだろう。だが聖は、意外にもこう続けた。
「別に、構いませんが」
「そうなのですか?」
瑞紀は、目を見張った。聖は、けろりとしている。
「順一はああ見えて、仕事の能力は高いですから。あなたも会ったからご存じでしょうが、コミュニケーションスキルもある。十分、小田桐ホールディングスを引っ張っていけると信じていますよ……。ただ、僕は構わなくても、母は構うでしょう」
それはそうだろう、と瑞紀は思った。愛人の子を跡取りになど、本妻の立場からしたら、許せるはずがない。まして、みどりのような気の強い女性なら、なおさらだろう……。
最初のコメントを投稿しよう!