第五章 泡沫の夢

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 瑞紀は、ドキリとした。よく似た台詞を、最近聞かなかったか。……ああ、聖だ。彼は、こう告げた。  ――あなたは、もっと他人を非難していいんですよ……。 「お前は、不幸に慣れすぎてるんだよ。そのいとこにだって、何年苦しめられてる? 俺は、お前が不憫で仕方ない」   不覚にも、目頭が熱くなる気がした。西尾の声音からは、壮介への怒りがにじみ出ていたのだ。 「だから」  西尾は、瑞紀の顔をのぞき込んだ。 「少しくらい、夢見たっていいじゃねえのか? たとえば、坊ちゃんとの未来だ。坊ちゃんは、お前にマジなんじゃないか?」 「まさか!? 俺なんかのこと、本気になるわけないだろ」  西尾の思いがけない台詞に、瑞紀は慌てた。確かに、一度好きとは言われたが。直後に、応えられないと切り捨てられた。ささやかな好意程度のものだろうと、瑞紀は解釈している。    「大体! 白井明人に気が向いたのかもって言ったのは、西尾さんだろ!」 「一つの仮説だ」  西尾は、けろりと言った。 「今日の話を聞く限り、小田桐聖はお前に惚れてるとしか思えん。いくらストーカーに狙われているとはいえ、普通そこまでするか?」 「それは……」 「中森」  西尾は、静かな口調で瑞紀の言葉をさえぎった。 「結婚相談所の経営者という立場を忘れてでも、俺はお前を応援してやりたい。……いいじゃねえか。泡沫の夢を見たってよ」   西尾が、労るように瑞紀の頭を撫でる。瑞紀の瞳からは、涙がぽとりと落ちて頬を伝った。   その日の十九時。瑞紀は、小田桐ホールディングス本社へと向かった。昨日、順一と食事した界隈だ。彼の言った通り、グループ企業は、ここに集結しているようだった。 『小田桐』の名が付いたビルの群れを眺めながら、瑞紀は、西尾の言葉を反芻していた。 (聖さんとの未来、か)  いやあり得ない、と瑞紀はかぶりを振った。みどりが許すはずが無いし、第一聖本人が、結婚する気は無いと言っている。文字通り、夢物語だ。西尾だって、泡沫の夢と表現したではないか。 (そう……。一時的な、はかない夢さ)  夢ならもう十分見せてもらった、と瑞紀は振り返った。何よりも、諦めていた俳優への道を開いてくれたではないか。聖には、感謝してもし尽くせない。 (それよりも……、本題はこれからだ)  瑞紀は、気持ちを引き締めた。小田桐みどりへの、前金の返還だ。同額の小切手は、すでに準備してある。もっとも憂鬱な案件だが、避けては通れなかった。  その時瑞紀は、ふと足を止めた。HOTELブランを見つけたのだ。恐らくは、本館だろう。小田桐ホテルよりはややカジュアルな雰囲気だが、お洒落な建物だった。一流ホテルであることには、間違い無い。 (やっぱり、ここの息子とくっつくのが一番だよなあ……)  そんなことを考えながら建物を見上げてていた瑞紀だったが、不意にぎょっとした。一台の車が、すうっと走って来ると、HOTELブランの前で停まったのだ。その白いSUVには、見覚えがあった。 (壮介!?)  まさか、ずっと自分の後をつけていたのだろうか。瑞紀は、とっさに辺りを見回すと、近くのコンビニに飛び込んだ。いらっしゃいませえ、と甲高い女店員の声が響く。いざとなったら助けを求めよう、と瑞紀は彼女の方を見やった。 (いや、しかし、どう助けてもらう?)  訴えたら、警察を呼んでくれるかもしれない。でもそれでは、叔母に連絡が行ってしまう……。  瑞紀がパニックになっているうちに、壮介が車から降りる。だがそこで、瑞紀はおやと思った。壮介は、真っ直ぐHOTELブランへと入って行ったのだ。どうやら、瑞紀狙いではなかったらしい。 (何だよ。単に、仕事かよ……)  制服ではなく普通のスーツ姿ではあったが、何か本館に用でもあったのだろう。瑞紀は、素早くコンビニを出た。壮介が出て来ないうちに、さっさと退散しよう。そう思った瑞紀だったが、またもやぎょっとした。壮介は、すぐに建物から出て来たのだ。一人ではなかった。一緒にいるのは……、白井明人だった。これまた、私服と思われるスーツ姿だ。 (は? 何でだ?)  瑞紀の脳内は、疑問符でいっぱいになった。明人は、社長の息子だ。恐らくは、高い役職に就いていると思われる。一店舗の部門マネージャーである壮介が、直接関われる相手なのだろうか。 (いやいや、同じ企業の社員なんだから、接点くらいあるかも……)    その時、瑞紀はあっと思った。壮介が、明人の腰に軽く手を当てたのだ。微笑みかけながら、彼を自分の車の助手席へと乗せる。 (まずい……!)  瑞紀は、とっさに通りに向かって手を挙げた。停まってくれたタクシーに乗り込むと、運転手に早口で告げる。 「あの白のSUV、追っかけてくれますか!?」
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