第五章 泡沫の夢

9/11
128人が本棚に入れています
本棚に追加
/46ページ
聖に連れて来られたのは、小田桐ホテル本館に比較的近い、便利の良い場所にあるマンションだった。高級マンションであることは想像されるが、建物のデザインはシックで、聖の好みを反映しているように思えた。  聖は瑞紀を、最上階の角部屋へと案内した。2LDKで、最低限の家具と観葉植物だけが置かれている、シンプルな室内だ。 「何か食べますか? お腹が空いたんじゃないですか」  開口一番、聖は尋ねた。確かに、今日は朝から慌ただしかった。昼に一度、ファストフードでハンバーガーを一個食べただけだ。とはいえ、ご馳走になるのも気が引ける。逡巡していると、何というタイミングか、腹が鳴った。 「適当に作りますね。あり合わせの材料ですが」  聖はクスッと笑うと、キッチンに立った。二十分と経たないうちに、彼はオムレツとサラダを運んできた。 「ありがとうございます。すごく手際がいいんですね……、あ」  聖を賞賛しかけて、瑞紀はふと気付いた。サラダには、トマトがふんだんに使われていたのだ。瑞紀の好物である。 「最初に食事した夜、あなたはトマトファルシを、特に美味しそうに召し上がっていたから。お好きなのかな、と思って」  そんな細かいことまで見ていたのか、と瑞紀は驚いた。『お前に惚れてるとしか思えん』という西尾の言葉が蘇る。だが瑞紀は、慌てて打ち消した。何といっても、聖は一流ホテルの総支配人なのだ。いわば接客のプロである彼が、観察眼に優れていたとしても、不思議ではない。 「はい、大好物です」  瑞紀は、にこりとした。 「叔母の家に引き取られた時、初めて作ってもらったのが、トマトたっぷりのミネストローネだったんです。温かくて、すごくお腹が満たされたのを、よく覚えています……。それ以来、思い出の味になりました」  両親を亡くしてから、親戚の家をたらい回しにされていた時は、ろくに食べさせてもらえなかった。初めて安心できたのを、よく覚えている。 「……そういう恩があるから、なかなか村越のことを打ち明けられないんですね」  聖は、ぽつりと言った。 「ですが今回は、さすがに叔母さんご夫妻にも知れると思いますよ……。明人の件は言い逃れもできますが、職場でのセクハラは紛れもない事実ですから」  はい、と瑞紀はうなずいた。被害者が自分だけなら隠し通そうと思ったが、他者まで巻き込んだ以上、これは仕方ないだろう。  聖の作った料理は、どちらも優しい味付けで、美味しかった。空腹も相まって、どんどん箸が進んでしまう。聖は、そんな瑞紀を黙って眺めていたが、不意にこう言い出した。 「瑞紀さん。先ほど、打ち明けますと言ったことですが」  瑞紀は、思わず箸を動かす手を止めた。聖は、真剣な眼差しでこちらを見つめている。 「僕が話す気になったのは、あなたがあまりにも自分を卑下なさっているからです。しかし、最初にお伝えしておきたい。僕が自分の過去を打ち明けたからといって、瑞紀さんも喋らないといけない、などということはありません。話したくなければ、話さないで。それを、約束してくれますか」  胸が熱くなった。小田桐聖という人は、どこまで気配りができるのだろうと思ったのだ。はいと小さく呟けば、聖は静かに語り始めた。 「大学二年の時です。僕には当時、付き合っている人がいました。同じ大学の同級生で、オメガ男性でした。それが、さっき明人が言いかけていた忍です」   瑞紀は、神妙にうなずいた。 「忍は、賢く優しい人でした。家は母一人子一人で、経済的にあまり裕福でなかったため、奨学金で苦学していました。小田桐家とは釣り合わないのではと、彼は遠慮していましたが、僕は彼と結婚しようと心に決めていました。卒業したら、番になって結婚しようと、約束を交わしました」  けれど、と聖は顔をゆがめた。 「そんな折、忍の母親が癌を患っていると発覚しました。病院を紹介するなど、僕もできる限り彼の力になろうとしましたが、若いせいか進行が速かったんです。彼女は、あっという間に亡くなってしまいました」 「もしかして、それで僕の義叔父が癌だと……?」  瑞紀は、病院でのことをハッと思い出した。同じ病状の人を知っていた、と聖は言っていなかったか。 「その通りです。僕も忍と一緒に、彼の母にずっと付き添っていましたから」  聖は、沈痛の表情で語った。 「唯一の肉親を失っても、忍は気丈でした。ちょうどその頃、僕は、ボストンへの留学を控えていました。大学のプログラムの一環で、以前から申し込んでいたものです。この状況の忍を一人置いて旅立つのはためらわれ、僕は留学を取り止めようかと思いました。けれど忍は、構わず行ってくれと言い張りました。笑顔で見送ってくれたんです。……それが、彼の顔を見られた最後でした」   「――どうしてです!?」  瑞紀は、目を見張った。聖が、短く答える。 「忍は、自殺したんです」  瑞紀は、言葉を失った。   「僕が旅立った後、忍は行きずりのアルファから、レイプされたんです。……そして、妊娠しました。それを苦にした彼は……、ビルの屋上から飛び降りました」
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!