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「強めのものはありますか? 種類は何でも構いません」
背後から声をかけると、聖は一瞬驚いたようにこちらを振り返ったが、すぐにうなずくと、冷蔵庫を開けた。度数の強いチューハイの缶を二本取り出し、持って来る。再び向かい合い、そろって缶を開けると、聖はその缶を軽く掲げた。
「では、ひとまず村越壮介を追い払ったお祝い、ということにしましょうか」
缶を合わせようとする聖を、瑞紀は押し止めた。
「それは、後にしてください。僕の話を、まずしたいんです」
聖は、眉をひそめた。
「それは、必要無いと……」
「いえ。僕が話したいんです。聖さんに、聞いていただきたい」
そう言うと、聖は口をつぐんだ。瑞紀は、順を追って語った。壮介の仕打ちから逃れるため、進学を止めて就職し、家を出たこと。だが会社が倒産し、当時の恋人に借金を背負わされたこと。聖は、黙って聞いていた。
「手っ取り早く稼ぎたくて、売り専の仕事を選びました」
すると、それまで沈黙していた聖が、ようやく口を開いた。
「今は?」
「さすがに、辞めました。バイトを転々としています」
サクラの話はできないので、曖昧に答えたのだが、聖は追及しなかった。その代わり、何かコメントすることもしなかった。チューハイを口に運びながら、瑞紀は早くも後悔し始めていた。やはり、売り専のことを告げたのは、失敗だっただろうか。いくら壮介から聞いていたとはいえ、本人の口から改めて告げられると、嫌悪感を覚えたのかもしれない……。
「あっ、でも、高校時代に演劇部だったことは本当です。顧問の話をした時は、当時を思い出して……」
「立派ですね」
聖が、不意にさえぎる。瑞紀は、きょとんとした。
「誰がです?」
「瑞紀さんですよ」
聖の表情は、いたって真剣だった。皮肉を言っている気配は無い。
「僕は恋人一人すら幸せにできなかったけれど、瑞紀さんは、いつも他人のために頑張っているじゃないですか。叔母さん夫婦を気遣い、恋人のために借金を肩代わりし……。そして今日は、初対面の明人を、危険を冒して助けようとした。滅多にできることじゃありません」
瑞紀は、口をぽかんと開けていた。そんな風に言われるなんて、予想もしなかった。
「ところで」
聖は、ちょっと首をかしげた。
「どうしてまた、明人と村越を追おうと思ったんです? 雑誌で顔を見かけた、というだけで? もしかしたら、恋人同士かもしれないじゃないですか」
「ええと、それは」
聖の結婚相手候補だと知っていたからだ、とは言えなかった。情報源を追及されると困る。
「実は昨日のお昼頃、たまたま見かけたんです。聖さんと明人さんが、一緒に食事されているところを」
「ああ、あれを? あの辺りに、いらしてたんですか?」
聖が、目を見張る。たまたまです、と瑞紀は答えた。
「それで……、その。お二人が、ずいぶん親しそうだったので。恋愛はなさらないと聖さんはおっしゃっていましたが、そうは言っても、もしかして、と……」
「誤解ですよ」
聖は、クスリと笑った。
「村越の処遇の件でケリが付いたというので、昼食を奢らされていたんです。よく考えたら、あいつの所の社員の不始末なんだから、僕が奢るいわれは無いんですがね。まあでも、明人は自分の権限を逸脱してまで、奮闘してくれましたから」
何だ、と瑞紀は力が抜ける思いだった。聖が、チラと瑞紀の目を見る。
「ようやく、わかりました。急に小田桐ホテルを出たのも、メッセージや着信を拒否したのも、母だけが原因では無かったんですね? 気を回してくださった、と」
聖の瞳には、悪戯っぽそうな笑みが浮かんでいた。頬も、やや赤らんでいる。酒のせいだけとは思えなかった。
(まるで俺が、妬いてたみたいじゃねえか)
とはいえ、みどりとのやり取りは打ち明けられなかった。それに、嫉妬していたのは事実だ。
「そんなに、可笑しそうにされなくても」
瑞紀は、口を尖らせた。
「本当に明人さんがあなたの恋人なら、壮介に連れ去られるのを、黙って見過ごすわけにはいかないじゃないですか。聖さんの大切な人が傷つけられたら、そう思うと……」
次の瞬間、瑞紀はテーブル越しに、聖に抱き寄せられていた。放すものかとばかりにきつく抱きしめられ、瑞紀は目を見張った。状況を、すぐには把握できない。
「――本当に、優しい人だ、あなたは……」
ややあって、聖の絞り出すような声が聞こえた。
「僕は、あなたを突き放したというのに。その僕の恋人かもしれない相手を、体を張って助けに行くなんて……」
聖は、しばらくの間、無言で瑞紀の背中を抱いていたが、やがて腕を放した。真っ直ぐに、瑞紀を見つめる。
「瑞紀さん。あなたはさっき、僕に幸せになるべきだと言ってくれましたね。その言葉を、あなたにそっくり捧げましょう。瑞紀さんこそ、幸せになるべきです」
じわり、と胸が熱くなる。頭も、顔もだ。アルコールのせいもあるだろう。酔いが、回り始めているのがわかる。この時を待っていたのだ。瑞紀は、じっと聖を見つめ返した。
「じゃあ、一晩だけ幸せをください」
聖が、息を呑むのがわかる。瑞紀は、畳みかけるように尋ねた。
「それとも、こんな汚れた体は、やはりお嫌ですか」
卑怯なのは、十分承知していた。聖は、人を気遣う性格だ。たとえ内心そう思っていたところで、肯定はできないだろう……。
「瑞紀さんは、綺麗ですよ」
ややあって、聖は静かに告げた。
「自分を卑下するようなことは、言わないで。あなたの心は、誰よりも清らかだ。言いづらい秘密も、打ち明けてくれた……」
とたんに、罪悪感が瑞紀を襲った。聖は、澄み切った眼差しで瑞紀を見つめている。そんな彼を試すような物言いをした自分を、瑞紀は恥じたのだ。それに瑞紀は、全てを聖に打ち明けたわけではない。順一から情報を探り出そうとしたこと、それに何と言っても、みどりに金で雇われたこと……。
(こんな大きな秘密を隠しておいて、抱いて欲しいだと? 何て厚かましい人間なんだ、俺は……)
やはり撤回しようか、そう思ったその時。聖が、不意に身を乗り出した。大きな掌で瑞紀の頬を包むと、そっと口づけてくる。その仕草は壊れ物でも扱うかのようで、瑞紀は何だか泣きたくなった。こらえきれず、瞳を閉じる。
啄むようなキスを何度か繰り返した後、聖が席を立つ。瑞紀も、吸い寄せられるように立ち上がっていた。
聖が、瑞紀をそっと抱き寄せ、膝の裏に手を差し入れる。横抱きに抱き上げられて、瑞紀は反射的に、聖の首に腕を回していた。もう、欲望には抗えなかった。
(これは、泡沫の夢だ。一夜限りの、はかない夢……)
聖の胸に顔を預けながら、瑞紀は心の中で、何度も繰り返していた。
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