4.想い

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「ロジェさんに会えてよかった。こっちに来ることがあればその時はまた散策しよう。それまでお別れです」 体をゆっくり離し、私を見ながらそう言ってくれた天馬の目が少し潤んでいる。ああもう行く時間なのか。私は彼の手を握りながら頷く。 「私の方こそ、君に感謝しているよ。素敵な滞在になったのは君のおかげだ。またぜひ会おう」 そして彼の手を引き、左右の頬にキスをする。 「なっ、何……!」 スイスでは挨拶がわりのキスなのだが、日本ではそんな習慣がないことを、真っ赤になった天馬の顔で思い出す。 「まるでタコみたいになってるよ」 思わず笑いながらそう呟くと、天馬は抗議しながら私の胸を叩いた。 翌日、大きなスーツケースを片手に、フロントでチェックアウトの手続きを行う。カウンター越しのスタッフが料金を精算し、全ての手続きを終えると彼は微笑み、こう言った。 「長期に渡りご利用いただきありがとうございました。日本を堪能頂けましたか?」 彼の言葉に私もつられて微笑んだ。 「ああ。とても良い滞在になったよ。東京は良い街だね」 初日はうんざりすることばかりで、来年からの生活が不安でたまらなかったけど天馬に会い、散歩しているうちに東京の魅力を知ることができた。一見、スマートでどことなく無機質な街だけど自然がたくさんあって、落ち着く場所がある。何より出会った人達は暖かかった。八百屋の店員は何かとおまけをくれたり、公園にいた子供たちは散歩をしていたロジェを見て目を輝かせて話しかけてきた。また駅で迷っていた私にスーツ姿の男性が話しかけてきて、道案内をしてくれたり。印象が変わったのも天馬のおかげなのだろう。 フロントを離れ、窓ガラス越しに東京の街中を眺めていると背後から肩を叩かれた。振り向くとそこには彼がいた。 「天馬」 彼が来るとは思っていなかったので、私は驚いてしまい、思わず大きな声で呼んでしまった。 「間に合ってよかった! これ!」 天馬は封筒を私に渡してきた。 「履歴書! まだ家にあったんだ。今朝実家に寄って取りに行ってきたんだよ。迷ったけどこれもなにかの縁なのかなって。それと、これも」 ポケットの中から取り出したのはキーホルダーだ。タワーの形をしている。 「東京タワーのは買ってたけど、これは別モノなんだ。隅田川リバーウォークから見えていた電波塔、スカイツリーだよ」 私は天馬と初めて散歩した日のことを思い出した。キラキラした川面、そして右手の方角を見ると、川にかかる鉄橋を走る電車。胸が熱くなり目が潤んでくるのを感じて思わず天馬から視線を外した。 「ありがとう、天馬。履歴書も、担当に渡しておくよ。……向こうに帰っても連絡していいかな」 天馬は笑顔で頷き、横を向いていた私の頬に一度だけキスをした。 「スイスでは挨拶がわりなんだろ?」 いたずらっ子のように笑う天馬。私は一瞬呆けてしまったが、お返しとばかりに彼の頬にキスをした。
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