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フミくんは私から鍵を受け取るとそのまま助手席のドアを開けてくれた。
「とりあえず、こっち座ろうか」
そう言われたままに助手席に座る。いつもの私の指定席に座ると、安心したからかまたポロポロと涙が溢れてくる。でもその涙はさっきまでの理由がわからない不思議な涙ではない。ほっとしたから、こわばっていた筋肉が一挙にほぐれたから。それが自分でもわかった。
助手席のドアを閉めてから、フミくんは「とりあえず」と言いながら運転席に座った。お父さんとお兄ちゃんと博さん以外の人の助手席に座るのは初めてだった。
「さみー!」
フミくんはそう言ってキーをさしてエンジンをかける。そう言えば外に停めていた車内は、すっかり冷きっていた。乗ったときは気づかなかった。エアコンの吹き出し口から暖かい風が勢いよく出て、指先が冷たいことに気づく。
フミくんは慣れた手付きでエアコンの操作をした。私は多分そのことが不思議だったのだろう。そんな表情をしていたのだろう。
「何度か運転したことあるんだよ」
フミくんはそう言って運転席のシートを後ろに下げる。私はいつも博さんの隣りに乗っているときのように助手席にゆったりと座ろうと思ったのに、足が思うように伸ばせなかった。
いつもの指定席なのに。私だけの指定席なのに。
フミくんは運転席でゴソゴソと動くと、ダウンジャケットのポケットから、缶コーヒーを出して「はい」と渡してくれた。受け取った缶は暖かく、両手で包み込むように持っていた。ああ、私は寒かったんだ。
「大丈夫? どこか調子悪い?」
そう聞かれて、手の中にある缶を握りしめた。冷えからきただろう指先の硬直は無くなっている。頭の中の銅鑼の音も無くなって頭痛も治っている。涙は少し前に止まった。でも不思議な方の涙はわからないので、目を擦るようにして確認した、大丈夫。足がまだ硬直するように重いけれど、これも暖房がもう少し効けばきっと落ち着くのだろう。
「とりあえず飲もうか。中から温まるから」
フミくんは口に出していない私の「大丈夫」という声が聞こえたみたいに言うと、プルトップを開けた。
ブーツの中で指先を動かしてみる。そうすれば足元から足全体も温まるかもしれないと思った。
俯いて缶コーヒーを握りしめたまま、足の強張りを気にしていた。まっすぐにゆっくり伸ばせれば、何もかもなかったことにできるような気がしていた。何もかもなかったことにしたかった。この店に来たことも、変な部屋に入ったことも、耳に当たった変な人の息も、わけのわからない吐き捨てるような声も。
もしフミくんがいなかったらと思うと、改めて背筋を冷たい感覚が走る。
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