第五章

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   どれくらいぼんやりしていたのだろう。「博さん、疲れた?」と綾美の手が腿に置かれるまで、遠い日々とその頃の感覚を思い出していた。  あの頃の私の気持ちをあらわす言葉はなんだったのだろう。嫉妬とも違う気がする。いや、フミくんに対する自分の気持ちにはっきり気づいていなかったからわからなかっただけで、あの気持ちは嫉妬なのだろうか。だとしたらそれはとても哀しく虚しい感覚のように思う。  私は本当にずっと、フミくんに対する自分の気持ちの所在がわからなかった。今もわかっていないのかもしれない。  自分が男色だと思ったことはないが、それもよくわからない。フミくん以外の男性にときめくことなど決してなかったのだから。幼い頃からずっと側に綾美がいてくれたことでわからなかっただけだとは思わない。やはり私にとってフミくんだけが特別だったのだ。  時が経ってもなぜそうだったのかということはわからない。ただ私はフミくん以外の男性にも女性にも、綾美にさえ「ときめき」というものを感じたことがなかったように思う。  幼い頃からずっと綾美に対して愛しさは感じ続けている。でもその感覚は初めてフミくんに対して感じ、彼と過ごす時間の中でも繰り返し訪れたあの感覚とは違った。自分ではコントロールすることが難しい身体の火照りや鼓動の強弱、高揚感。勉学で感じるものとは違う達成感のような安堵。そして心底に微かに眠る不安。  フミくんと過ごす時間でだけ味わうことができるそんな感覚たちは魅惑的で、だがその裏には常に呵責の念が伴っていたのかもしれない。  嫉妬という感覚についても知らないわけではない。仕事を始めた頃、自分にはできないことを難なく熟す同期を見て、また大きな仕事をとってきた後輩を見て、羨ましさと共に感じた気持ちは嫉妬だったのだと思う。  いつかそんな話をフミくんとしたことがあった。フミくんは私の話を聞いて笑いながら、「博の嫉妬は自分を高める原動力になる良い嫉妬だ」と言ったことがあった。そして彼はあの時、 「恋愛で感じるそれはもう少し醜い。でも幼いときからあやちゃんがいて、お互い想いあって夫婦になっている博は、そんな感覚を知ることはないんだろうな」 と続けた。 「フミくんは恋愛の嫉妬を知っているのかい?」  そんな私の質問に、彼は「多分知ってる」と答えた。  あの時、フミくんが思い出したであろう感覚は、学生時代の私がポニーテールに感じ、今、フミくんの様子から綾美が発した言葉に対して感じた動揺と同じものだったのだろうか。  
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