第六章

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「ビールでいいか?」  そう聞かれて頷く。 「食い物は適当に頼むぞ。奴ははずさないから」  フミくんはそう言って笑窪を浮かべる。私が好きな物を覚えていてくれたことが嬉しかった。しかもそれを口に出したことはなかったと思う。 「あやちゃんが言ってたんだ。博は冬でもまず冷奴でビールを飲むってね」  そう言ったフミくんはまた笑窪を浮かべた。おそらく私より先にうちに来ていたときにそんな話をしたのだろう。 「綾美から俺の愚痴を聞いてないか?」  私も笑いながら返した。 「聞くもんか、惚気ばかりだ」  フミくんがそう言ったときにビールが運ばれてきた。軽くジョッキを合わせて冷えた液体を喉に流し込む。綾美には「今日は会食がある」と告げてある。今頃彼女はどんな夕食をとっているのだろう。  フミくんは最近の現場でのいくつかの話をしながら、運ばれる料理を口に運んでいた。私はそれが本題でないことがわかっていたので、あまり箸が進んでいなかったようだ。 「やっぱりあやちゃんの料理がいいか?」  フミくんはそんな私を揶揄うように言ってから、二杯目のジョッキからゴクリとビールを飲んだ。そして「フーッ」と息を吐いてから「あのな……」と言って止まる。私は黙ったまま続きを待つ。それはきっと聞きたくないことなのだろう。それでも受け止める姿勢を続ける。父から教わった商談の極意だったが、これまでで一番、今役に立っているかもしれない。  フミくんは俯いたままで少し笑った。 「そういうとこだ。いつも博はそんな風だ。無理に急かさない。そんな風に待ってもらえることが俺は好きだ」  フミくんはそう言うと親指を立てて見せる。その言葉を聞いた途端、取り繕っていた余裕が崩れてしまいそうになる。もちろん友としてということであって、私の気持ちとは種類が違う、わかっている。それでもまたときめいていた。いい歳をしてと思いながらも止められない『好きだ』という言葉のパワーに圧されそうだった。 「できれば皆がそうであってくれればと思うんだけどな」  私のなかで激しく乱れる情緒には気づかずに、フミくんは言葉を続けた。 「実は……俺は生涯、結婚するつもりはないんだ」  フミくんはそう言うと話しながら指先で弄んでいた枝豆を鞘から直接プチっと口に入れた。 「……どうして?」  もちろん心ではそんなことは思っていなかった。「好きだ」という言葉のあとに聞けたひと言は今晩彼に会うまでの、いや会ってからも抱き続けていた緊張を溶かしつつ新しい疑問を湧きたたせたけれど、ついさっきまで心にあった、聞きたくない話を聞かなければいけないという虚しさは消しさられている。
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