第六章

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 ほっとした気持ちが表情にあらわれないように、わざと眉間に皺を寄せた。  「なぜ?」と私が聞く前に、フミくんは笑った。でもそれはどこか淋しげに感じる。 「そんな顔するなよ。わかっているさ、今日、うちの部長にも言われた」  またジョッキを持ったフミくんの様子を見ながら、白井部長に何を言われたのだろうと思う。 「男はさ」  フミくんはまたそこまで言ってビールを飲んだ。私はその続きをただ黙って待つ。 「結婚して家庭を持ってこそ、一人前だって」  そう言ってから笑ったフミくんの表情からは、もう淋しさも虚しさも感じられなかった。  確かにそんな風に言われている。女性にも男性にも適齢期というものがあって、その歳になっても結婚をしない者は「ふらふらしている」とまで言われた。女性の場合は「クリスマスケーキ」という言葉が使われていた。25日を過ぎると値打ちが下がると。男性の場合それは三十という年齢だったかもしれない。 「結婚すればさ、すぐに課長になれるってさ」  フミくんは今度は少しおもしろそうに笑う。 「バカみたいだと思うんだよな、俺はそんな考え。博が年齢よりも落ち着いているのが早く結婚したからじゃないことは、高校の頃のおまえを知ってる俺にはわかるしね」  確かにあの頃の教師には「若々しさがない」とよく言われた。私は昔からどこか白けて見える若者だったのかもしれない。 「まあ、出世を考えればそんな時流に乗ることも必要なのかもしれないけどな。俺は今でいい、早く役職が欲しいとも思っていないしな」  フミくんはそこで話を切ると、徐にメニューを手にする。 「ゲソ天、食うか?」  聞かれて反射的に頷いたけれど、まだ話の核心には全く触れていないことに本当は焦れていた。  通路の方に身を乗り出して店員にゲソ天を頼んでいるフミくんは、自分の話にインターバルを設けたいのだろう。私は彼が話したくなるまで待つべきなのだ。  心のなかには、もしかしたらという気持ちがある。もしかしたらフミくんも私と似た嗜好を持っているのではないかと。そしてそんな考えはまた私にときめきを運んでくる。だがすぐにそんなことはないと思う。フミくんは決して異常ではないのだ。それが証拠に何人もの女性と付き合ってきたではないか。  自分のなかに微かに起こった衝動的なものを懸命に抑えた。
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