第六章

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 その夜、フミくんに何があったのだろう。話の流れから考えると、彼は何かを見てしまったのかもしれない。  フミくんは遠い時間を思い出すように視線を泳がしてからジョッキを持って、もうすっかり気が抜けているビールを一口飲んでから手の甲で口を拭うとまた話し始める。 「テレビが点いていたかどうかは覚えていない。テーブルの上にはこれから化粧箱に詰められる小さな消しゴムの動物たちが広がっていた。お袋は黙々と箱詰めをしていた。覗いている俺には気づいてなかった。少ししてその単純作業を繰り返していたお袋の動きが止まった。そして……次の瞬間、彼女はテーブルの上の消しゴムを腕で床に払い落としたんだ。そしてそこに突っ伏して声を上げて泣き始めた」  そこまでを一気に話すと、フミくんはまたビールを飲んだ。フミくんの表情が一瞬険しくなったのは、気の抜けたビールの不味さのせいではない。それはよくわかった気がする。  子供のフミくんはその一瞬で自分たちが置かれた境遇の厳しさを知ってしまったんだろう。そして彼は何も知らずに無垢なまま親に守られている「子供」でいられなくなったのだ。 「俺は足がすくんで動けなかった。見てはいけないものを見てしまった気がして、動けたときはその場を離れて自分の布団に潜り込んだよ。今だってあの光景ははっきりと思い出す。あの時、用を足したかどうかは覚えていないのにな」  フミくんはそこまで話すと言葉を切って、また私を見てからフッと笑った。でもその笑顔が無理に作ったものだと感じたことは間違いではないだろう。 「もし親父が健康だったらお袋はあんな苦労をしなくてよかった。そしてもしお袋が親父と結婚していなければ、彼女にはもっと違った未来があっただろう。中学の頃の俺はいつもそんなことを考えていたよ。人は幸せになるために結婚するんだ。でもその結果の未来は誰にもわからない。そんなことを思う度に、頭の中にあの夜のお袋の慟哭が聞こえた」  フミくんは、またビールを一口飲むと、ちらりと私を見る。私はどんな顔をすればいいのかわからず、その場の空気を(つくろ)うこともできないでいる。そんな私を庇うようにフミくんはゲソ天に箸を伸ばした。 「冷めちまったな」  そう言うと一本をすべて口に入れて静かに咀嚼しはじめた。  彼に倣って私もゲソ天を口に入れた。まったく味がしない弾力をただ噛み続けながら、次にフミくんにかける言葉を探していた。
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