第六章

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「違うんだ、博。怪我をしたときに思い出したんだ。お前たちの存在が繭を張るみたいに隠してくれていたあの夜の光景をな。怪我をする前、俺には恋人がいて婚約も目の前だった。でも二度とサッカーができないことになって、俺はお袋の姿をはっきりと思い出した。だから恋人に『別れよう』って言ったんだ。俺のその言葉を聞いて彼女は『嫌だ』と言ってくれた。でもな、彼女の目はどこかほっとしていたんだ」  フミくんはまるで観てきた映画のストーリーを話すように淡々と自分のことを語っている。少し前に母親のことを話してくれたときとはあまりに違う話し方に、私は戸惑っていた。 「神じゃないな、彼女の選択だ。でもな、俺にそんな体験をさせたことが俺にとっては神の選択なんだよ。だって俺も彼女の目を見てほっとしたんだから……つまり、やっぱり俺には向いてないってことさ」  フッと笑ってからすっかり冷たくなったゲソ天を食べ、すっかり気が抜けたビールを飲んだフミくんの様子が清々しく見える。 「ってことだからさ、できればそれとなく伝えてほしい。社内でもあやちゃんにも。そのことで心配したり気をつかったりしなくていいってさ」  少し困ったように口角だけで笑顔を作って私を見たフミくんに、ゆっくりと頷いた。 「わかったよ、綾美にもそれとなく伝える」 「あやちゃんの気持ちはわかってるんだ。天涯孤独になった俺が家族を持つことで幸せになれるって信じてくれてる。そんな風に心配してもらえたことは嬉しい。だからそこは礼を言っておいてくれよな」  そう言って微笑みながら大袈裟に頭を下げたフミくんに 「ありがとう」と返した。  でも友達ならば本当はもっと強引に彼を説得するべきなのかもしれない。わからない未来に怯えて、避ける必要はないんじゃないかと。しないと決める必要もないんじゃないかと。 「なんかまた腹減ってきたな、鮭茶漬け頼もう。博も食う?」  ただ私に話しきったことで、肩の荷をひとつ降ろしたようにほっとして見えるフミくんに、否定的な言葉をかけることはできなかった。  私がフミくんを説得しようとしなかったのは一重にそれだけだ。そう思いながらも頭の隅のどこかでは自分自身を疑っていた。
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