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こっからが本番
それから、七嶋先生はいつも通り来て、いつも通り軽口を叩いて帰っていく。
そんな日々を繰り返して、私はバイトの最終日を迎えた。
「こんにちは、雪ちゃん」
「こんにちは、七嶋先生」
いつも通りの七嶋先生。私もいつも通りの接客。
「ご注文は?」
「雪ちゃん」
「アイスカフェラテ」
「雪ちゃん」
「………なんですか?」
いつものやり取りだと思い、注文を通そうとするといつもより少し強くて低い声で名前を呼ばれた。
「今日でバイト最後?」
「そうですね」
「ん、わかった」
それだけ言うと、注文はカフェラテでいいよ、と言って七嶋先生はそのまま渡し口に移動した。
そして、商品受け取ると、一度だけ視線を合わせて店を出ていった。
「今日もかっこよかったね、七嶋先生」
「ん……」
お別れの挨拶も言えなかったな。なんて、散々なあしらいをしてきた私が言えた口ではないけれど、無性に寂しかった。
そして、そのまま何事もなくいつも通りに私のバイト最終日は終了したのだ。
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挨拶を終えて、病院の裏口から外へ出る。
季節はもう、じりじりと暑かった7月から若干の秋模様を感じさせる8月の終わりになっていた。
期間限定のバイトだったけど、楽しかったな。
なんて、考えた時にふと頭に浮かんだのは七嶋先生。
(さよならくらい、言えばよかった)
1ヶ月間、ほぼ毎日会っていたのだ。
明日からはそれがもう無いと思うと、やっぱり寂しさを感じた。
「雪ちゃん」
ちょっとした感傷に浸りながら病院を出ようとした時、聞き慣れた声に呼び止められる。
「……七嶋先生」
なんでここにいるんですか、と問いかける前に、七嶋先生は私との距離を詰めて、人通りの少ない奥まった場所へと手を引いて連れて行った。
「突然ごめん、雪ちゃん」
「いえ…私も、挨拶くらいはしたかったので…」
「挨拶?」
「はい、今日で終わりなので…」
「それってお別れの挨拶?」
「はい、これまでありが」
「聞かないよ」
お礼を述べようとした口は、七嶋先生の綺麗な手によって優しく塞がれた。
「俺、雪ちゃんとお別れする気ないから」
いつになく真剣な七嶋先生の瞳から目が反らせない。いつもなら、軽口を叩いて、適当に流せるのに。今は、無理だ。
「悪いけど、雪ちゃんを逃す気ないから」
口元に当てられていた手はいつの間にか、私の顎を支えていて。
「っ、」
七嶋先生の形のいい唇が私の唇と重ねられた。
触れるだけのキス。でも、十分に私の心を支配した。
唇が離れて、七嶋先生の瞳の中に真っ赤になって目を丸くする自分の顔が映る。それがさらに、羞恥心を増させる。
「こっからが本番だよ、雪ちゃん」
見たことないような、妖艶な笑みを浮かべる七嶋先生。
夏の終わり、私はこの魅惑的な男に捕まってしまった。
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