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明るく広い室内に、その男は一人で居るらしい。
立ち上がって、側にある応接セットに俺を招く。
「あの、俺………、コレを所長さんに渡したら、もう帰りますから」
「東雲くんは体調を崩して休みだって? 丈夫じゃないけど頑張り屋の東雲くんにしては、珍しいね」
柔らかく日の当たる明るいデスクを離れた中師氏は、俺をさっさと応接セットのソファに座らせると自分も向かい側に腰を降ろす。
間をおかず、先刻の事務服のおばさんが俺と中師氏の前にお茶とちょっとしたお菓子を置いていった。
お茶を出したおばさんは、たぶん自分の仕事があるんだろう。
そうそうに退出して、部屋には中師氏と俺の二人きりになる。
「あの……、これ……」
「どうもご苦労様。東雲くんはそんなに悪いのかい?」
「いえ……あのぅ………、インフルエンザなんで」
「なるほど、それはちょっと出てこられないね」
あははと笑った中師氏は、俺から受け取った書類の中を簡単に改めると、内線で人を呼んでそれを手渡した。
「じゃあ俺、書類渡したんで帰ります」
「……キミが、神巫悠くん…だよね?」
「は?」
不意にフルネームで呼ばれて、俺はビックリして顔を上げる。
「東雲くんから書類を言付かってきたって事は、同居人の神巫悠くんじゃないのかな?」
「いえ……、俺がそうですけど」
「共同生活は、上手くいってる?」
「俺が東雲サンにフォローされてるばっかりですけど………。それが、なにか?」
「うん。東雲くんがね、誰かと一緒に生活出来る程度に立ち直れているようなら、安心だから」
中師氏の言葉に、俺は帰るに帰れなくなってしまった。
「それ…って、東雲サンが以前同居されていた人となんか関係あるんですか?」
思わず訊ねた俺に、中師氏は奇妙に含みのある表情を見せる。
「気になるかい?」
「………別に」
咄嗟に我を張ってしまい、ちょっとだけ後悔した俺を、まるでそれが予想の範疇だったみたいな顔で中師氏は笑った。
「キミには………そうだな。所長じゃなくて、もっと個人的なレベルって意味で話をしてもいいけれど」
「は?」
「定年も見えてきたオジサンの、ちょっとつまらない昔話を聞く気はあるかな?」
そう言って、中師氏は事務服おばさんの運んできたお茶に手を伸ばした。
猛ダッシュで帰宅した俺は、自分が仕掛けた施錠に苛立ちながら大急ぎで扉を開き、中に駆け込む。
「東雲サンッ!」
彼は俺がいない間にどうにかベッドから起きあがり、パジャマのズボンを履いただけの格好でキッチンに立っていた。
「アンタ、なんて格好してんだよっ!」
思わず叫んだ俺を、彼はモノスゴク恨みがましい目で睨みつけてくる。
「俺だって、こんなモノがなけりゃちゃんと服を着たさっ!」
グッと突き出された両手には、俺が彼を拘束する為に使ったオモチャの手錠がついたままだった。
しかし、そんな怒った顔とは裏腹に、キッチンには(そんな不自由な状態であったにも関わらず)昼飯の用意が調えられている途中で。
「ご………ごめんなさい」
なんとなく彼の気勢に押されてしまったのと、俺自身の心理が出掛ける時とはすっかり変わっていたのとで、俺は慌ててポケットを探り鍵を探し出すと彼の両手を解放する。
「は〜、やれやれ。やっと自由になった!」
両手を振って、手首をさすりながら、彼は息を吐く。
「アンタ、大丈夫なのかよ? そんな歩き回ったりして!」
「かったるいけど、ベッドで寝てたってメシは出てこないだろ?」
「なんで、逃げなかったんだよ?」
「なんで自分の家から逃げなきゃなんねェんだよ」
サラッと返事をされて、俺は泣き出しそうな気分になりながら彼に抱きついた。
「アンタ、判ってたんだなっ! 俺にアレを持たせて、所長に絶対手渡ししろって言ったのはその為だろっ!」
「あぁ? 中師サン、なんか言ったのか? 全くあのヒトもいいかげん俺のコト子供扱いしてっからなぁ! なんか余分なコト聞いてきたのかよ?」
いかにも不機嫌そうな声音に、俺は逆にビックリしてしまった。
てっきり所長と俺を会わせて話を聞かせるのが、彼の計略なんだと思っていたのに。
俺の予想に反して、今の彼の様子からはそんなつもりがカケラも感じられなかったからだ。
「中師サンは、自分が児童相談所の職員だった頃の話をしてくれただけだけど。………あのヒトの話に出てきた子供って、つまりアンタのコトなんだろ?」
「なんだよ、ひっかけかよ!」
彼はすっかりうんざりしたような顔をすると、俺の腕を解いて背を向ける。
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