夏の終わり、ラストラン

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 高校は、R駅から三つ目の駅の近くのK高に通った。  その通学途中に、恋をした。  光次郎がK駅で降りると、入れ替わるように乗っていく彼女。  色白で眼鏡をかけ、長い髪をした、おとなしそうな人だった。  本が好きなようで、いつもホームの上で、乗り込む直前まで文庫本に目を向けていた。  それから光次郎も、文庫本を買って読むようになった。  読書などしたことのない光次郎だったが、彼女と同じ趣味を持つことで、心が近づけそうな気がしたのだ。  書店で適当に手に取ったのは、武者小路実篤の『友情』。  読み始めてみると面白くて、自分でも意外にハマった。  没頭しすぎて、K駅で降り損ねそうになり、慌てて飛び降りた時、カバーをしていない本を、ドア際の車内にバサッと落としてしまった。 「あっ」 「あっ」  光次郎の声に、女子高生の声が被る。  気がつくと、初恋の彼女が本を拾い上げ、光次郎に手渡してくれた。  その顔が微かに上気していた。  光次郎は、声を上ずらせ、 「あ、ありがとう」 「……」  彼女は、目を合わさずに、でも少しだけ笑みを浮かべた顔をさらに赤くして小さく首を振り、車内の席に座った。  ドアが閉まり、動き出してからも、光次郎は、ホーム側を向いて座る彼女を見ていた。  ずっと合わせなかった目が、最後にこちらを向いた。 「あっ」  彼女の口が、そう言ったように見えた。  光次郎は、『友情』を彼女に向け、ニコッと笑うと、彼女も今度は微笑んで、自分の文庫本を向けて見せた。 「えっ……」  カバーを外して見せてくれたのは、同じ『友情』だった。  動き出す車内で、彼女は「バイバイ」というふうに本を小さく振る。  光次郎も合わせて、本を掲げて少し大きめに振った。  こうして始まった恋は、その後も続き、気がつけば、もう40年以上になる。 「光次郎さん、変わらないね」  何かドジを踏むと、今でもあの日のことを持ち出されては、からかわれる。 「女の人って、ホントに昔のことをよく覚えてるね」  笑って返しつつ、 (あの日のことは、俺も鮮明に覚えている)  と、懐かしく思い出す。 「一緒にいられるのも、あの時、光次郎さんが本を落としてくれたからだね」  そう言ってくれる妻には、感謝しかない。  今日のラストランには、妻も一緒に来るはずだったのだが、風邪を引いてしまい、都内の自宅でゆっくりしている。
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