僕だけが君を忘れない 3

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僕だけが君を忘れない 3

アサはあの日から学校に来なくなった。いつも周りに人が溢れていたアサの机は伽藍洞になって、誰もアサの名前を出さなくなった。アサと仲の良かった僕を見る目も、遠慮がちな、そして好奇心に満ちたものに変わった。もしかしたら、親友を失ってもあいつには鱗のひとつも生えてこないんだな、と思われているのかもしれない。 僕がアサをかけがえのないものだと思う心は、鱗の枚数なんかでは測れない。だから、別にどうだってよかった。 仲の良かった親同士さえ、気を遣ってか全くアサの話題を出したりしない。はじめから居なかったみたいに、アサの存在は消えてしまった。それが一番、僕にとって哀しいことだった。それもアサにとってはどうでもいいのかもしれない。だって、こんな世界のことを一番よく知っていて、だから居なくなってしまいたかったのだ、アサたちは。 雨が降らない日にだけは毎日朝夕と海を眺めに行く日々の、季節は夏から秋になった。僕は、電話をかけても家によっても出てこないアサを探していた。もし、海に還る瞬間に立ち会えたなら。魚にかわってしまったアサを見たならきっと、僕にも鱗が生えてくると思ったから。 けど、そうだよな。そんなうまくいくはずがないのだ。 ほら。やっと、やっと会えたのに、虹色の鱗に包まれたアサの掌に撫でられたって、変化が進み切っていても久々に見たアサの笑顔がなんにも変わっていなくたって、息ができないほど涙があふれて苦しくたって、僕の肌は何も変わったりなんか、してくれないのだ。 「ひさしぶりだなあ、ユウ、元気にしてたか」 そんな、普段のあいさつみたいに言うな。僕のほうがどれだけ心配したと思ってるんだ。 「もう明日はにんげんでいられないから、今日、還ることにしたんだ。」 なんで隠れてたんだ。僕と馬鹿をやるためにゆっくり魚になるって言ったじゃないか。 「この浜にはお前がいると思ったから、別の場所から還ろうと思ったんだけど」 そうだよ。ずっとお前を探してたんだ。 「やっぱりここからにしようって。ごめんな」 ごめんてなんだ。お前はいつも悪くなかったのに。 アサの掌や指は、薄氷みたいな鱗が並んでいて、秋の冷たい風に時折ひらと揺れる。キン、キン、とそれぞれがぶつかってごく小さく鳴く。僕の頭の上でその音が降ってくる。ずいぶん傾いだ細い月が、鱗の表面に虹をつくる。海がさざめく。白い波が昏く溶けていく。 久しぶりに僕たちがいっしょにいることを許された最後の夜と、もうすっかり人魚になったアサは、とても、とても綺麗だった。 「朝が来たら、いくよ」 「  うん」 「俺が言うのもなんだけどさ、ユウは、陸で手に入る幸せ全部つかんで、毎日笑って過ごしてくれ」 「…約束はできないよ。ここはお前が見切りをつけた世界だろ」 「はは、そうだよなあ」 笑って頭に手をやるアサの髪は灰色で、白い顔にもたくさんの鱗。硝子みたいな眼に、僕たちへ何度も寄せる波が映り込んでいる。夜よ明けてくれるな、と願う僕の頭の中が読めてるみたいに、アサは太陽の気配がする水平線を見ている。 空と海の境界が黄色くにじむ。終わりを察した優しい夜が身を引いていく。 「ユウ、世界は薄情だしつらいこともたくさんあるけどさ。そんなに悪いとこじゃないはずだ。 俺が先に海の底で待ってるから、なんにも怖がらず、恐れず幸せをつかめ」 「アサ」 「何もかも試してみてお前がこの世界に飽きたら、また馬鹿をやろう。今度は海の中で」 だからなるだけ、ゆっくり来い。 そう言って笑ったアサの顔は、やっぱりどう見たってアサだった。生まれたころから僕の親友であり兄弟の、たったひとりのアサだった。 アサ。アサ。 呼ぼうとするのに喉がぎゅうと締まって声が出ない。紺色の空も黄色い太陽も真白の海も、そしてゆっくり波間へ歩を進めるアサの背中も、涙で滲んで溶け合ってぐちゃぐちゃだった。その滲みの中からアサを探し出して引き留めたい気持ちが体を動かそうとする。でもこの涙をぬぐったとき、明瞭になった視界のきっとどこにも、アサはいないのだ。だから拭うこともせずにただ、水没したみたいな朝焼けを見ていた。 美しい夜が終わってしまった。あまりに綺麗な朝焼けにあやされながら。 ___ひととはなんだろう。人間らしい定義とはなんだろう。 ひとが棲む世界とはなんだろう。こころの傷が癒える場所ってどこだろう。 なんにも分からないから、僕はこうして、海へ還った親友をただ見送った。”にんげんらしく” 生きていたら、いつか僕にもわかるのだろうか。 アサを失った理由がどこかに隠れているのなら、僕はそれを探そう。そしてなにもかも分かった気になったら、アサに会いに行こう、答えを持って。 海鳥たちが起きてくるまで、僕はずっと滲んだ朝日を眺めていた。『なんにも怖がるな、なるだけゆっくり来い』 波の音の隙間から何度も何度も、アサの声が聴こえる。 陸のにんげんたちは、海へ還ったみんなを忘れてしまった。 海の人魚たちも、きっと陸のにんげんたちを忘れるのだろう。 僕は忘れない。僕だけが、アサを忘れない。
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