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僕だけが君を忘れない 2
「お前は、生きづらかったのか?」
聞いたってどうしようもないことを、それでも口にしてしまう。最初の鱗が生える前に、聞かなくてはいけなかったのだ。子供のころからいつだってころころと笑っていたアサの、こころの内側がそうではなかったことに、気づかなくてはいけなかったのだ。
なのにいまさら。自分がおかした取り戻しようのない失敗を、諦めきれないで。
「…生きるのが難しいと思ったことはないよ。俺は恵まれていたし。でも、どんなことがあっても、なあんにも感じない日が、増えてきたんだ。それって、にんげんらしくないだろ。だから人の姿でいさせてもらえないんだよ、きっと。
でもさあ。」
「お前と馬鹿をやってる時間のことを、惜しく思う。だから、なるだけゆっくり、魚になるよ」
鱗があっても、ヒレがあっても、ひとの形じゃなくなっても、アサはアサだった。僕にとって唯一の、親友であり兄弟だった。
世界は、こころの傷が丸見えになったヒトたちの居場所を作ったりしない。町の人たちもテレビに出ている人たちも、みんな「人魚たちは、それでいいんだ」と言うのだ。僕は嫌なのに。それじゃ絶対に嫌なのに。
夕方のニュースの中継で、どこの誰ともしれない ”人魚” が沖へ向かいゆっくりと、波間に消えてゆく。
その一度も振り返らない背中を見て、まるで「大昔に地上にあがってヒトになったことは、失敗だった」と言っているような気がした。
彼らの変化を「退化だ」というひとがいる。でも僕にはそれが、「こころの平穏をめざすための進化」に思えてならない。
昼間のアサの言葉がぐるぐると回って、寝付けないでいる零時半。シーツの波間に横になって、想像してみる。
明日になったら、アサは人魚になっているかもしれない。
明日になったら、アサは海へ還っていくかもしれない。
アサがいない世界は?
アサがいなくなったことを気にも留めずに、廻っている世界は?
目を開ける。天井を微かに照らす街灯の明かり。
アサは進化して、こんなにもつまらない世界から、旅立つんだな。
だからどこまでもつまらない僕には、引き留めることができないのだ。
朝がくるのを待ちきれないで、まだ微睡む町を歩く。「人が人魚になって海に還っていく」という現象が起きるようになってから、仕事以外で海へ近づく者はいなくなった。とりわけ、まだ薄暗いこんな時間には。
僕はそんな朝夕に、海を眺めるのが好きだ。アサにはただ「綺麗だから」といっていたけど、”アサが還ろうとしている場所” が本当に素敵な場所なのか、僕は確かめようとしているのだと思う。
_____ 朝日が海の下で目覚めかけている。水平線の際が黄色く揺らめく。朝の気配を感じた波たちがさざめく。夜のとばりが静々とあがっていく。薄らかになった星々が宇宙へ帰っていく。
綺麗なばしょだなあ。
安直な幼い感想しかでてこないけど、きっとそれでいいのだ。余分なこと何ひとつない、ただ綺麗な、そんな場所にアサはいつか還っていこうとしている。弱い人たちが海へ逃げていくんじゃない。きっと鈍感な僕たちが、置いていかれているのだ。
きっと大丈夫だ。アサはきっと大丈夫。
あいつはいつも明るくて大きくて、みんなの中心にいた。なにもかも大したことないって笑って、なんでもこなす奴だった。
だからきっと海の底でも、楽しくやるのだろう。アサはきっと。
_____じゃあ、アサがいなくなったら、僕はどうなのだろう。こうやって膝に埋めた顔のあげ方すらわからないで、蹲って白んでいく地面を見つめるしかできない僕は。
神様、僕はぜんぜん大丈夫なんかじゃないんだ。アサと一緒にいたいのに叶わないなら、僕も魚にかえてください。
つぎつぎ涙が頬を伝って口へ入ってくるのが鬱陶しい。泣いたとき、涙が海とおんなじ味がするのは、存外みんな、海に還りたいからなんじゃないのか。ほんとはみんな、ひとでいるのは苦しいって、思ってるんじゃないのか。
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