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僕だけが君を忘れない 1
それはある日突然だった。
目の前のよく見知った人物の肌に、きらめく "鱗" が現れる。そんな現象が、世界全土で突然始まったのだ。
鱗が生えた本人も見ていた他人もみんな、狼狽えた。性別、人種、年齢、病歴、それらなんの規則性もなく、たくさんの人々の"変化"がはじまった。割と早い段階でその現象はウイルスや感染といったものとは無関係であることが証明され、「いつ自分も発症するか分からない恐怖」という点においてのみ、初めて人類は平等になった。
そして現在に至るまで、そのメカニズムはほとんど何も解明されていない。けれどこの病のトリガー、あるいは種となる要因だけは、随分と時間をかけてから、見つかった。
それはふと心に湧き上がる、「生きづらさ」という感情である、らしい。
「生きづらい」。はじめは小さいその種が少しずつ大きくなっていき、いつしか自分の器から溢れると、それは涙ではなく鱗になった。ひとでいられなくなったひとたちには、鱗が生えて、重症化すると指がくっつき、そしてヒレになる。
進化論や生態系を冒涜するようなその "変化" が一体何のために起きるのか、誰にも分からなかった。
連日、とうに飽いたニュース報道が今もなお続く。
「本日の目撃情報です。○○湾より1名、
○○港より2名の"人魚"が、海へ還りました。」
ひとでいることに疲れ果てて生きづらさを感じたとき、ひとの体は少しずつ魚へと変化していく。ゆっくり、ゆっくり、柔肌と一緒に社会への未練を手放していき、最後に鱗が全身を包んだら、海へ還っていく。
いつも笑顔だった人の腕に鱗が現れた時、みんな困惑して目を逸らした。
気楽そうに生きていた人の額に鱗が現れた時、みんな馬鹿にして笑った。
それは不可逆で、一度発症したらもう治らない。カウンセリングなどで "変化" の速度を緩めることはできるけれど、「ただの人間」に戻れることはない。生えた鱗は決してなくならない。
「ひとであること、社会で生きること」そのものに傷ついてきたすべての人が、心の傷を、もう誰にも隠すことができなくなったのだ。
人魚とは。かつて神話のなかの美しい生き物だった。
いまや人魚は「社会不適合者」たちをさす言葉であり、
人の形でいることこそ、「幸福なひとの象徴」となった。
なんてことのない、ありふれた夏の日。
「ああ、毎日暑くてだりぃなあ」
本当にダルそうな声色で、目を細めながら空を仰いで、真横にいる男はそういった。
潮風に揺らいだ前髪からのぞく額と目尻に、きらきらと虹色に反射する、薄氷みたいな鱗が光る。
こんなにもうだるような暑さと日差しだというのに、そいつの肌は生白くて、汗ひとつさえかいていない。
「…夏は好きだよ、アイスがうまいから」
そんな、僕の心に暗い澱みをつくる何もかもから目を逸らして、濃い影の落ちる地面を見つめる。僕だけが汗をかいていてシャツの襟もとが不快で、なるだけ小さな動作で首の汗をぬぐう。
「アイスかあ。奢ってくれるなら食べについてってやるよ」
「やだよふざけんな」
嘘だよ自分で買うから食いに行こう。そう言って、アサが笑う。“かつて“ 誰からも愛された、打算のない朗らかで美しい笑顔だった。
「俺はこれにするー」
小さな港町の、小さな売店。軒下に入ると視界の暗転にくらくらとして、目を閉じると瞼の向こうから声が聞こえる。見なくたってアサが選んだアイスがわかる。きっと、パックに口をつけて吸うタイプのバニラアイス。
「お前いつでもそれだなあ」
「好きなものはひとつあればいいんだよ。それにこれ、蓋ができるから、助かるんだ」
手に持ったアイスを伏せた目で見るアサに、僕は何も言えなくて、売店のおばあちゃんに2人分の小銭を渡して店を出た。
「ごちそうさま」
「いいよ」
みかん味の棒アイスをかじる僕を少し見つめて、そしてゆっくり自分のアイスの蓋を開けて、アサはわずかに口に含んだ。そして僕に気づかせないようそっと、静かに蓋を閉める。
______遠い昔、僕もアサも小さかった頃を思い出す。
暑い夏。2人とも汗だくになりながら駆け回った海岸の、その縁で笑うアサの笑顔は黒く日焼けて、半分こしたアイスを奪い合うみたいに、大笑いしながら食べたものだった。
幼馴染、というよりは、僕たちはずっと兄弟のようだった。
汗をかかないアサの代わりに、アイスのパッケージから結露が落ちていく。
もう、何もかもが戻ってこない。
「……ユウもさ。無理に俺といることないよ。変な目で見られるだろ」
そういったアサの顔を見ることができない。さっきの売店の、アサを見るおばあちゃんの目を思い出す。
僕は怒っている。アサにじゃない。誰に対してなのかわからない怒りを鎮めることができなくて、こんな顔でアサを見つめ返せない。
「僕がつるむ相手は僕が決める」
「はは。お前は優しいよ。昔から」
アサがへらっと笑う。
「……でもさ。もう俺も、いつまでここにいられるのかわからねえし。今だって “ひとの真似事” してるだけでさ。なんか違うなって、ずっとわかってるんだ」
アサの掌の中で、消費されなかったアイスが溶けていく。指に並んだ虹色の鱗を、結露が濡らしていく。止め方のわからない涙が、どれだけ眉間に皺を作っても流れていく。僕がどれだけ泣いたってアサは困ったみたいに笑うだけで、それがもう一度悔しくて、棒アイスが溶けて地面に落ちるまで、僕は子どものようにわんわん泣いた。
どうしてあんなにもみんなから愛されたアサが、いつか海に還ってしまうのだろう。
どうしてみんなはあんな顔で、アサを見るのだろう。
「ごめんな」
何にも悪くないアサが謝るのを聞いて、こんなに喉と心臓が痛いのに、どうして僕には鱗のひとつも、生えてこないのだろう。
僕には、何もわからない。
だからお前のことも、見送ることしかできないのだろうか。
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