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§ § §
江那堂男爵邸の厩舎の上に、日は傾きつつあった。
本来こんな裏手に来ることはない男爵令嬢の姿に、馬丁たちがぎょっと手を止める。
楓次が馬車輓鞍を肩にかついで運んできた。
十子に気づくと、彼は露骨に面倒そうな顔になった。
「なんかお急ぎのようですみませんが、もうちょっと待っててもらえません? ちゃんと車寄せまで回しますんで」
使用人にあるまじき態度だが、十子はこの種のことは気にならない。
むしろ手間がはぶけてありがたいくらいだ。
「その時間がなければ、もっと早く発てるでしょう?」
かしこまりました、と言いつつ肩をすくめ、楓次は馬車の準備に戻った。
十子はぼんやりと、遠く浮かぶ富士山に目をやった。
昔、窓に同じような姿を見ていた子供部屋の記憶がよみがえる。
二階の角で夕日がまぶしい部屋だったが、いまとなっては失われた日々への懐かしさが先に立つ。
「──準備できました、どうぞ」
呼びに来た楓次の声に、十子はわれに返った。
第一御者はすでに御者台にいて、楓次が踏み台を差し出した。
いつものように馬車へ入ろうとした、そのときだった。
「うわっ!?」
御者の声と同時、馬車が激しく動いた。
十子は投げ出された。
「危ない!」
とっさに楓次が支えてくれたものの、ずきりとした激痛が足に走る。
経験したことのない痛みに、反射的に涙がにじむ。
がらがらと遠ざかる蹄と車輪の音と御者の声が頭に響いた。
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