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「まったく仕方ねえな。こっちだ」
尤雄は身をひるがえした。
「ちょっ、待って!」
まだ洋装の裾裁きは難しい。尤雄の遠慮のない速足に遅れそうになる。
ち、とまた舌打ちが聞こえた。
「つくづく仕方ねえな」
尤雄は筒袖の裾ですばやく手をぬぐうと、ぐいと縲の手をひっぱって歩き出した。
がさついて大きな、温かい手だった。
そのままぐるりと建物を回った尤雄は、こぢんまりとした通用口のところで縲を待たせ、すばやく中をうかがった。
ふりむいて、小さくあごで合図する。
「右に行って、つきあたりを左だ。それでホールに出る」
見かけも態度は不愛想きわまりないが、助けてくれた恩人には違いない。
縲は力強くうなずき、礼を言った。
「ありがとう、ごめん」
尤雄はわずかに眉を動かした。
「おれと会ったとは絶対に口外するな」
早口ながらも歯切れよく忠告すると、尤雄はすぐさま立ち去った。
邸内に戻って通用口の戸を閉めて、縲は息をととのえた。
切り抜けた──そんな安堵と同時に、ひとつの疑問がむくむくと湧いてくる。
(……三里子爵夫人が言ってた書生って、本当にあれ?)
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