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尤雄はやはり何も言わなかった。
少しばかり不安になって、そしてそんな自分が情けなくて、十子は応接間の窓を見やったまま苦笑した。
「──でも、あなたはそうは思わないのでしょうね」
そのとき、遠くから明るい大声があがった。
「あ、いた、尤雄くん! おーい!!」
不愛想な園丁への親しげな呼びかけに、十子は驚いてふりむいた。
第二御者と馬丁を兼ねる宮芝楓次だった。
楓次は十子を見ると目を丸くし、それからぺこりと頭を下げた。後ろでくくった髪が遅れて揺れた。
「これは失礼しました。尤雄くんしか見てなくてですね」
無邪気な笑顔とともに、受け取りようによっては失礼なことを平気で言う。
雇って半年足らずだが、もう何年も江那堂家にいるかのような──それどころか実家のような──遠慮のなさだ。
「いい酒を出す蕎麦屋を見つけましたんで、ひとつ尤雄くんに奢ってもらおうかと気が急きまして」
「……お給料は十分にあげていると思ったけれど」
「ええ、いただいてますよ、ありがとうございます。でもですね、世のなかいろいろ入用でして。その点尤雄くんは堅造──あ、いえ、おれなんかとは人間が違って高潔で、無駄遊びなんて一切しない立派な青年ですから。その煙管も、煙草を吸うためじゃないんですよ」
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