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正直に言えばまったくない。
単にこれから盗まなければならない物というだけで、何がどんなふうに描かれていようとどうでもいい。
だが、焚火から感じるほのかな熱とこの男爵令嬢が地理学者の肖像画に特別な愛着を持っているという認識が、なぜか急に最近の記憶を掘り起こした。
その事実に、尤雄は珍しく動揺した。
「いえ──単に思い出したことが」
「何かしら?」
酒蒸し饅頭、とはさすがに答える気になれず、尤雄は不愛想に目を伏せた。
そもそも饅頭よりもさらにあざやかに思い出したのは、それを渡してきた相手とその理由のほうだ。
いっそう言えるわけがない。
「くだらないことです」
「あら、いいじゃない。聞きたいわ」
人から心配されたという不慣れな記憶がよみがえった途端に、落ち着かなくなってきた。
尤雄は焚火に目を据えたまま、十分に燃えていた火を意味もなくさらに掻き立てた。
「もう忘れました。すみません」
「……そう」
十子が立ち去った。
雇われ者として男爵令嬢を見送ったあと、尤雄はまた新たな落ち葉を焚火に掃き寄せた。
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