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『エリィの呪縛』。
22世紀の女性遺伝学者、エリィは『私たちは宇宙の飛べない鳥たちに過ぎない』と語った。
『我々の背中には開拓精神と高度文明の誇るべき両翼がある。だがその翼は地球に飼い慣らされ、宇宙の深淵を目指すにはあまりに脆弱である』と。
人体は弱く、大宇宙を渡るに力が乏しい。人類の宇宙進出を語る上で常につきまとう、まさに呪縛だ。
――西暦 2382年、火星。
《おい、そろそろ接続解除の時間だぜ》
ごった返す作業現場、ルースターの肩を無機質なアルミ合金の腕で背後から軽く叩いたのはオーストリッチだった。
《 充電が切れないうちに戻らねぇとよ》
《おっと! では、戻りましょうか》
ルースターが軽いモーター音とともにゆっくりと立ち上がった。彼もまた、オーストリッチと同様にアルミ合金の同じ外装だ。
違うのは背中と胸に大きく記されたコードNoだけ。オーストリッチが『22』で、ルースターが『105』。視覚で相手を特定し易くする工夫である。
地表を見下ろす高い作業足場から外に出た先で、荒涼な平原に沈む夕日が二人を仄暗い藍色に染めあげる。
《素晴らしい眺めだ。宇宙の最先端を行く者の特権だな》
オーストリッチが足を止めた。
《そうですね。人類はここまで飛べたんだと実感しますよ》
ルースターがオーストリッチの横にならんだ。
《火星ならではの風流だなぁ。はは……俺たちは遠隔体だから、出来れば肉眼で見たいんだが》
オーストリッチの肩が少し下がったように見える。
《そうしたらもっと別の何かが見えるかも知れねぇ》
そう。過酷な環境である火星ではリモーターと呼ばれる遠隔操作の人型ロボットが活動しているのだ。
火星車両で15分ほど走って、ルースターたちは前線基地へと戻って来た。
《……さ、早いとこ接続終了しないとな》
戻ってきたリモーターたちが各自の充電台に乗り、腰のコネクタにケーブルを取り付ける。そして『意識』は火星を離れ――。
「……『戻った』か」
ルースターがリモーター操作用のシートから身体を起こした。
ヘッドプローブを脱ぎ「ふぅ」とひとつ溜息をつく。短く刈られた黒髪が僅かに汗ばんでいた。
この仕事に就いて3年。慣れない当初はリモーター酔いに苦しんだが、最近は『現実感』に慣れるのに時間が掛かる気がする。その横で。
「あーあ、『実感』がダルいよ。俺ももう限界が近いかもな」
少し前に戻ってきたオーストリッチが気怠そうにしている。
「……」
ルースターはその独り言に聞こえないふりをした。
リモーターは脳神経とシステムを同期させる副作用で、長く使うと離人症(現実感が希薄になる症状)を起こす。
オーストリッチはルースターの2年先輩だからそれだけ症状も強いのだろう。医師から限界と判定されれば二度と彼の言う『宇宙の最先端』へは行けない。
苦楽をともにしてきた尊敬する先輩だからこそ上っ面な返事はしたくないが、さりとて何と言えばいいのか。いい言葉が見つからない。
「実感、か」
ルースターが自分の掌を見つめる。確かにここは現実世界だ。だが同時に『非日常』でもある。
何しろここは月支援基地なのだから。
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