14. 結節点

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 高原の朝は早い。    特に用事はないのだが、荒井(あらい)(たる)()は早起きした。風呂付き1LDKの住居を出てその辺をブラブラする。業務時間ではないが、ついでに変わったところはないか所々で目を遣ってしまう。 『そろそろ蛇も出やがるからな』   敷地内は草を刈っているし、足日が散歩するような周辺はこざっぱりしたものだ。蛇でもいれば目立つしあまり見ないのだが、用心はしている。  啓蟄は疾うに過ぎ温んだ風に蕾も膨らんでくる頃ではあるが、最近まで朝はまだ身体が冷えた。それが今日はどうだろう。  虫でも蛙でもミミズでも喜んで穴から這い出てきそうな、柔らかな陽気である。 「暖かくなる時も寒くなる時も急だよなあ」  背筋を伸ばし、空を見上げる。巨大なそれに押しつぶされそうな気がした。無限の球体が今にも落ちてくるのではないかと思う。ここにいると、天を支える巨人がいると想像した昔の人の気持ちが分かる気がする。 『東京には空がない、ね』  そこしか覚えていない、と或る現代詩の一節を思い出した。  老年といっていい年代の荒井足日は、ある企業の保養施設の管理人をしている。ついこの間までは役員が家族旅行に使っていた。居る間は食事提供やらなんやらで忙しかったが、いなくなってしまえば今の時期は雪の世話もいらず気楽なものだった。  いや、今も施設を使っている人間はいるにはいるのだが。 『でも、いるのかいねえのかわかんねえとこあんだよなあ……』  ある日突然、何の連絡もなく社員の女性が連れてきた人間である。顔は見ていない。  社員は大和兎とかいう名前の、何かの雑誌を作っている人物らしい。えらく仕事が出来て出世頭らしいが腰が低く、足日の印象は良かった。  とはいっても、彼女の仕事についても人柄についてもほとんど何も知らない。足日はこっちに来てから雑誌はおろか、テレビもネットもラジオにも一切触れない生活をしている。ほとんど仙人か世捨て人のようなものだ。 「へっ、露まで春らしくなってやがる」  自宅兼管理人室に帰ってくる。足元が朝露でビショビショになっていたが、不思議と不快感はなかった。冷気がほどけたような、じんわりとした穏やかなしめりだった。  再び、現在施設を使用している謎の人物のことが脳裏をかすめる。アポイントなしでいきなり泊まりに来る人間がいること自体はそう珍しくはなかった。  こういってはなんだが、だから一年中二十四時間自分のような者が住み込みの管理人として雇われているのだろうと思う。おそらく人の世にほとんど興味がない性格も採用された理由の一つなのであろう。  しかし、今回のようなケースは初めてである。あの人物が来てもう結構経つが、なにせまだ顔を見たことがないのだ。  管理人室よりはよほど立派だが、似たような別棟の一軒家を一人で使っている。食事の準備もいらない、掃除もその他のお世話もいらない、とのことで足日としては安楽で結構なことなのだが、さすがに気にはなる。  食べ物は配達でどうにかしているようだった。足日は今のところ出てくるゴミの始末をしているだけである。  実在を疑うこともあったが、時々医者が訪ねて来るので居るのは確かなようだ。それに一応安否確認として、一日ごとに色の違う人形が二階のとある窓際に置かれることになっている。  まあ人形はちょっとしたサスペンスのようで失笑したくなるところもあった。それは置いておくとしても、中の住人には外との連絡手段もあるので、そこまで心配しなくとも良いと足日は言われている。  そういえば兎は〝親戚の子が心の病気になって引き籠ってしまったので療養のため〟に連れてきたと言っていた。〝だから出来るだけそっとしておいてほしい〟とも。  それを聞いた時、足日は素直に気の毒にな、と思った。まだ若いだろうに。  街育ちの自分が、今こんなところで隠者のような暮らしをしているのも、だいたい似たような動機なのだ。病気とまではいかないが、とにかく人の群れが嫌になったのである。群れになった人、というべきか。 『何歳くらいなんだろうな……』  ぼんやりと思いを馳せながら、簡単な朝食を掻き込む。体調を維持するためだけの義務のような食事だった。  後は午前中の分の施設の点検・掃除をしてしまえば、しばらく時間が空く。  さて何をして過ごそうかと考えていたところに、来客があった。
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