最果ての地

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「ア、アンファンは……?」 「お子さんは予断を許さない状態です。けれど必ず助かります。……救けてみせます」  少女の眼に光が宿る。小さく、確かな輝きが。  外套を脱ぎ、片隅に畳んで置くと、左腕の手甲をアンファンに向ける。  奇妙な道具だった。流線型のフォルム、乳白色の手甲だ。武具というには装飾が凝り過ぎている。しなやかな茎、瑞々しい葉、咲き誇る花々の意匠は確かに美しいかもしれないが、無骨な武具には過剰な装飾など何の意味もない。  そもそも、なんで医者が手甲を? ”都”には”フラメス”を活用し、数々の奇跡を起こす超技術があるらしいが……。 「ぶ、武器……?」 「医療器具です。……『テミスティア』、応急処置態勢」  菫色の爪、指先が滑らかな表面を撫でる。楽器を操作する様な、繊細な手付きで、指を滑らせ、表面の突起を押し下げる。  接触操作に呼応して、手甲の先端が開き、緑色の光が溢れる。  ミラが開口部分を少年の胸元に向けた。 「ちょっと何を……」  まるで、少年を撃つ構え。女性が再び困惑し、蒼褪める。  ミラと少年の間に、静かに立ち塞がる。 「私は医師です。信じて、くれますか?」  少女は少年から目をそらさない。  その横顔に暗い翳も冷たさも感じられない。  一呼吸、二呼吸……十に満たないうち、女性は静かに動き、ミラの傍らに立った。 「塗布(アプリケーション)」  淡い緑色の、粒子が手甲から迸った。母親の目に映るのは、優しい雨。  光はベッドごと少年を覆い尽くすと、程なく消えた。 「アンファン!」  母親の叫び。その目は、奇跡を余さず写し取っていた。  少年の身体に深々と食い込み、蝕んでいた紫の斑点は、粒子が触れた所から薄れていき、小さなものに至っては跡形もなく消えた。苦しく歪んでいた寝顔は穏やか、寝息は安らかだ。 「ミアズマ抑制剤……あくまで応急処置です」  母親は膝から頽れた後、両手で顔を覆った。その体が小さく震えはじめた時、医師の少女は彼女が思ったよりもずっと細い事に気付いた。 「ひとまずは抑え込めましたが、第七深度だと完全な”浄化”には……」 「ああ……ありがとう、ありがとう!」  冷静な説明にも構わず、女性はばっと少女の手を取り、涙ぐみながら何度も頭を下げ、感謝を述べる。  少女の顔に微笑が浮かんだ。 「アンタは命の恩人だ……ミアズマだけを抑え込むなんて、さぞかし高度な術式なんだろう? アンタか”書いた”のかい?」 「ええ……まあ。全てテミスティアのおかげというかなんというか」 「……? 全て?」  照れくさそうに、ミラは言い淀む。治療の時の、凛々しい様子はなりを潜めたかのように、年相応の少女がそこにいた。  そういえば、この少女から”フラメス”の流れを感じなかったと、女性は眉を顰める。 「アンタ……ひょっとしてフラメスを使えないのかい?」 「……ご存じなんですね。フラメスの事も、ミアズマの事も」  今度は女性が言い淀む番だった。 「……昔、都で働いてたからね。多少は知識があるのさ」  この星の全ての生き物は、通常の生命活動内で摂取できる栄養素の他、定期的に”フラメス”という物質を取り込まないと生体活動を維持できない。  そしてフラメスはこの星のありとあらゆる物質に存在する。  それだけではなく、フラメスを、意志や本能を以て用いる事で、起こりえない数々の奇跡を発現し、全てのものに恩恵をもたらすという。内在するフラメスの量、流量や方向性を操るセンスは個体差こそあれど、卓越したフラメス使いの中には、天変地異を引き起こし死者の復活を成し遂げた者もいたと、伝承には語られている。  もはや過ぎ去ってしまった時間の向こうで、女性はそう教わった事を思い出していた。  目の前の少女は命の恩人だ。文字通りの奇跡を引き起こし、息子を死の淵から掬い上げてくれた人。それは疑いない。  フラメスの流れが感じられなかったからなんだというのだと、女性の感情が僅かな心のささくれをねじ伏せる。  理性は、僅かな流れすら触れえなかったのは何だと、静かに告げていた。  極端に少ないのではない、何もなかったのだと。 「……フロー看護院では、特異体質だって言われました。極めて珍しい症例だって。とにかく、お子さんの”完全浄化”には専用の設備か、高位の術者が必要で、それは看護院に…………失礼、何か聞こえませんか?」  ミラの言葉は途中で途切れた。女性が窓へと駆け寄り、すぐさま開け放つ。  新鮮な夜気が入り込み、部屋中を撫でた。  闇に包まれた草原の中、夜を駆逐するかのように炎を揺らめかせ、人々が蠢いている。   「あれは……下の村の人達?」  ミラの呟きに、女性が血相を変える。
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