最果ての地

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 ぐぅええええぇぇぇ。  その場にいるもの全てが弾かれたように音の源、崖の向こう側の暗闇を見た。 「な、何!? 山羊!?」 「……この鳴声、まさか」  ミラが僅かに浮足立つ。少年騎士は微動だにせず、目を細めた。  前触れもなく、深淵から粘然と轟いてきた蛮声に、草という草が震え、ヨランが、人々がにわかにざわめき始めた。  崖の下から、大きな、黒いものがぬっと盛り上がってきた。  雲は晴れ、月明かりの下、浮かび上がるのは、巨大な、大人の背丈ほどもありそうな、山羊の頭。夜闇に一対の眼球がじとりと燃えて、人々を見据えている。頭頂から聳えるは、捩れた王冠の如き角。  轟音が連続する。 「登ってきてるのか……!?」  誰かの呟きが伝わる、生きものが絶壁を這い上ってきているのだと。  理解は即座に恐怖へと変じた。  悲鳴が上がる。薄汚れた男が一人、村人の群れの中から駆け出してゆく。崖とは反対の方向へ、怪物から離れる様に背中が遠ざかってゆく。  一人の逃走は呼び水となり、考えるよりも早く、その場に居た全員が蜘蛛の子を散らすように、崖から、ヨランの家から逃げてゆく。  火の手が上がった。放り捨てられた松明が、草原に燃え移ったのだ。  炎が、夜を赤々と照らし出し、怪物の全身を露にした。  頭部に比例して上半身は鯨よりも巨大、甲殻に包まれた前肢はエビやカニを思わせるが、余りに長大すぎる。下半身は足腰に代わる十本の触手が蠢き、ゆっくりと、絶えず絡み合っている。  海棲生物特有のぬめりが体毛から滴り落ちている。まるで百万の海生が腐り果てたような悪臭の汚濁が、鼻の穴にぶちまけられたような衝撃だ。  ヨランがえづき、その場に蹲る。彼女の腕の中で、少年もガタガタ震えている。ただでさえ蒼かった顔色はもはや白紙。生気が消えかけている。 「バ、バケモノ……ッ」  もはや震える事しかできない母親の身体に、二つの影が落ちた。 「予め断っておくが、私はより大きな脅威への対処を優先しただけです」 「ヨランさんごめん……ちょっと待ってて。アイツ追っ払ってくるから」  少年と少女は、ミアズマの海獣を前に、臆することなく立つ。  対峙ではなく、救けを求める者を守る立ち姿。  騎士の少年は背後へと僅か、ほんの僅か振り仰ぎ、首を傾ける。  少女は笑顔を見せ、すぐに怪物へと向き直った。
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