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――宏樹がいなくなって数日が過ぎた。
村人たち、特に年寄り連中の反応は顕著だった。彼らは宏樹のことを、カジリ様に祟られた哀れな男だと口々に噂した。
涼香は不安な気持ちをなんとか押し殺しながらも、必死に平静を装っていた。幸いなことに拓海は普段通りに過ごしている。
そのことに救われている部分もあった。
(宏樹さん、どこに行っちゃったのよ)
拓海の前ではいつも通りに振る舞っているものの、内心では不安で押しつぶされそうだ。
涼香は溜息交じりに窓の外を見る。さんさんと降り注ぐ太陽の光が、恨めしく思えた。こんな暑い日だと言うのに、拓海は元気よく遊びに行ってしまった。あの子供たちと一緒に遊ばせるのは心配だったが、今日は両親がちゃんと拓海のことをちゃんと見張ってくれると言って一緒に出掛けて行った。今、家の中には涼香一人きりだった。
静かな空間に一人でいると、なんだか心細くなってきてしまう。
中学生の頃から、宏樹は涼香をよく気にかけてくれていた。彼に告白され、同棲をはじめ、拓海を授かり、幸せな日々を送ってきた。
そんな彼が、カジリ様の森へと足を運び、姿を消した。
確かに宏樹の様子が少しおかしいことには気づいていたが、まさかあそこに行って何か良からぬものに憑かれてしまったのだろうか。
そこまで考えて、涼香はぶんぶんと頭を振った。
「何考えてるのよ、私」
自分に言い聞かせるように言う。宏樹はきっと見つかるはずだ。彼は自分を置いてどこかへ行くような人間ではないのだから。
(そういえば)
涼香はふとあることを思い出した。
あの日宏樹はどこかへ出かけており、夜になってようやく帰って来たのだ。どこへ行っていたのかも詳しくは教えてくれなかったし、何より宏樹の様子がいつもと少し違ったことが気になってはいたが……まさかそれが今回の失踪に関係しているのだろうか?
夫婦なのに、自分は彼のことを何も知らないのではないか。そんな風にさえ思えてしまい、涼香はもやっとしてしまう。
彼は昔を懐かしむために散歩へ行ったと話していた。もしそれが本当ならば、彼の足を運んだ先は一体どこだったのだろう。
宏樹の行き先について、もっと詳しく聞くべきだったかもしれない。
涼香はいても経ってもいられずに家を飛び出した。
まず最初に訪れたのは、涼香たちが通っていた中学校だった。今は夏休みだが、部活動のために登校している生徒の姿もあった。昔を懐かしむために村を散歩していたのなら、もしかしたらここにもやって来たのではと思ったのだ。けれど聞き込みをしてみても、宏樹が学校を訪れたという情報はなかった。
他に彼が立ち寄りそうな場所はどこだろう。涼香は必死で記憶を手繰り寄せる。そして、自分がひどく単純なことを忘れていたのだと気が付いた。
「宏樹さんの……家……」
彼の祖父が生きていた頃、二人で暮らしていたというあの古い家。もしかしたら宏樹はそこに行ってたのかもしれない。
涼香はさっそく、かつて彼が過ごしていた家へと足を運んだ。
そこには今はもう誰も住んでおらず、すっかり荒れ果ててしまっていた。庭には雑草が生え、瓦屋根も所々剥がれてしまっている。本当にここに人が住んでいたのか疑ってしまうほど、ひどい有様だ。
中学生の頃に一度だけこの家を訪ねたことがあった。あの頃はまだ綺麗で生活感があったのに、ずいぶん雰囲気が変わってしまったものだ。
さてどうしようと涼香は考える。鍵もかかっているだろうし、開いているにしてもさすがに家の中に入ることは躊躇われた。
「あんた、その家に何か用かい?」
突然声をかけられて、涼香はビクッと肩を震わせた。振り返ると、そこには白髪混じりの初老の女性が立っている。どこかで、顔を見たことがあるような気がする。
涼香が記憶を辿っている間にも、女性は怪訝な目を向けてくる。
「そこにはもう誰も住んじゃいないよ」
「ええ……それは、知っています」
涼香は動揺を隠しながら答える。
「ただ、夫が昔この家に住んでいたもので」
「ああ、あんた……風間さんとこの孫のお嫁さんかい?」
「は、はい。そうです。夫がいなくなってしまって、何か手がかりはないかと思って」
涼香が慌てて説明すると、女性は憐れむような表情を浮かべた。
「あの子も気の毒にねぇ、きっとカジリ様に」
「この辺りで夫の姿を見かけませんでしたか?」
相手の言葉を遮って、涼香は問いかけた。どうせまたカジリ様や祟りについて言われるのは目に見えている。
「悪いけど、見てないよ。それよりあんたが風間さんとこの嫁なら、ちょっと頼みがあるんだけど」
「え?」
涼香は目を丸くする。
「悪いけどうちまで来てくれないかね? すぐそこだから」
相手の口調は有無を言わさないものだった。涼香は断ることもできず、彼女の後について行った。
女性の家は風間家の隣にある、古い平屋の一軒家だ。狭い玄関で待たされている間、涼香は過去の出来事を思い出していた。
昔宏樹の家を訪ねた時に、彼の祖父に会いに来た大沼という女性がいた。彼女はカジリ様の怒りを恐れて宏樹の祖父に何やら詰め寄っていた。
あの女性は、その時の女性だったのだ。
「待たせたね」
大沼が玄関へ戻って来た。手には小さな段ボール箱が抱えられている。
「これをあんたに持って行って欲しいんだよ」
「何ですか、これ?」
涼香が尋ねると、大沼の表情が曇ったように見えた。
「……あの爺さんの遺品だよ。今までずっと預かっていたんだけど、邪魔になるし引き取ってもらおうと思ってね」
「遺品ですか?」
涼香が訝しげに聞くと、彼女は溜息をついた。
「ここだけの話、うちはつい最近泥棒に入られてね」
「え……そう、なんですか?」
「その時に盗まれかけたのが、この荷物だよ。こんな不気味な物いつまでも持っておきたくなかったんだけど、処分するわけにもいかなくてね」
「それで、私にこれを?」
「他に頼める相手もいないし、悪いけど持って行ってちょうだい」
「は、はい」
涼香は戸惑いつつも、その箱をしっかりと抱えた。思っていたよりも軽い。一体何が入っているのだろうか。
「なぜお爺さんはあなたにこれを?」
「さあね。私には何にも教えてくれなかった。あんたも不気味だろうし、さっさと捨てちまったほうがいいよ」
「はぁ……わかりました」
涼香は戸惑いながらも頷いた。
「それと爺さんには、そいつを孫にだけは見せないようにって言われていてね」
「え?」
涼香は驚いて顔を上げた。
「孫って……宏樹さんに?」
「そうさ、だからくれぐれも気を付けてくれよ。まあ、あの子も失踪しちまったし、もう関係ないだろうけど」
女性はそれだけ言うと、さっさと家の中へ戻って行ってしまう。だが去り際に「あの爺さんもきっと、カジリ様のせいで」と、ぶつぶつ言っていたのが聞こえてしまった。
取り残された涼香は、呆然としたままその小さな箱を見つめていた。
(お爺さん、どうして宏樹さんにこれを見せないようにって言ったんだろう)
不安な気持ちを抱えながらも、とりあえず大沼の家を後にした。
中に何が入っているのか、とても気になって仕方がない。そっと中身を確認してみると、入っていたのは一冊の日記帳らしき物と、ビデオカメラだった。型は一昔前の物で、充電が切れているのか電源が入らない。
どうしてこんな物を預けていたのが不思議だったが、ここでは中身を確認することもできない。
とりあえず帰ってからからゆっくり調べようと思い、涼香は足早に家へと戻るのであった。
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