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1 ある夏の暑い日
うだるような暑さが朝から続いていた。
田舎の片隅にある古い中学校の校舎にも冷房設備は存在しているのだが、残念ながらこの教室に設置されている物は最近調子が悪いらしく、あまり効き目がない。
白石涼香は外から聞こえてくる蝉の鳴き声にうんざりしながらも、一人帰り支度をしていた。
「ね、カジリ様の話ってマジなのかな?」
すぐ近くの席から、女子生徒のそんな声が聞こえてきた。そこにはほんのわずかな怯えと、どこか興奮したような響きが含まれていた。
「この時期になると親がうるさいよね。カジリ様に祟られるから、暗くなったら外には出るなって」
「いつまで信じてんだろうね。妖怪? なんて、いるわけないのにさ」
あははと笑っている彼女たちの声を、涼香の耳はなんとなくとらえていた。
カジリ様――この村に暮らしている人間なら、誰しもその名前を耳にしたことがある。
いわゆる土地神様という存在で、その見た目は巨大な獣のようだとか、角の生えた鬼だとか言われている。
カジリ様は村外れにある森の中に住んでおり、大雨による洪水や土砂崩れといった災害から村を守ってくれたことがあるらしい。
だがその一方で、カジリ様の怒りを買った人間は恐ろしい祟りを受けるという噂もあった。例えばある男が酔っ払った拍子にカジリ様の祠に粗相をしてしまい、次の日には全身を何かに食いちぎられたかのような無残な姿で発見されたという話がある。
他にも、村の子供が夜遅くに森の中で遊んでいると、突然木々の間から現れたカジリ様に捕まり、そのまま森の奥深くへと連れ去られてしまうのだとか。
そういった話が語り継がれた結果、いつしかカジリ様は村の守り神であるのと同時に、人を食べる妖怪として知られるようになったのだ。
今はその森も立ち入りが禁止されており、近づこうとする者も滅多にいない。
「でもさ、もし本当にいたとしたらどうする?」
「えー、怖いこと言わないでよ」
そう言いながらも、彼女たちも本気で信じているわけではないようだ。二人はくすくすと笑い合い、楽しげな雰囲気だ。
なんとなく涼香は溜息を吐いた。
神様なんて言われていても所詮はただの言い伝えである。
この村では古くから恐れられている存在なのは間違いないが、涼香自身、そんな神様がいるとは思っていなかった。
ただカジリ様を蔑ろにすると村の大人がうるさいから、変なことは言えないが。
涼香は鞄に教科書を入れ終えると席を立った。今日は部活もない日だし、早く帰ってゆっくりしよう。
「涼香!」
廊下を出ようとしたところで、涼香は声を掛けられた。振り返ればそこに立っていたのは同じクラスの男子生徒で、彼はにこやかに微笑みながら近づいてくる。
「一緒に帰ろうよ」
彼――三木祐介の提案に、涼香は頬を少し染めてこくりと頷いた。
「う……うん。いいよ」
照れた様子を見せる涼香に対して、彼は満面の笑顔を見せた。
学校を出ると、途端にセミの鳴き声が大きく聞こえ始めた。夏の風物詩とはいえ、こうも騒々しく鳴かれると暑苦しい。
そんな中でも、祐介と一緒に下校している今の状況に涼香の心は弾んでいた。
涼香の一家は去年この村に引っ越して来たばかりだ。
転校したての頃は不安でいっぱいだったのだが、そんな彼女に優しく接してくれたのが祐介だ。
彼はスポーツ万能で格好良く、性格も明るくて誰からも好かれている。それこそ女子生徒からはとても人気がある少年で、涼香も密かに憧れていた相手だった。
そんな彼に告白されたのは、つい先日のことだった。
涼香は自分の外見にあまり自信がない。
特別に綺麗な顔立ちをしているわけではないし、痩せっぽっちで胸だって小さい。劣等生ではないものの、特別成績が良いわけでもないのだ。
こんなにも地味で目立たない、つまらない女を彼が気に入ってくれるなんて、奇跡に近いことだと思う。
少なくとも、クラスにはもっと可愛い女の子たちがいるのだから、彼が自分を選んでくれたことが涼香には未だに信じられないくらいだ。
自分なんかが急に祐介と付き合い始めたりしたから、きっと周りからしたら面白くないだろうと思っていた。だけど周囲の反応は意外なもので、みんな涼香のことを祝福してくれたのだ。
(私って、ほんと幸せ者だな)
涼香はしみじみとそう思った。
彼と付き合い出してからは自分に自信がついたように思う。そのおかげか性格も明るくなったねとよく言われるようになったし、成績も上がって友達も増えた。本当にいいことづくめだった。涼香にとって、彼の隣にいることが何よりの幸せなのだ。
まだ手を繋ぐことすら緊張してしまうけれど、いつかは慣れる時が来るのだろうか。
「ねぇ、涼香」
ふいに祐介が口を開いた。
「よかったら、今度二人で――」
彼が何か、おそらくはデートのお誘いの言葉を言おうとしたその時だ。
「あー! 涼香が男と歩いてるー!」
突然背後から声がして、涼香は頭を抱えたくなった。
振り返ると、後ろからランドセルをがちゃがちゃいわせながら一人の男の子が田舎道を駆けてくる。
涼香は小さく溜息を吐いた。
「……何よ、拓哉」
拓哉と呼ばれたその少年は涼香のすぐ傍まで来ると、にやにやと笑いながら二人を見上げてくる。
「お二人共、今日も仲良しでございますねえ」
ませた口をききながら、彼はひょいっと涼香の隣に並んでくる。その目はいつものように悪戯っぽく輝いていて、涼香は思わず顔をしかめた。
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