16 遺品

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16 遺品

 涼香が気付いた時には、すでに宏樹は家からいなくなっていた。  悪い予感がして大慌てで村中を捜しまわったが、どこにも愛する夫の見当たらない。涼香は気が気ではなく、村人たちにも声を掛けて回った。  やがて、宏樹があの森の中に一人で入っていったという目撃情報を得た。彼はまるで何かに導かれるようにして森の方へ進んでいったらしい。彼の姿を見たという村人も慌てて後を追いかけたが、宏樹はあっという間に木々の向こう側へと吸い込まれて消えてしまったのだという。 「そんな……どうして?」  まるで神隠しにでもあったかのように彼の姿は忽然と消え去り、どれだけ捜しても見つからない。涼香は途方に暮れた。 「お母さん、お父さんは?」  拓海がすがるように尋ねてくる。涼香は震える声をおさえながらどうにか誤魔化しの言葉を口にした。 「お父さんは急にお仕事で呼び出されて、村を離れているの。すぐに戻って来るわよ」  そう言うのが精一杯だった。胸が締め付けられる思いをしながら、涼香は気丈に振る舞うほかなかった。  ――もしかしたら、彼はカジリ様に祟られてしまったのかもね。  そんな噂が囁かれているのを耳にした。  剛の妻である仁美が、カジリ様の祠に粗相をしようとした。だからその身内である宏樹は、カジリ様に祟られてしまったのではないか……という憶測だ。  根拠のない噂話ではあるものの、宏樹が消えたという事実そのものは変えられない。  あの森で行方不明になった弟のことが、嫌でも頭によみがえってくる。 (こんなことになるのなら、この村に戻って来るんじゃなかった!)  後悔しても遅いことはわかっていたが、やはり考えずにはいられない。せめて兄が仁美を連れて村を出て行く前に、一緒にここから逃げ出してしまうべきだったのだ。 「涼香……大丈夫かい?」  父が心配そうに声をかけてきた。涼香は我に返り、無理やり笑顔を作る。 「うん、大丈夫」  本当は大丈夫ではなかったが、親を心配させるわけにはいかない。しかし父は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。 「ごめんな涼香。お前は父さんを心配して、帰省してくれたんだろう? それなのに、こんなことになってしまって」  涼香は慌てて首を振った。 「お父さんは悪くないよ」 「そうは言うが、やっぱりお前たちに無理を言って村に呼び出すべきではなかったんだ。せめてすぐに帰してやるべきだった」  父はそう言って肩を落とした。  おそらくは父も、拓哉が森で行方不明になった時からこんな風に自分を責めていたことだろう。涼香たち一家がこの村に越して来たのは、そもそも父の仕事の都合によるものだった。  この村に住みさえしなければ、拓哉が行方不明になることもなかったはずだ。ここのところ父の具合が悪かったのも、その罪悪感に起因しているのかもしれない。 「……大丈夫よお父さん。警察には相談したし、きっとすぐに宏樹さんを見つけてくれるから」  涼香は精一杯の笑顔でそう言った。実際、警察にはもう森を捜索をしてもらった。だが未だに宏樹は見つかっていないし、それどころか手掛かり一つ見つけられていない。  ただの家出なのではないかと、警察からはそんなことを言われた。確かにそのほうが辻褄は合うと思う。少なくとも、森に暮らす神様のせいでいなくなった、なんて馬鹿げた考えよりもよっぽど現実的だ。  けれど、涼香はどうしても宏樹の失踪がただの家出によるものだとは考えられなかった。  何か良くないことが起こっているという、漠然とした不安感がどうしても拭えない。 (どうか無事でいて……宏樹さん)  涼香にできることは、ただ祈ることだけだった。 「――なぁ、あいついなくなったんだって?」  祐介にそう声をかけられたのは、その日の昼過ぎのことだった。涼香は気分を紛らわすために拓海と一緒にスーパーへ買い物に行っていたのだが、帰り道でばったりと祐介に出会ったのだ。  この男と会話をしたくなくて、涼香は逃げるように歩き出そうとする。だが彼は涼香の腕を掴むと、強引に引き寄せた。 「可哀想にな。そんな無愛想にしてるから、大事な夫に逃げられるんだよ」  涼香は祐介を睨みつける。こんな反応をしたら本当に夫に逃げられた惨めな女のように見えるだろうが、それでもこいつとこれ以上会話をするつもりはなかった。 「……子供の前で変な話はやめて。ほら拓海、行くよ」  涼香は祐介の手を振り払うと、拓海の手を引いてその場から立ち去ろうとする。 「子供ならそいつじゃなくても、いくらでも作れるだろ。俺も協力するからさぁ」 「ふざけないで!」  涼香が声を荒げると、祐介はにやついた笑みを浮かべた。その気味の悪い笑顔を見て、怒りと同時に背筋が凍るような寒気を感じた。この男は無神経で、人の嫌がることを平気でする最低な人間だ。  ついこの間まで若くて綺麗な女性と結婚するつもりではしゃいでいたくせに、今では涼香に目をつけて近づいてくるようになった。 「やめてよ……もう、あんたなんかと関わりたくない」 「何言ってんだよ。お前みたいなババア相手にする男なんていないだろ? 俺なら結婚してやってもいいぜ?」 「いい加減にしてよ!」  涼香は力いっぱい祐介の頬を叩いた。 「痛ぇな……何するんだよ」  祐介は叩かれた頬を押さえながら涼香を睨むと、彼女に掴みかかってこようとした。 「やめろー!」  甲高い声を上げて、拓海が祐介に体当たりする。突然のことに驚いたのか、祐介はバランスを崩してよろけてしまう。 「いって……こいつ!」  祐介は怒鳴り声を上げる。だが彼は泣きながらも怯まずに抵抗を続けていた。 「お母さんをいじめるなー!」  拓海が叫ぶ。その声に、涼香は胸が熱くなるのを感じた。 「拓海!」  涼香は祐介を突き飛ばすと、慌てて息子を庇った。 「てめぇ、ふざけんなよ……!」  低い声で呟く彼の目は血走り、まるで別人のようだ。涼香は拓海をぎゅっと抱き締めながら、精一杯声を張り上げた。 「誰か来て! 助けて!」  大声で叫ぶと、祐介は顔を歪める。いくら田舎とはいえ、これだけ騒いでいたら近所の人が何事かと駆けつけてくるだろう。 「くそがっ……!」  祐介は吐き捨てるように言うと、その場から走り去っていった。涼香は安堵感から力が抜けてしまいそうになる。 「お母さん、大丈夫?」  拓海が心配そうに見上げてくる。涼香は安心させるように微笑むと、息子の頭を撫でた。 「うん、大丈夫だよ。ありがとう」  勇気を出して祐介に立ち向かっていった拓海の姿を見て、かつて拓哉も同じように自分を助けようとしてくれたことを思い出していた。  結局は返り討ちにされてしまったけれど、小さな体で一生懸命に涼香を守ろうとする弟の姿が今も心に焼き付いている。 「さ、帰ろう。拓海」  涼香がそう言って歩き出すと、拓海は元気よく返事をしてついてくる。  あの時、自分は拓哉を守ることができなかった。でもせめてこの子だけは、何があっても絶対に守ろう。涼香はそう心に決めたのだった。
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